6話 焼けネガの赤い灯り

片瀬写真館の看板は、海から来る風に押されるように、わずかに傾いていた。

店を閉めてから何年になるのか、私は正確には知らない。立花栄太は、廃業したあとも建物を手放さなかった。表のガラス戸には白い紙が貼られ、かつて営業時間を書いていた文字の跡だけが残っている。紙の隙間から見える店内は薄暗く、昼の光を受けても、どこか夕方のままだった。

戸を叩くと、しばらくして内側から鍵を外す音がした。

「倉橋さんか」

「突然、すみません」

「突然なのは、いつも客のほうだ」

立花は戸を半分だけ開けた。顔を見せる前に、私の手元へ視線を落とす。鞄の中に入れた資料の形まで見ようとしているようだった。

「入っていいでしょうか」

「帰る理由を先に言ってくれれば、入っていい」

「資料番号四一七について伺いたいのです」

立花は一度だけ鼻から息を吐いた。

「それなら、帰る理由はなくなった」

戸が開いた。

中へ入ると、古い紙と薬品の匂いがした。現像液の刺激は薄れているのに、空気の奥にはまだ残っている。私は呼吸を浅くした。壁際には、レンズの外れたカメラ、金属のトレイ、折れた三脚が並んでいた。物は多いが、乱雑ではない。フィルムケースのラベルはすべて同じ向きにそろえられている。

「写真館を閉めたのに、ずいぶん残っていますね」

「捨てるのが下手なんだ」

「捨てる前に、裏側を見るからでしょう」

立花の目が細くなった。

「誰に聞いた」

「聞いていません。あなたの癖です」

「写真を撮る人間の癖まで分かるとは、司書は便利だな」

「便利ではありません。見たものを、置き場所ごと覚えているだけです」

「それが一番、厄介だ」

立花は店の奥へ歩き出した。靴音が古い床板に吸い込まれ、ところどころ板が低く鳴った。私はそのあとを追った。店の奥には暗室へ続く扉があり、扉の上には赤いガラスの小窓がはまっている。電気は消えているのに、ガラスの向こうだけが薄く赤かった。

「まだ使っているのですか」

「使ってはいない。灯りを点けるだけだ」

「なぜ」

「暗い場所は、暗いままのほうが都合がいいことがある」

立花は扉を開けた。

暗室には、赤い灯りがひとつ点いていた。弱い光が壁と棚を染め、古い水滴の跡まで赤黒く浮かび上がらせている。現像用のトレイには、乾いた薬品の白い膜が張っていた。私はそこへ近づきすぎないようにした。薬品の匂いが喉の奥へ入ると、地下書庫で見た台帳の削除跡が蘇った。

立花は棚の下から革の箱を取り出した。角が擦れ、蓋の金具には青緑色の錆が浮いている。箱を机へ置くと、革が低く軋んだ。

「四一七の写真があるのですか」

「写真が資料番号を持っているわけじゃない。人間が番号を付けた」

「その番号を付けた記録に、あなたの名前がある」

「俺の名前だけじゃない」

立花は蓋を開けた。

中には、薄い紙袋に入ったネガが束ねられていた。袋の端には焼け跡があり、紙が縮れて黒く固まっている。立花はそのうちの一本を、指先で慎重に持ち上げた。フィルムは黒ずみ、ところどころ乳白色に濁っている。

