第5話 話したくない側

久保田義造の家は、潮の通る路地の先にあった。
旧市街の通りから一本入ると、商店の看板も途切れ、石塀と木造の家が肩を寄せ合っている。昼過ぎの陽射しは屋根の上からまっすぐ落ちていたが、路地の奥には風が残っていた。どこかで干している網の匂いに、濡れた土と、古い木の匂いが混じっている。
私は門の前で一度立ち止まり、鞄の中を確かめた。記念文集の複写、地下書庫で見つけた寄贈受付の控え、資料番号四一七を書き留めたノート。紙の角が少し揃っていなかったので、指先で押さえ直した。
真帆は来ていない。
彼女は、久保田には自分一人で行かないほうがいいと言った。理由を尋ねると、「私がいると、たぶん早口になります」と答えた。実際、彼女は正しさへ向かうとき、言葉の速度を落とせなくなる。久保田のように、相手の言葉を柔らかく受け止めながら、その中心だけを空白にする人間には、真帆の直線的な問いは強すぎるのかもしれなかった。
私は門扉を開けた。
庭の隅に、背の低い盆栽がいくつも並べられていた。松、真柏、名前の分からない細い葉の木。どれも枝の向きが整えられ、鉢の縁に溜まった土まできれいに払われている。葉の先で、陽が小さく砕けていた。
玄関の引き戸を開ける前に、奥から声がした。
「倉橋さんですかな」
「はい。突然、すみません」
「いえいえ。来ると思っておりました」
引き戸が内側から開いた。
久保田義造は、薄い灰色のシャツを着ていた。髪はきちんと撫でつけられ、襟元には汗の跡ひとつない。七十を越えているのに背筋が崩れていない。町内会長を退いてからも、誰かの家を訪ねるときには、相手に見られる姿を整えてから出る人なのだろう。
「暑いでしょう。どうぞ」
「お邪魔します」
私は玄関で靴を揃えた。久保田はそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。褒めるでもなく、注意するでもない。私がどういう人間かを、靴の置き方から確認しているように見えた。
通された部屋には、旧い帳場机が置かれていた。帳場机の表面には細かな傷が幾筋も走り、引き出しの取っ手だけが黒く磨かれている。机の上には町内会の名簿と、祭礼の順番を書いた帳面が積まれていた。久保田は座布団をすすめると、私の向かいへ腰を下ろした。
「お茶でよろしいですかな」
「はい」
彼は台所へ立ち、すぐに湯のみを二つ持って戻ってきた。湯気はほとんど立っていない。渋い茶の匂いが、畳と古い木の匂いの上に重なった。
私は鞄から文集の複写を出し、机の中央へ置いた。久保田はすぐに手を伸ばさなかった。目だけをそこへ落とし、湯のみを両手で持ち直す。
「この頁について、伺いたいことがあります」
「退職のお祝いの文集ですな。いやあ、私も一言書かせてもらいました。ずいぶん長くお勤めでしたから」
「頁が一枚、抜かれています」
「そうですか」
久保田の声に驚きはなかった。茶を一口飲み、湯のみを机へ戻す。置く位置が、最初より少しだけ左へずれた。彼はそれに気づき、すぐに指先で直した。
「印刷の不具合ではありません。綴じたあとに抜かれた跡があります。そこには、三十年前の夏祭りの写真と、図書館へ寄贈された資料の説明が載る予定でした」
「なるほど」
「原稿には、写真の撮影者として片瀬写真館の名前がありました。寄贈者名は空欄です」
久保田は目を上げた。目が合う前に、視線が私の肩のあたりへ滑った。
「古い写真のことは、立花さんに聞かれたほうがよいでしょう。あの人は、写真については詳しい」
「写真のことだけではありません。寄贈者名が消された資料が、地下書庫の台帳に残っています。資料番号は四一七。三十年前の八月二十三日、久保田さんはその資料を閲覧している」
久保田は、すぐには答えなかった。
庭のどこかで、盆栽に水を落とす装置が動いた。細い水が土へ染み込み、乾いた鉢の表面を黒く濡らしていく。久保田はその音を聞いているようだった。
「昔の閲覧記録まで調べておられるのですか」
「日記箱が消えました。机には、私が三十年分、見て見ぬふりをしたというメモが残されていました。記念文集の頁も抜かれている。古い記録の空白を調べるのは、当然だと思います」
「当然、ですか」
「記録を扱ってきた人間としては」
「記録を扱う人間にも、見ないほうがよいものはあります」
