第7話 灯籠の前夜

夏祭りの準備が始まると、町はいつもより少しだけ忙しくなる。
商店街の軒先では、赤い提灯が一本ずつ吊られ、店の前に積まれた段ボールから、灯籠流しに使う小さな灯りが取り出されていた。紙の筒を扱う人の手は、商品を並べるときより慎重だった。蝋燭を入れる窪みを確かめ、破れがないか指先でなぞり、欠けたものを別の箱へ移していく。
私は通りの端に立ち、その作業を見ていた。
夕方だというのに、石畳には昼の熱が残っている。靴底から上がってくる温度が、足の裏を通って身体の奥へ沈んでいく。海からの風はあるが、湿った髪を頬へ貼りつける程度の弱さだった。蝋燭の匂い、魚を焼く油の匂い、古い木箱の匂い。そのどれにも、三十年前の夏の夜と同じ潮気が混ざっている。
「立ったままだと、また喉が乾きますよ」
隣で、藤野真帆が言った。
彼女は古い地図帳を開き、防波堤までの道を指で追っていた。祖父から譲られたという地図帳は、何度も開かれたせいで背が柔らかくなっている。頁の端には、色の違う付箋が何枚も重なっていた。
「道は、もう分かっているでしょう」
「道だけなら。三十年前と今では、倉庫の位置も裏口の幅も違います。だから、変わっていないものを見ています」
「変わっていないもの?」
「鐘の時刻です」
真帆の指が、地図の端で止まった。
「港の防波堤の鐘は、今年も同じ時刻に鳴る。祭りの開始を知らせる時刻も、灯籠を流し始める合図も、昔からほとんど変わっていません。人は入れ替わっても、時刻だけは残る」
「時刻が、何を証明するのですか」
「人がどこにいたかを、少しだけ狭めます」
真帆はそう言って、地図帳の頁を閉じた。閉じる前に、紙の端を何度も揃える。以前なら、その動作の速さに私は苛立ったかもしれない。けれど今は、彼女が急いでいるのではなく、崩れたものを手元から一つずつ戻そうとしているのだと分かる。
「立花さんから返ってきたネガは、まだ全部ではありません」
「ええ」
「影山さんが返した日記の断片も、同じです」
その名前を聞くと、胸の奥に薄い冷気が差し込んだ。
影山誠は、三十年前の夜から私のそばにいた。図書館の資料を運び、寄贈品の受け取りに立ち会い、町内会の書類を整え、誰かが困る前に手を出す男だった。日記箱を持ち去ったあと、彼はその一部だけを返してきた。波打った頁、焦げた縁、途中で切り取られた日記の断片。返還というより、持っていたもののうち、返しても支障がないと判断したものだけを差し出したように見えた。
書斎の机には、今もそれらを並べている。
紙の角はそろわず、黒い焦げ跡が頁の途中で途切れている。私は何度も順番を直したが、文章はつながらなかった。日付の間に空白があり、文章の主語が抜け、名前が現れるはずの箇所だけが切り取られている。
それでも、紙には私の筆跡が残っていた。
私は、毎晩それを読み返している。
「日記箱が返ってきたとき、倉橋さんは何を思いましたか」
真帆が訊いた。
私はすぐには答えなかった。
通りの向こうで、子どもが灯籠を一つ落とした。紙の筒が石畳に転がり、母親らしい女性が慌てて拾い上げる。破れていないことを確かめてから、女性は子どもの手へ灯籠を戻した。叱る声は聞こえなかった。
「戻ってきたとは思いませんでした」
「では?」
「戻された形をしているだけだと思いました」
「どういう意味ですか」
「日記は、箱に収まっていれば元に戻るものではありません。書いた頁が途中で切れていれば、返ってきても切れたままです。失った時間は、箱へ戻しただけでは埋まりません」
真帆は黙った。
「でも、返ってきた断片は必要です」
「はい」
「それがなければ、私は自分が何を書いたかも分からない。何を書かなかったかを考えることもできない」
「だから、空白を見つけるために読む」
「そうです」
私はガラス瓶の麦茶を一口飲んだ。夫が家を出る前に持たせてくれたものだった。薄い瓶の外側には水滴が浮き、掌へ静かな冷たさが伝わる。
「今朝、夫が言いました。『返ってきたものだけで、戻ったと思うな』と」
「珍しく、厳しいことを言いますね」
「いつも、言わないだけです」
真帆は少し笑った。
