8話 防波堤へ向かう

灯籠流し当日の夕方、私は家を出る前に、書斎の机をもう一度だけ見た。

返ってきた日記の断片は、白い布の上に並べてある。波打った頁、焦げた縁、途中で切り取られた文章。何度整えても、紙と紙の間には隙間が残った。けれど今日は、その隙間を無理に埋めなかった。

机の右端には、夫が用意してくれた麦茶の瓶が置かれていた。瓶の表面には水滴が細かく浮いている。私はそれを鞄へ入れようとして、やめた。代わりに、夫が出がけに差し出した薄いタオルを折り、上着の内ポケットへしまった。

「防波堤まで歩くのか」

玄関で靴を履いていると、夫が台所から声をかけた。

「そのつもりです」

「帰りは暗くなる」

「真帆さんたちが一緒です」

「それでも、足元は見えるようにしておけ」

夫はそう言って、小さな懐中電灯を私の鞄へ入れた。図書館の地下書庫で使っていたものだった。退職の日に返したはずの備品ではなく、家で長く使っていた古い品だ。黒い塗装の端が剥げ、電池の蓋には白い傷がある。

「これは、まだ持っていたのですね」

「返していないものもある」

「何に使うのですか」

「暗いところを歩くためだ」

「あなたは、暗いところへ行くのか」

「行くかもしれません」

夫はそれ以上、何も聞かなかった。私の髪が首筋に張りついているのを見ると、内ポケットからタオルの端を引き出し、曲がっていた角を直した。

「汗をかいたら使え」

「はい」

「帰ったら、麦茶を冷やしておく」

「お願いします」

夫の指が、私の上着の襟を一度だけ整えた。言葉より先に出る気遣いだった。私は礼を言おうとして、やめた。礼を言うと、それだけで別れのように聞こえる気がした。

外へ出ると、夏の終わりの風が頬を撫でた。暑さはまだ残っているが、昼の熱にはもう勢いがない。通りの向こうから、屋台で焼かれている魚の脂の匂いが流れてくる。蝋燭、醤油、濡れた木箱、海の塩気。祭りの日の町は、いくつもの匂いを一つに混ぜていた。

最初の待ち合わせ場所は、旧市立図書館の前だった。

真帆はすでに来ていた。古い地図帳を脇に抱え、方眼ノートを開いている。図書館の壁に貼られた灯籠流しの案内を見ながら、日付と開始時刻を照合していた。

「早いですね」

「倉橋さんこそ」

「私は、家を出る前に確認するものが多いので」

「日記の断片ですか」

「それもあります。鍵、火の元、窓、夫の薬の場所。退職しても、確認するものは減りません」

「仕事がなくなったのに、確認だけは残る」

真帆はノートへ書き込みながら言った。

「それは、少し残酷ですね」

「そうでしょうか」

「司書という仕事は、何かを返したら終わりです。でも、自分の人生には返却期限がない。退職しても、昨日までの記録がそのまま残る」

「だから、日記箱を取り戻したいのです」

「箱だけを?」

真帆が顔を上げた。

「中身もです」

「中身だけなら、断片が戻ってきています」

「戻ってきたのは、一部です」

「では、残りも」

「残りを手に入れれば、元に戻ると思いますか」

私は答えなかった。

真帆は、以前よりも問いのあとに長く黙るようになっていた。正しさを急いで相手へ押しつけるのではなく、返事がこちらの中で形になるまで待っている。その待ち方を身につけたことが、彼女の変化なのだと思った。

「今日は、順番を確認します」

真帆が言った。

「何の順番ですか」

「防波堤までの道です。今の道と、三十年前の道。旧図書館の裏口から港へ出るには、当時は倉庫脇を通るほうが早かった。けれど、今は祭りの屋台で塞がれている。人の流れも違う」

「それを確認して、何が分かりますか」

「誰かが、あの夜にどこから来て、どこへ行けたのか。記憶は場所を曖昧にしますが、道は勝手に変わりません。変わったとしても、変わる前の痕跡が残ります」

真帆は地図帳を閉じた。

「それから、椎名さんには倉庫側の動線を見てもらいます。立花さんは、現像したネガを持ってくる。佐伯さんは、記録の扱いについて確認するそうです」

「久保田さんは」

「防波堤で待っていると」

「影山さんは?」

「来ません」

「呼んでいないのですか」

「呼びました」

真帆の声が、わずかに硬くなった。

「返事はありませんでした。ただ、昨日、図書館の裏口にある郵便受けへ、封筒が入っていました」

「影山さんから?」

「差出人はありません。中身は、倉橋さんの日記の断片でした」

私は息を止めた。

「今日、持っていますか」

「佐伯さんが預かっています。封筒の表に、倉橋さんの名前だけが書かれていた。日記の切り取り方も、前に返ってきたものと同じです」

「影山さんだと思いますか」

「分かりません」

「筆跡は」

「一行メモと同じではありませんでした。けれど、筆跡が違うから別人とも言えない。わざと書き方を変えた可能性があります」

真帆はノートを閉じ、眼鏡の位置を直した。

「だから、今日は封筒を開きません。防波堤で、全員が揃ってからです」

「なぜ、私に先に見せないのですか」

「見せるべきかどうかを、私だけで決めたくないからです」

私は彼女を見た。

「久保田さんのメモを覚えているのですね」

「覚えています。でも、覚えているだけでは足りません。あの言葉の逆をしないようにする必要があります」

図書館の角を曲がると、佐伯亮一が立っていた。紺色のシャツの襟を指で直しながら、港の見取り図を広げている。紙の端には折り目がいくつもついていた。彼は私たちに気づくと、地図を畳み、端を揃えてから鞄へしまった。