「誰が決めるのですか」
私の声が少し硬くなった。
「見ないほうがよいものを決めるのは、記録を持つ人ですか。町の事情を知る人ですか。それとも、あとから何も知らずに読む人でしょうか」
久保田は湯のみの縁を指でなぞった。
「倉橋さんは、昔からそうでしたな。物事を正しい場所へ戻すことに熱心だった。資料を持ち込んだ人間が、何を望んでいるのかより、資料がどこへ収まるべきかを先に考える」
「それが仕事でした」
「ええ。だから、あなたを責めているわけではありません。図書館というところは、町の人間が自分の家では置いておけないものを持ち込む場所です。古い帳面、写真、手紙。家にあれば邪魔になる。捨てるには惜しい。けれど、誰かに読まれるのは困る。そういうものを、倉橋さんは受け取ってくれた」
「受け取ったものは、記録します」
「記録したからといって、誰も傷つかないわけではない」
「記録しなければ、傷ついた人がいなかったことになります」
久保田は薄く笑った。
「そうやって、白黒をつけてしまうと、町は長く続きません」
「町が続くためなら、誰かの名前を消してもよいのですか」
「名前を残すことが、いつも正しいとは限りません」
「それは、誰かに聞いた言葉ですか」
「私の考えです」
「三十年前の八月二十三日、資料番号四一七を閲覧した理由も、同じ考えですか」
久保田の笑みが消えた。
ほんの一瞬だった。だが、笑顔が消えたあとの顔には、年齢より深い疲れが現れた。目元に細かい皺が寄り、口の端がわずかに下がる。
「あの日は、祭りの準備がありました」
「台帳には、朝の九時二十分に閲覧したとあります。祭礼記録を確認するためですか」
「町内会長でしたからな。祭りの順番や、灯籠流しの手順を確認することはあります」
「同じ日の午後一時には立花さんが、午後六時四十分には椎名さんが閲覧しています。三人が同じ資料を見ています」
「それぞれ用事があったのでしょう」
「資料には、港の古い地図と祭礼の記録が一緒に綴じられていました。図書館裏口から港へ抜ける通路の図も含まれている」
久保田の指が止まった。
私は、台帳の紙を押さえていた自分の指先を思い出した。削られた寄贈者名の下に残っていた、薄い凹み。そこには誰かの名前があった。私はそれを消す作業に関わっていた。
「久保田さんは、あの夜のことを知っていますね」
久保田は庭へ顔を向けた。盆栽の葉が風に揺れている。葉の裏側は濃く、表よりも暗い。見えているものの反対側に、見えないものが張りついている。
「三十年前のことです」
「昔のことだから、で済ませるつもりはありません」
「済ませるつもりがなくても、時間は勝手に過ぎます。あの夜を知っている者も、もう多くありません。亡くなった者もいる。町を出た者もいる。残っている者は、皆それぞれの暮らしを抱えている。今になって名前を出せば、過去だけでなく、その人の家族まで巻き込むことになる」
「巻き込まれた家族が、すでにいるかもしれません」
「それは、どういう意味ですかな」
「私にも分かりません。だから確かめています」
「確かめることで、何が戻りますか」
声は穏やかだったが、語尾が硬かった。
「亡くなった人が戻るわけではない。家族の記憶が元通りになるわけでもない。町が三十年前の夜をやり直せるわけでもない。それでも、記録を戻す必要があるとお考えですか」
「戻せるものがあるなら」
「戻せないものしかない場合は?」
「戻せないものがあることを、記録します」
久保田は私を見た。
今度は目を逸らさなかった。柔らかな人柄の奥に、古い怒りのようなものがあった。私への怒りなのか、自分自身へのものなのかは分からない。
「倉橋さんは、あの夜、何を見たのですか」
「それを、あなたに尋ねています」
「あなたの日記に書いてあるのでしょう」
「日記は持ち去られました」
「では、書いていない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
書いていない。
久保田は、私が日記に何を書いたか知っているのだろうか。あるいは、書かなかったことを知っているのか。どちらにしても、私の三十年を私より近くで見ていたような言い方だった。
「私は、あの夜の翌朝に日記を書き始めました」
「そうですか」