「ご主人は、倉橋さんが調べていることをどう思っていますか」
「何も聞きません」
「反対している?」
「いいえ。反対なら、もっと何も聞かないふりをするでしょう」
私は瓶の蓋を閉め、手のなかで向きを直した。
「今朝、出かけるときにタオルを渡されました。風が出ているから汗をかく、と。私が礼を言うと、帰りに電話をくれと言いました。図書館へ寄るとは言っていないのに」
「帰ってくる場所を、先に用意しているんですね」
「そうかもしれません」
「それは、記録には残らない気遣いです」
「残らないとは限りません」
真帆が私を見る。
「私の日記には、何度も書いてあります。夫が黙って麦茶を置いたこと。雨の夜に傘を玄関へ出しておいたこと。私が資料を読みふけって夕食を忘れたとき、冷めた味噌汁を温め直してくれたこと」
「名前は?」
「書いてあります」
「では、その人のことは残せた」
「名指しできることと、書けることは違います」
言ってから、私は自分の言葉に引っかかった。
立花が言ったことと同じだった。見たものを、書けるとは限らない。名前を知っていても、名前を紙へ置けないことがある。だが、夫の気遣いを書けたのは、それが誰かを傷つけるものではなかったからなのか。違う。私はただ、書いてもよいと自分に許しただけだ。
書くことは、技術ではなく選択だった。
その事実を認めると、胃のあたりが重くなった。
「倉橋さん」
「はい」
「今日は、前夜の確認だけにします」
「分かっています」
「明日、灯籠を流すときに、関係者を集めます。佐伯さんも来る。立花さんは、現像できたものを持ってくると言っていました。椎名さんには、港の動線を確認してもらうよう頼んであります」
「久保田さんは?」
「来るそうです」
「影山さんは」
真帆は答えなかった。
彼女の指が、地図帳の表紙を押さえたまま動かなくなる。
「呼びません」
「なぜですか」
「呼んでも来ないと思います」
「それでも、呼ぶべきではありませんか。日記を持ち去った人です。彼がいなければ、返ってきた断片がどこから来たのか分からない」
「来れば、話すと思いますか」
「分かりません」
「影山さんは、話す前に相手がどこまで知っているかを確かめる人です。何を言うかより、何を言わずに済むかを考える。明日の場に来れば、また沈黙の置き場所を決めようとするはずです」
「それでも、本人の言葉が必要です」
「本人の言葉を待つことと、本人に場を握らせることは違います」
真帆の声は静かだったが、語尾に固さがあった。
「私は、影山さんを責めるために集まるのではありません。誰がどの記録を動かし、何を守ろうとしたのかを確かめるためです。けれど、守ろうとした人が、最後まで他人の選択を奪うなら、その場にいる意味がなくなる」
「あなたは、影山さんを許すつもりがないのですね」
「許すかどうかは、私が決めることではありません」
「誰が決めるのですか」
「日記を持ち去られた人と、消された名前の本人です」
私は返事をしなかった。
その二つは、同じ人物かもしれない。あるいは違うかもしれない。まだ分からない。だが、分からないままでも、明日、私は防波堤へ行くことになっている。
通りの先から、鐘の音がした。
時刻には早い。けれど、港の防波堤からではなく、商店街の祭礼用に吊られた小さな鐘が、風で揺れたのかもしれない。音は一度だけで、すぐに蝋燭の匂いと人の話し声へ溶けた。
私の身体は、それでも過去へ戻った。
濡れた石畳。
図書館裏口の木の扉。
片方だけ泥に濡れた靴。
声にならない息。
そして、私の手元へ置かれた白い紙。
名前を書かないでください。
誰が言ったのかは、まだ思い出せない。
「大丈夫ですか」
真帆が言った。
「今度は、尋ね方を変えましたね」
「はい。『行けますか』ではなく」
「どちらも同じです」
「違います。行けるかどうかは、本人が決めることです。大丈夫かどうかを他人が決めてはいけない」
私は真帆を見た。
「久保田さんのメモを覚えているのですね」
「覚えています。本人が言わないことを、こちらで決めない。あの一文を見てから、ずっと考えています」