「触らないでください」

「触るつもりはありません」

「そういう顔をしている」

「どんな顔ですか」

「読もうとする顔だ」

立花はネガを赤い灯りの下へかざした。

黒い帯の中に、いくつかの明るい形が浮かんだ。図書館の裏口。扉の脇に積まれた木箱。濡れた石畳。そこから少し離れた場所に、人影がある。

私は息を止めた。

影は一つではなかった。

扉の近くに立つ男。通路を塞ぐような大きな肩。そして、壁際に寄り添うように立つ、細い人影。三人だと思ったところで、さらに奥に、輪郭の薄い人物が浮かんだ。

三人ではない。四人でもない。

暗がりの端に、もう一つの顔があった。

顔と呼べるほどはっきりしていない。それでも、視線だけはこちらを向いている。写真の外へ逃げようとするのではなく、撮影者を見返しているようだった。

私の喉が鳴った。

「この人は、誰ですか」

立花は答えなかった。フィルムの端を押さえ、光の角度を変えた。影の輪郭が少し動き、肩の線と濡れた髪のようなものが見えた。

「分かりません」

「あなたが撮ったのでしょう」

「撮ったのは俺だ」

「なら、分かるはずです。ここにいた人間の顔を、あなたは町の誰より知っている」

「写真に写ったからといって、そこにいた理由まで分かるわけじゃない」

「理由ではなく、名前を聞いています」

立花はフィルムケースを指先で弾いた。乾いた音が、赤い灯りの下で一度だけ響く。

「名前は、写真の外に置いた」

「誰が置いたのですか」

「俺だ」

私は彼の手元を見た。太い指の節に、薬品で荒れた白いひびがある。立花は人の顔を見て、見たものを言葉に変えない男だった。その沈黙は、単に口が重いのではなく、言葉にした瞬間に像が別のものへ変わることを恐れているように見えた。

「この写真は、図書館へ寄贈された三点のうちの一つですか」

「そうだ」

「寄贈者名は空欄になっている」

「空欄にしたのは、俺じゃない」

「でも、あなたは知っている」

「知っていることと、書けることは別だ」

「その言葉は、久保田さんも使いました」

立花の目が、赤い光のなかで細くなった。

「義造に会ったのか」

「はい。会議メモを見せてもらいました。そこには、名前を影山さんに預ける、と書かれていた」

立花の手が止まった。

しばらく、暗室の換気扇だけが低く回っていた。海風の湿気を吸い込めず、機械は古い唸りを続けている。

「影山に預けたのは、名前だけじゃない」

「何を預けたのですか」

「判断だ」

「意味が分かりません」

「分からないままのほうが、あんたには都合がいいんだろう」

私は顔を上げた。

「私が三十年、都合よく分からないままにしてきたと言いたいのですか」

「そう言ってる」

「なら、あなたも同じです。見たものを焼き、残したものを箱に入れ、誰にも渡さずに持っている」

「だから、俺は自分を正しいと思っていない」

立花の声は低かった。だが、これまでで一番はっきりしていた。

「写真を撮ると、撮った側が場を所有した気になる。写っている人間の人生まで、こちらが切り取ったような錯覚を持つ。俺はそれが嫌だった。だが、嫌だと思いながら、あの夜の写真を撮った。撮ったあと、見せる相手を選んだ。残すものと焼くものを分けた。つまり、俺もあの場を所有した側だ」

「なぜ焼いたのですか」

「焼けば、誰かが助かると思った」

「誰が助かるのですか」

「写っていた人間。写っていない人間。写真を見れば、町の者は誰がどこにいたかを知る。知れば、誰かを責める。責めれば、その家族も引きずり出される。あの頃は、そういう順番しか想像できなかった」

「今は違うのですか」

「今も、先のことは分からない」

「では、なぜ残したのです」

立花はネガを見た。

「全部焼いたら、俺まで何も見なかったことになる。焼ける音を聞きながら、それだけは嫌だと思った」

「それでも、焼いた」

「焼いた。だから残ったネガを、証拠と呼ばれるのも、思い出と呼ばれるのも好きじゃない。これは、俺が消せなかった失敗だ」

私はネガのなかの影を見た。

輪郭の薄い人物。裏口の扉。濡れた石畳。写真の端に、白い光が一筋走っている。誰かが急に動いたのか、撮影の直前に灯りが揺れたのかもしれない。

「この人影は、私の記憶にもあります」

「そうだろうな」

「なぜ、そう言えるのですか」

「写真を見る顔をしているからだ」

立花は私を見た。人の顔を正面から見るのに、その輪郭を言葉にしない目だった。

「その人影を知っていますね」

「知っている」

「名前を言ってください」

「言えば、あんたは何をする」

「記録します」

「それで終わりか」

「終わりません。誰がどこにいたのかを、ほかの資料と照合します」

「照合して、ひとつの話にする。久保田は町の話にする。佐伯は事件か事故かに分ける。真帆は空白を埋める。あんたは自分の日記に書く。そうやって、写っている人間をもう一度、誰かの都合のいい場所へ置く」

