第1話 軽すぎる引き出し

引き出しが、軽かった。
安藤誠一は、書斎の机に向かったまま、開けた引き出しの取っ手から手を離せずにいた。指先に残った感触が、いつものものと違っている。木の箱を押し出したときに返ってくる、わずかな抵抗がなかった。三十年分の日記帳は、紙の束であると同時に、毎晩そこへ置いてきた自分の時間だった。なくなれば、引き出しはこれほど容易く動くものなのかと、誠一は初めて知った。
外では、坂の下を走る車の音が薄くなっていた。夕食のあと、妻の美佐子が食器を洗う音も止んでいる。開け放した障子の向こうには、夏の終わりの夕焼けが残っていた。赤いというより、何度も洗った布のような色だった。海から上がってくる湿った風が、書斎の床に落ちた蚊取り線香の灰をわずかに揺らしている。
引き出しの中には、領収書の束、古い封筒、替え芯の入った小箱、退職祝いに職場からもらった懐中時計のケースが残っていた。どれも、誠一が決めた位置から動いていない。領収書は発行年の古い順に左から並べ、封筒は宛名の見える面を上にする。懐中時計の箱は、角を机の奥に合わせる。三十七年間、清掃事業所で片づけと確認を仕事にしてきた彼にとって、物の位置には理由があった。
日記帳だけが、その理由ごと抜き取られていた。
誠一は一度、引き出しを閉じた。それから、また開けた。中身は変わらない。二度目に確かめれば現実になることがあると、長年の習慣で知っていた。だが、三度目に開けても、日記帳は戻らなかった。
机の上には、半分ほど残った緑茶があった。退職式から帰ってすぐに淹れたものだ。職場でもらった花束は居間の隅に置いたままで、包み紙の端が少し開いている。式の最後に所長が言った「長い間、お疲れさまでした」という言葉が、まだ耳の内側に残っていた。誠一はその言葉に、うまく頭を下げられなかった。疲れたというより、長く続けていたものを急に手放した感じがした。
その夜も、日記を書くつもりだった。
靴を脱いだら揃える。上着を掛ける。書斎の窓を指一本分だけ開ける。机の左から鉛筆、万年筆、湯呑みの順に並べる。そして、その日の出来事を四、五行書く。退職した、花束をもらった、帰宅した。そうして一日を終わらせるはずだった。
けれど、日記帳がない。
誠一は机の上に置かれた黒い万年筆を取り上げた。軸の細かな傷を親指でなぞる。書き慣れた重さは手に馴染んでいるのに、書く場所だけが消えていた。
その万年筆の下に、便箋の切れ端があった。
白い紙の角は、机の木目に沿うよう正確に揃えられている。誰かが急いで置いたのではない。置いたあと、指先で位置を整えたのだろう。誠一は紙を持ち上げず、まず目だけで文字を読んだ。
「読まないで。これは私のためじゃない」
短い一行だった。
美佐子の字だと、すぐに分かった。家計簿の数字を書くときより、線の端が硬い。台所の買い物メモなら、醤油、豆腐、洗剤と、文字の間に生活の隙間がある。これは違った。言葉を誰かに渡すためではなく、何かを封じるために書かれた字だった。
誠一は便箋をつまみ上げた。紙の裏には、薄い焦げ茶色の筋がついている。汚れなのか、古い筆圧の跡なのか判別できない。鼻を近づけると、蚊取り線香と古紙の匂いの奥に、ほんのわずか、乾いた焦げの匂いがした。
八月二十一日。
その日付が、頭の中に浮かんだ。
三十年前の八月二十一日。潮江市駅前で火災があった日だ。
誠一は眉間に力を入れた。火災という言葉を、今まで自分はどれほど日記に書いたのだろう。数えたことはない。ただ、毎年その日が近づくと、昔の帳面を開く回数が増えた。駅前、火、文具店、帰宅。そうした単語が、文章になりきれないまま頁の端に残っていた。
だが、日記帳は消えている。
誰かが三十年分をまとめて持ち去り、残したものがこの一行と、八月二十一日を思わせる紙の匂いだけだとすれば、これは単なる盗難ではない。物を盗む人間は、領収書や懐中時計の箱を残していかない。まして、机の鉛筆を一本だけ斜めにしたままにはしない。