「あなたは、考えたことをすぐに書きます」
「だから、考えが変わったら書き直せます」
「私は、書き直すのが嫌いです」
「知っています。頁を破るより、書いたことを残して訂正するほうが、倉橋さんには向いていると思います」
「訂正線が残るでしょう」
「残ればいいんです。間違いがあったことも、直したことも、後から読める」
真帆は地図帳を閉じ、鞄へしまった。
「消しゴムで消した紙は、光に透かすと跡が見えます。だから、消した人が何もなかったことにできたと思っても、紙のほうは忘れていない」
「紙は、人より記憶がよいのですね」
「紙は、自分の意思で忘れません」
その言葉を聞いたとき、私は胸の奥で何かがゆっくりほどけるのを感じた。紙は人を裏切らない。そう信じてきた。だが紙が正直なのではない。人間が紙へ残したものを、紙は勝手に選び直さないだけだ。
選び直してきたのは、いつも人間だった。
町の人々は、灯籠の蝋燭へ火を入れ始めていた。小さな炎が紙の内側で揺れ、夕暮れの通りに黄色い点を増やしていく。明るいはずなのに、その光景には不穏なものがあった。灯籠は流されるために作られ、いずれ水の上で離れていく。手元にあるあいだだけ、誰かの指が支えている。
「明日は、何を話すつもりですか」
真帆が尋ねた。
「まだ決めていません」
「決めていない?」
「順番を戻してからでなければ、話せません」
「倉橋さんらしい答えです」
「でも、明日までに一つだけ決めます」
「何を」
私は防波堤の方角を見た。建物の隙間から海が見える。夕暮れの水面は、空の色をそのまま受け取らず、鈍い銀色に沈んでいた。
「私が見たものを、私の言葉で話すことです」
真帆は何も言わなかった。
「久保田さんがどう言ったか、立花さんが何を撮ったか、椎名さんがどこに立っていたか。それらは必要です。でも、最後に私が見たことまで、誰かの記録から借りるつもりはありません」
「思い出せない部分があっても?」
「思い出せない部分は、思い出せないと話します」
「名前が出てこなくても?」
「名前が出てこないと話します」
「それで、誰かが傷ついても?」
私は瓶の水滴を親指で拭った。皮膚に残った水が、夕方の風ですぐに乾いていく。
「傷つかないように、私が先に消すことはしません」
真帆は、ようやくうなずいた。
「それなら、明日、聞きます」
私は返事の代わりに、通りの灯籠を見た。
その夜、家へ戻ると、書斎の机には、返ってきた日記の断片が並んでいた。夫は夕食のあと、何も言わずに麦茶を冷蔵庫へ戻していた。朱塗りの湯呑みは洗われ、いつもの水切り籠の右端に伏せてある。
私は一冊の断片を机の中央へ置いた。
頁には、三十年前の八月二十三日の日付があった。本文は途中で途切れている。
午後七時。鐘が鳴った。裏口へ行くと――
そこから先がない。
私は何度も、その途切れた行の下へ指を置いた。紙のざらつきが皮膚へ伝わる。以前なら、切り取られた部分を想像で補おうとしただろう。けれど今は、補わずに見つめた。
空白は、まだ空白のままだった。
私は新しい紙を一枚取り出し、鉛筆を削った。先端の木屑が机の上へ落ちる。拾おうとして、手を止めた。小さな屑まで整えようとする癖が、今日は少しだけ遠くにあった。
紙の上に、日付を書く。
その下に、今日見たことを書いた。
灯籠は、流す前には誰かの手に支えられている。手を離したあと、灯りは水の流れに従う。けれど、どこへ流れるかを決めるのは、水だけではない。最初に置いた場所、風の向き、岸の形、見送る人の手つき。そのすべてが灯りの行方に関わっている。
私はそこで筆を止めた。
比喩を書くつもりはなかった。けれど、ほかに書き方がなかった。
机の端に、白いメモ用紙が置かれている。抜けた文集の頁の代わりに挟んだものだ。私はそれを裏返した。何も書かれていない。白い紙は、沈黙そのもののように見えた。
私は鉛筆を持ち上げ、その紙の中央へ、ゆっくりと一行を書いた。
明日、私は自分が見たことを話す。
文字は少し震えた。
私はその震えを消さなかった。
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