「それなら、何もしないのが正しいのですか」

「そうは言っていない」

「あなたは、ずっと言葉を選びすぎです」

立花の指が、ネガの端から離れた。

「選ばなければ、誰かが壊れる」

「選んでも、誰かは壊れました」

私の声は、自分の胸の奥から引きずり出したもののようだった。

「名前を消しても、写真を焼いても、日記を書かなくても、三十年という時間は消えませんでした。消えたのは記録だけです。記録が消えたぶん、残った人間が勝手に自分を正当化できるようになった。私も、あなたも、久保田さんも」

立花は黙っていた。

「あなたが守ろうとした人は、記録を消してほしいと言ったのですか」

立花はネガを机へ置いた。

「言っていない」

「では、誰が決めたのですか」

「影山だ」

その名が、赤い暗室の中で重く落ちた。

「影山さんが、写真を焼けと言った」

「正確には、焼けとは言わなかった。『このまま残すと、倉橋さんまで巻き込まれる』と言った」

私は息を詰めた。

「私を?」

「倉橋さんは、あの夜、図書館の裏口にいた。あんたは倒れていた人間を見た。その人間のそばに、誰がいたかも見た。記録に残せば、あんたは証人になる。証人になれば、町の中で暮らしにくくなる。影山はそう考えた」

「だから、私の日記を書かせなかった」

「おそらく」

「おそらくではなく、あなたは知っているのでしょう」

「知っているのは、あの夜のあと、影山があんたのところへ行ったことだ。俺は写真を焼いた。久保田は人を集めた。椎名は港側の通路を閉めた。誰も、あんたに何が見えたかを聞かなかった」

「聞かなかったのではなく、聞かないと決めた」

「そうだ」

立花は初めて、視線を逸らさなかった。

「俺たちは、あんたを守ったつもりだった。だが、守られる側の意思を確かめなかった。守ると言いながら、あんたの口を塞いだ。写真を焼くことも、名前を消すことも、あんたが書かないことも、全部同じだった」

私は胸の奥に手を入れられたような気がした。痛みは鋭くなかった。ただ、長いあいだ硬く固まっていたものが、ゆっくり崩れていく。崩れたあとに何が残るのか、それが怖かった。

「この影は、誰ですか」

「まだ言えない」

「なぜ」

「写真だけでは、本人の意思が分からない」

「また、本人の意思ですか」

「久保田のメモを読んだんだろう」

「はい」

「なら、分かるはずだ。あの人間は、声を出せなかった。名前を出せなかった。名前を残すかどうかを、本人以外が決めた。その結果を、俺たちは三十年抱えている」

「声を出せなかった人の代わりに、今度はあなたが沈黙するのですか」

立花はネガ袋を閉じた。焼けた紙の端が擦れ、かすかな音を立てる。

「明日の夕方まで待て」

「何を」

「もう一本、現像する。焼けた部分の下に、残っている像があるかもしれない」

「今、見せてください」

「無理だ。フィルムが傷んでいる。急げば、黒い粒が剥がれる」

「三十年待った記録を、さらに一日待てというのですか」

「一日で済むなら、安い」

「あなたにとっては」

「俺にとっては、もう何年でも同じだ」

私は立花を睨んだ。けれど、彼は怒らなかった。怒らず、ただ赤い灯りの下で、焼けたフィルムケースを指先で撫でていた。

「あなたは、日記箱を持ち去ったのが誰か知っていますか」

立花の手が止まった。

「知らない」

「影山さんではないのですか」

「影山なら、持ち去る理由はある」

「あなたは、影山さんを庇っています」

「庇っているのではない。あの男が何をしたかを知っているだけだ」

「何をしたのですか」

「守るために、相手から選ぶ権利を奪った」

立花は静かに言った。

「影山は、あんたが記録を残すことを恐れていた。だが、恐れていたのは町の秘密だけじゃない。あんたが自分の目で過去を見直し、自分の言葉で誰かを裁く可能性だ。だから、先に日記を持っていった。あんたが何を書くかを、あんたより先に決めるために」