「天気、図書館の開館時刻、受け取った資料。いつものことを書きました。けれど、夜のことは途中で書けなくなった」
「なぜです」
「名前を書けば、誰かが壊れると思ったからです」
久保田は一度、目を閉じた。
「それは、あなたが決めたことですか」
「決めたつもりでした」
「誰かに言われたのではない」
「言われました。書かないほうがよい、と」
「誰に」
久保田の問いは、私が予想していたものと違った。
私は答えなかった。久保田は待った。急かすでもなく、慰めるでもなく、ただ答えが出てくるまでその場所に座っている。場を壊さないことに慣れた人間の待ち方だった。
「影山さんですか」
その名を聞いたとき、久保田の右手が湯のみを持ち直した。
「影山が、何か言いましたか」
「今、あなたが反応したので、そう思いました」
「人の動きを見て、名前まで決めるのは危険ですな」
「決めていません。ただ、確かめています」
「影山は、あの頃から人の面倒をよく見ていました。誰かが困っていれば手を貸す。書類が苦手な者の代わりに書く。図書館の荷物を運び、港の倉庫の鍵を預かる。そういう人間でした」
「だから、日記箱を持ち去ることもできる」
「倉橋さん」
「家の書斎へ入ったことがあります。戸棚の位置を知っていた可能性がある。退職祝いの文集も、彼が印刷所から受け取った。あなたは、影山さんが私の日記の存在を知らなかったと言えますか」
久保田は長く黙った。
庭の水が止まり、急に家の中が静かになった。遠くで、船の汽笛が一度だけ鳴った。音は低く、屋根の下を通って消えた。
「知らなかったとは言えません」
「知っていたのですね」
「町の人間は、互いのことを知らないふりをしながら、いろいろ知っています。誰が何時に起きるか。誰がどこへ通うか。誰が、何を捨てずに取っておくか。そういう町です」
「それを、あなたは秩序と呼ぶのですか」
「秩序でなければ、何と呼びます」
「監視です」
久保田は苦笑した。
「若い人なら、そう言うでしょうな」
「私は若くありません」
「ええ。だから困るのです。倉橋さんは、町の仕組みを知りすぎている。だから、知らないふりをしてきたことも、自分で分かっているはずです」
その言葉は、静かだった。けれど、逃げる場所がなかった。
「あなたは、私が見て見ぬふりをしたと思っていますか」
「思うのではなく、知っています」
胸の内側で、冷たいものがゆっくり沈んだ。
「何を知っているのですか」
「あの夜、あなたは裏口のところにいました。倒れていた人を見た。そこへ町の者が集まった。誰かが救急車を呼ぶべきだと言い、誰かがそれを止めた。事故として扱えば、誰も傷つかずに済むと言った者もいた。あなたは、その全部を聞いていた」
「誰が止めたのですか」
「それを知って、どうします」
「答えてください」
「名前を出して、何が変わります」
「私が何を見たのかが変わります」
「変わりません。あなたが見たものは、あなたの中に残っている。名前を出したところで、見なかったことにはできない」
「だから、書かなくてよかったのですか」
自分の声が震えていることに、私は遅れて気づいた。
「名前を書かなければ、私が見たことは事実ではなくなるのですか。記録から消せば、誰かを守ったことになるのですか。あなたたちは三十年かけて、同じことを言ってきた。昔のことだから。町を壊すな。家族を巻き込むな。今さら何をしても戻らない。そうやって、誰かの人生を紙の端から少しずつ切り落としてきた」
久保田は反論しなかった。
私は続けた。
「私も、その手を使いました。寄贈者名を消した。日記に核心を書かなかった。理由は、誰かを守るためだったと自分に言い聞かせた。でも、守った相手が何を望んでいたのか、私は確かめていない。知る権利を奪って、選ぶ権利まで奪って、それを守ることだと思った」
久保田の肩が、わずかに落ちた。
「倉橋さん。町というのは、正しいことだけでは支えられません」
「知っています」
「いえ、分かっていない。正しいことを言う人間は、言ったあとに帰ることができます。けれど、残る人間は、そのあとも同じ道を歩き、同じ店で買い物をし、同じ祭りで顔を合わせる。誰かを告発した翌朝にも、隣家から醤油を借りなければならない。子ども同士が同じ学校へ通う。葬式で同じ列に並ぶ。町の暮らしは、正しさを口にしたあとも続くのです」
「だから、黙るのですか」