誠一は左端を見た。
三本並べていた鉛筆のうち、真ん中の一本が斜めになっている。削り口が窓の方を向いていた。誠一は鉛筆を手に取って、元の角度に戻そうとした。だが指先が止まった。
触れてしまえば、何かを消す気がした。
退職の日、職場の同僚たちは、誠一のことを「几帳面な人」と言った。小松由紀だけは、笑いながら「片づけてるんじゃなくて、乱れたものを見ないことにしてるだけでしょう」と言った。誠一は聞こえないふりをした。由紀の言葉は乱暴だったが、時々、引き出しの底に沈んだ小石のように残った。
書斎の戸が、廊下の風でわずかに動いた。
誠一は反射的に背筋を伸ばした。音のした方を見る。誰もいない。障子の隙間から、居間の明かりが細く伸びている。美佐子は台所にいるはずだった。
彼は立ち上がり、引き出しの奥へもう一度手を入れた。指先に触れたのは、均一な埃だった。日記帳が置かれていた場所だけ、埃の層が途切れている。だが、抜き取られた跡は乱れていない。日記帳は引きずられたのではなく、上から持ち上げられている。重いものを扱い慣れた手つきだった。
その考えが浮かんだとき、台所から茶碗を置く音がした。
軽い音だった。
けれど誠一には、遠くの倉庫で何かが崩れた音のように聞こえた。
誠一は便箋を持ったまま、台所へ向かった。廊下の床板が一枚、足の下で鳴る。坂の上に建つこの家は、長年の湿気を木の内部に抱えていた。歩く場所によって鳴る音が違う。美佐子なら、誰がどこを歩いたか、床の音だけで分かることがある。
台所では、美佐子が流しの横で布巾を畳んでいた。
夕食の皿はすでに片づき、欠けた茶碗が二つ、棚の手前に並んでいる。結婚したばかりの頃から使っている茶碗だった。縁の欠けた方を誠一が使い、もう一方を美佐子が使う。長い年月のうちに、二人ともそれを言葉にしなくなった。
美佐子は誠一を見た。驚いた顔をしなかった。
ただ、布巾を一度折り、もう一度折り直した。
「書斎に入ったか」
誠一が訊くと、美佐子はすぐには答えなかった。蛇口を閉め、濡れた手を布巾で拭く。布の擦れる音が、やけに細かく耳に残った。
「入ってない」
「日記がない」
「……そう」
「三十年分、全部だ」
美佐子は、畳んだ布巾の角を親指で押さえた。力が入りすぎたのか、布の繊維が白く盛り上がる。
「なくしたんじゃなくて?」
「なくしたなら、どこかにある。引き出しから抜かれている」
「あなたが動かした可能性は」
「ない」
「昨日、退職式のあとで酔っていたでしょう」
「酒は飲んでいない」
「そういう意味じゃないわ」
美佐子の声は静かだった。静かすぎて、かえって逃げ場がなかった。
誠一は手にしていた便箋を、流し台の脇に置いた。美佐子の視線がそこへ落ちる。ほんの一瞬だったが、確かに見た。彼女は紙を見て、すぐに布巾へ目を戻した。
「これを書いたのは、お前だな」
「そうね」
「日記を持っていったのもか」

美佐子は返事をしなかった。返事の代わりに湯呑みを出し、急須を温めるために少量の湯を注いだ。湯気が立ち、二人の間に薄い白さが生まれる。
「美佐子」
「お茶、飲むでしょう」
「今はそれどころじゃない」
「あなたは、そういうときほどお茶を飲むわ。手が震えるから」
誠一は自分の手を見た。震えてはいない。少なくとも、目で分かるほどではなかった。だが、万年筆を持っていたとき、軸が指の中でわずかに滑ったことを思い出す。
「日記はどこだ」
「答えたら、どうするの」
「読む」
「読まないで、と書いたでしょう」
「これは私の日記だ」
「だからよ」
美佐子は湯呑みに茶を注いだ。薄い緑色の液体が、器の内側で小さく揺れた。
「あなたのために書いたものなら、あなたが読むのは当然だと思う。でも、あれはもう、あなたのためだけに書かれたものではないでしょう。書いた人があなたでも、書かれなかった人がいる。書かれなかった夜がある。書かないことで残したものもある。そういうものまで、あなたの記録だからといって、好きに開いていいの?」