その言葉は、残された一行のメモと重なった。

三十年分、あなたは見て見ぬふりをした。

あれは告発なのか。警告なのか。それとも、私が何を書くかを試すための言葉なのか。まだ分からない。

「日記は、どこにあるのですか」

「知らない」

「影山さんに聞いたのですか」

「聞いた」

「何と答えましたか」

「『倉橋さんのためだ』と」

赤い灯りが、立花の頬の骨を細く照らした。

「その言葉を、あなたは信じたのですか」

「信じたかった」

それは、これまで聞いた立花の言葉のなかで、もっとも人間らしい響きを持っていた。

私は革の箱へ目を向けた。焼けネガの束は、すべて元の位置へ戻されている。立花は物を捨てる前に裏側を見る。その慎重さは、残すためのものではなく、捨てたあとに後悔しないための仕草なのかもしれない。

「明日、もう一度来ます」

「一人で来るな」

「真帆を連れてきます」

「佐伯も」

「必要なら」

「必要だ」

立花は短く答えた。

「写真は、俺の店に置いておくには重すぎる。だが、警察に渡せば、写真だけが証拠になる。真帆に渡せば、写真が歴史になる。あんたに渡せば、日記の続きを書く理由になる。どれも正しいが、どれも足りない」

「では、何が必要ですか」

「写っていない人間が、何を望んだかだ」

私は返事をしなかった。

暗室を出ると、店内の薄暗さが目に痛かった。赤い灯りのあとでは、夕方の光でさえ白すぎる。私は入口のそばで立ち止まり、鞄の中の複写資料を確かめた。紙の角が一枚だけずれている。私は指で押さえ、元の位置へ戻した。

立花が背後から言った。

「倉橋さん」

「はい」

「写真を見て、名前が出なかったことを恥じる必要はない」

「恥じています」

「記憶は、台帳みたいに並んでいない」

「私は、並べられると思っていました」

「だから、書けなかった」

私は振り返った。

立花はもうネガの箱へ手を戻していた。こちらを見ず、焼けた袋の端を整えている。

「見たものを、きれいな順番に並べようとすると、最初にこぼれるのは、いちばん大事なものだ」

その言葉を、私は覚えておこうと思った。

店を出ると、夕暮れの潮風が肌へまとわりついた。湿った髪が頬に張りつき、私は鞄から夫のタオルを出して首筋を押さえた。洗剤の匂いに、家の台所と、帰りを待つ湯呑みの位置が浮かぶ。

通りには、祭りの提灯を片づける人がいた。蝋燭の残り香が、写真館から出てきた薬品の匂いに混じる。人々は何も知らない顔で、紙を畳み、箱を運び、店先を掃いている。町の日常は、誰かの記録が焼かれたあとも、同じ手順で続いていく。

港の防波堤の鐘が鳴った。

一度。

少し間を置いて、もう一度。

私は立ち止まり、写真館の赤い窓を振り返った。あの暗室のなかで、焼け残ったネガがまだ赤い光を受けている。見えない人物の輪郭は、今もそこにある。

名前は出てこなかった。

けれど、あの夜、私はその人の横顔を見ている。

名前を思い出せないことと、見なかったことは違う。

私はその違いを、家へ帰ったら書くつもりだった。どんな順番になるかは分からない。文字が途中で止まるかもしれない。それでも、白い頁を前にして、名前の代わりに「思い出せない」と書く。

それは空白ではない。

空白があると、初めて記した一行になる。

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