「だから、黙ることを選ぶ場合がある」
「選んだのは、誰ですか」
久保田は湯のみを見た。
「その場にいた者が、それぞれ選んだ」
「私も?」
「あなたも」
私は目を伏せた。
庭の盆栽が風に揺れ、葉の先から水滴が一つ落ちた。鉢の土へ吸い込まれ、跡も残らない。私の日記に書かなかった夜も、そうやって消えたのだと思っていた。けれど、消えたように見えるものは、土の中へ沈んでいるだけなのかもしれない。
「事故だったのですか」
私は尋ねた。
久保田はすぐに答えなかった。
「事故と呼ぶしかなかった」
「それは答えではありません」
「答えというものは、いつもきれいに一つではありません。あの夜、図書館の裏口で人が倒れた。足場が濡れていた。誰かが急いでいた。荷物が置かれていた。そういうものが重なった。誰か一人の手だけで起きたことではない。だから、事故と呼んだ」
「誰か一人の手で起きたことではないなら、町の責任です」
久保田は目を上げた。
「町の責任などというものを、誰が背負うのです」
「少なくとも、見た人間が」
「あなたは三十年、背負ってきた」
「背負ったのではありません。隠してきただけです」
言い終えると、身体の奥が冷えた。自分で口にした言葉なのに、誰かに言われたようだった。
久保田は、しばらく私を見ていた。やがて、帳場机の引き出しを開けた。中から、薄い茶色の封筒を取り出す。封筒の角は擦れて白くなり、宛名はない。
「これは、見せるつもりはありませんでした」
「何ですか」
「三十年前の町内会の会議メモです。正式な議事録ではない。私が個人的に書いたものです」
封筒を机へ置き、久保田は手を離した。私はすぐに開けなかった。
「なぜ、今見せるのですか」
「日記箱が消えたからです。あなたの記録が誰かの手に渡った以上、私の手元に残しておく理由も薄くなった」
「誰かが、これを消すために動いている?」
「そこまでは言いません」
「また、言い方を丸める」
「丸めているのではありません。断言できないだけです」
久保田は封筒を見つめた。
「ただ、倉橋さん。ひとつだけ覚えておいてください。あの夜、町の者が守ろうとしたのは、町の体面だけではありません。倒れていた人間にも、事情があった。名前を出せば、その人が生きていけなくなると思った者がいた」
「本人に、名前を消してほしいと言われたのですか」
久保田は答えなかった。
その沈黙が、これまでのどの言葉より重かった。
「本人は、何と言ったのですか」
「……何も言えませんでした」
「話せなかった?」
「声が出なかった」
私は封筒へ手を伸ばした。紙は乾いていたが、角に潮の跡のような白い粉が付いている。私はそれを開き、中の紙を一枚だけ取り出した。
古い会議メモには、日付と人名が並んでいた。ところどころ黒く塗りつぶされている。けれど、完全には消えていない。筆圧の跡が紙の下に残っている。
そして、余白に短い一文があった。
本人が言わないことを、こちらで決めない。
私はその文字を見つめた。
「これは、あなたの字ですか」
「そうです」
「では、なぜ決めたのですか」
久保田は目を閉じた。
「決めたのではありません。決めてしまったのです。誰かが決めなければ、何も動かなかった。救急車を呼ぶのか、警察へ届けるのか、家族に知らせるのか。皆が互いの顔を見ているだけで、時間だけが過ぎていった。私は町内会長でした。場を収める役目だと思った。だから、事故にする方向へ話を持っていった」
「事故ではなかった」
「事故でないとも言い切れない」
「人が倒れていたのに?」
「事故であっても、事故でなくても、あの場で私たちは同じことをしたでしょう。誰かを守るために、誰かの言葉を待たず、記録を整えた」
「その誰かは、今どこにいるのですか」
久保田は窓の外を見た。
港の防波堤の向こうで、鐘が一度鳴った。
予定の時刻ではない。けれど、先日も聞いた、短い音だった。
「さあ」
「久保田さん」
「私は、もう人の居場所を管理する立場ではありません」
「それでも知っている」
「知っていることと、話せることは別です」
「その言葉を、あなたは三十年使ってきた」
「あなたもです」
静かな声だった。
「私だけを責めることはできません。あなたは見た。私は集めた。立花は撮った。椎名は通路を知っていた。影山は記録を動かした。それぞれが自分の役目を果たした。その結果、誰も全体を語らなくなった」