「なら、何のために持ち出した」
「持ち出したのは、読ませないためじゃない」
「では何のためだ」
美佐子は答える前に、誠一の湯呑みを少しだけ内側へ戻した。いつもの癖だった。机の上でも、台所でも、物を置くときは半歩分だけ奥へ寄せる。落ちないようにするためだと、昔は言っていた。
「あなたに、読めない状態を知ってほしかったの」
「意味が分からない」
「分からないまま、ずっと書いてきたでしょう」
その言葉は、声を荒らげていないのに、誠一の胸の深いところへ入った。
「一日のことを書いて、靴を揃えて、窓を少し開けて、机の物を元に戻す。そうすれば、どんな日でも終わると思っていた。でも、終わらなかった日がある。あなたは知っているはずよ」
「何のことだ」
「知らないふりをしているだけ」
美佐子はそれ以上続けなかった。誠一も、すぐには言葉が出なかった。台所の時計が一秒ずつ音を立てている。若い頃なら、ここで何かを言い返していたかもしれない。だが六十を過ぎた身体は、怒りを声に変えるより先に疲れを覚える。手の甲が乾き、指先が冷えていく。
「八月二十一日か」
ようやくそう言うと、美佐子の指が湯呑みの縁で止まった。
「駅前火災のことか」
「その話は、もうしないで」
「日記を持ち出したのは、そのためだろう」
「違う」
「では何だ」
「あなたが、あの夜を自分の都合のいい順番に並べ替えているからよ」
美佐子は初めて誠一を正面から見た。目の奥に怒りはなかった。恐れと、諦めきれない気持ちが同じ場所にあった。
「あなたは何もかも、あとから片づけるでしょう。見たものを見なかったことにして、聞いたことを聞かなかったことにして、それでも領収書みたいに日付を揃える。そうしていれば、誰にも迷惑をかけないと思っている。でも、片づけられた側は、なくなったことにならないのよ」
誠一は湯呑みに手を伸ばした。茶はもうぬるかった。口に含むと、渋みだけが舌に残る。
「俺が何を見た」
「それを、あなた自身に思い出してほしいの」
「お前は知っているのか」
美佐子は答えなかった。
その沈黙は、知らない者の沈黙ではなかった。知らないなら、もっと早く首を振る。分からないなら、日記を持ち出す必要もない。美佐子は知っている。知っていて、これまで言わずにいた。
誠一は責めようとした。だが、責めるための言葉が見つからなかった。長い年月のあいだ、美佐子は日記を書くための机を拭き、湯呑みを欠かさず置き、遅く帰った夜には明かりを一つ残していた。彼が書けない日を、書かなくても済むように暮らしを整えていた。
それが守ることだったのか、隠すことだったのか、誠一にはまだ分からない。
「明日、探す」
誠一が言うと、美佐子は視線を落とした。
「誰を?」
「日記を持っていった人間を」
「日記を探すだけなら、たぶん見つからないわ」
「なら、何を探せばいい」
美佐子は返事の代わりに、障子を少し開けた。外から海風が入り、台所の薄いカーテンが膨らむ。坂の下で、知らない家の窓が一つ、明かりを消した。
「あなたが、あの夜に置いてきたもの」
それだけ言って、美佐子は布巾をたたみ始めた。
誠一は便箋を取り上げた。紙の端を指でなぞる。書かれた一行の下に、まだ続きがあるような気がした。読まないで。これは私のためじゃない。その言葉は、日記を守るためではなく、誰かを記録の中からもう一度呼び戻すために置かれているのかもしれなかった。
書斎へ戻ると、夕焼けは消えていた。開けた窓から、海の塩気を含んだ風が入ってくる。机の左端で、斜めになった鉛筆がまだそのままになっていた。
誠一は手を伸ばした。
今度は、元の位置へ戻さなかった。
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