私は返す言葉を失った。
久保田は封筒を私のほうへ押し出した。
「持っていきなさい」
「あなたの会議メモを?」
「返してください。読み終えたら」
「なぜですか」
「私が残したものですから。あなたが日記を取り戻したいのと同じように、私も自分の記録を誰かに預けたくはない」
「では、コピーを取らせてください」
「それは構いません」
私は鞄から小さな複写用の袋を取り出し、紙を一枚ずつ撮影した。久保田はその間、何も言わなかった。私は紙の端を揃え、順番を確認し、封筒へ戻した。
最後の紙の裏面に、薄い鉛筆の線が見えた。
名前は、影山に預ける。
私は指を止めた。
「久保田さん」
「何ですか」
「この『名前』は、誰の名前ですか」
久保田は答えなかった。
けれど、彼の顔から血の気が引くのを見た。目元の疲れが一度に深くなり、唇がわずかに震えた。
「そこまで読んだのですか」
「書いてあります」
「書いたのは、私ではありません」
「では、誰が」
「分かりません」
「本当に?」
「倉橋さん」
久保田の声が初めて硬くなった。
「これ以上は、私の家から持ち出さないでください。あなたが知るべきことと、知ってはいけないことを、今はまだ私が決めます」
「それは、あなたが一番してはいけないことではありませんか」
「そうかもしれません」
彼は湯のみを持ち上げたが、口へ運ばず、そのまま机へ戻した。
「それでも、決めるしかない人間がいます」
「決めるしかないのではなく、決めることに慣れただけです」
久保田の指が、湯のみの縁をなぞった。
私は封筒を閉じ、複写を鞄へしまった。立ち上がると、足の裏が畳へ沈んでいた。長く座っていたせいだけではない。部屋の空気そのものが、私の足を重くしているようだった。
「また来ます」
「真帆さんとですかな」
「必要なら」
「彼女は、答えを急ぎます」
「私は遅すぎる」
「二人でちょうどよいのかもしれませんな」
久保田はそう言ったが、笑わなかった。
玄関で靴を履き、つま先を揃える。外へ出ると、陽射しは少し傾いていた。庭の盆栽に水をやるためのホースが、石の上で蛇のように曲がっている。私は門を出てから、しばらく振り返らなかった。
路地へ戻ると、風が正面から吹いてきた。湿った髪が頬へ張りつき、私は手の甲でそれを払った。鞄の中の複写用紙が、歩くたびに擦れ合う。紙と紙の間に、誰かの名前がまだ隠れている。
角を曲がったところで、防波堤の鐘が鳴った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
私は足を止めた。鐘の音は、路地の壁にぶつかり、遅れて戻ってくる。三十年前の夜にも、同じ音を聞いた気がする。誰かが急いで歩き、誰かが立ち止まり、誰かが倒れていた。けれど、私の記憶はそこで途切れる。
久保田は、何も言わなかった。
言わないまま、私の前に一枚の紙を置いた。本人が言わないことを、こちらで決めない。その一文は、いまも私の指先に残っている。
けれど彼は、本人の言葉を待たずに、名前を消した。
私も同じだった。
私は路地の石畳を踏みしめ、家へ向かって歩き出した。足音は重かった。背後の門が閉じる音が、古い木材のきしみを伴って長く残った。
帰宅すると、夫が台所で冷たい麦茶を注いでいた。私の姿を見ると、何も聞かずに朱塗りの湯呑みを机の端へ置いた。
「飲むか」
「はい」
私は湯呑みを受け取り、両手で包んだ。冷えた器の表面に細かな水滴が浮かび、指の間で滑った。
「何か分かったか」
夫が訊いた。
「分かったことと、分からないことが増えました」
「それは、調べているということだろう」
「そうかもしれません」
私は鞄から複写を取り出し、机の上へ並べた。紙の角を揃え、資料番号を書いた付箋を左上に貼る。最後に、裏面の一文を別の紙へ書き写した。
本人が言わないことを、こちらで決めない。
鉛筆の先が紙を擦る音を聞きながら、私は自分の名前を書かなかった三十年前の頁を思い出していた。
あのとき、私は誰かを守るつもりだった。
けれど、守られた人が何を望んでいたのかを、私は知らない。
窓の外で、港の鐘がまた鳴った。
私は筆を止めずに、その音のことを書き足した。
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