「お待たせしました」

「佐伯さん、早いですね」

「現場を歩くなら、先に周辺を見ておこうと思いまして。警察の癖です」

「事件として扱うのですか」

「まだ、そう断定はしていません」

佐伯は一拍置いた。

「ただ、倉橋さんの日記箱がなくなった経緯と、文集の頁が抜かれたこと、それから地下書庫の台帳に欠落があること。これらを一つの出来事として確認する必要はあると思っています」

「最初は、家の中の紛失に近いと考えていましたね」

「はい」

「考えは変わりましたか」

佐伯は眼鏡を押し上げた。

「変わったというより、足りなかったと分かりました。私は最初、なくなった物の価値を、第三者から見た価値で考えました。日記は換金できない。だから事件性が薄いと。でも、今は違います。誰かが箱の中身を知っていて、退職の夜を選び、記録の一行を残した。そこには、物の価値とは別の目的がある」

「目的が分からないのに?」

「分からないから、確認する必要があります」

佐伯の声は大きくなかった。けれど、以前の受け身な響きは薄れていた。

「倉橋さん。私は、町の空気に引っ張られていたと思います。高齢の方々が同じ話題を避けるのを、古い人間関係のせいにしていた。でも、避ける人が多いということは、そこに何か共通した理由があるということです。理由を見ずに、空気だけを受け入れるのは、警察の仕事ではありません」

「では、今日、何を確認しますか」

「誰が、どこに立っていたか。何時に移動できたか。そして、日記の断片がどこから来たか。現場の確認と、証言の照合です」

そのとき、通りの向こうから低い声がした。

「倉橋さん」

立花栄太だった。

古い蛇腹カメラを肩から下げている。撮影するつもりはないのだろう。カメラの革は乾いてひび割れていたが、金具は磨かれていた。立花は私たちの前まで来ると、佐伯の顔、真帆のノート、私の鞄の順に見た。

「現像は終わったのですか」

「終わった」

「見せてもらえますか」

「防波堤で」

立花は短く答えた。

「ここでは、光が強すぎる」

彼はカメラの蓋を指で押さえた。撮影する機械を持っているのに、光を避けるような仕草だった。

「新しい像が出たのですか」

「像というほどではない。焼けた部分の下に、影が残っている」

「人影ですか」

「人影に見える」

「見えるだけ?」

「写真はいつもそうだ。見えたものが、そのまま分かるわけじゃない」

立花はそこで言葉を切った。

「だが、前のネガにはなかったものがある」

「何ですか」

「手」

私は、喉の奥が乾くのを感じた。

「顔ではなく、手が写っている。誰かが倒れていた人間の肩を押さえている。あるいは、起こそうとしている。角度が悪いから、どちらかは分からない」

「それは、重要な違いではありませんか」

真帆が早口になった。

「押さえていたなら、事故の直後に動きを止めたことになる。起こそうとしていたなら、救助しようとしていた可能性がある。写真の光量と、現場の位置関係が分かれば――」

「急ぐな」

立花が遮った。

「急ぐと、見たいものだけが見える」

真帆は口を閉じた。けれど、ノートへ書き込む手は止まらなかった。

最後に、椎名和雄と落ち合った。

港の倉庫へ向かう路地の入口に、彼は立っていた。背が高く、古い作業着の袖を肘までまくっている。潮風に削られた皮膚は、夕暮れの光のなかで乾いた木のように見えた。ポケットの中で、鍵束がかすかに鳴る。

椎名は挨拶をしなかった。代わりに、私たちの後ろを振り返り、屋台の人の流れを確かめた。

「こちらから行く」

それだけ言って、倉庫側の路地へ歩き出した。

靴音がしない。石畳を踏んでいるのに、音だけが風に吸われている。私はその背中を追いながら、三十年前の記憶にある大きな肩を思い出した。あの夜、誰かの通路を塞いでいた肩。いま目の前にある背中と同じ形をしている。

「椎名さん」

私は呼び止めた。

彼は振り返らず、足だけを止めた。

「この先は、三十年前と同じ道ですか」

「違う」

「どこが」

「倉庫が一つ増えた。石段が二段削られた。裏口の扉は交換された」

「それでも、人が通れる場所は同じですか」

椎名はしばらく黙った。やがて、ポケットの鍵を親指で撫でる音がした。

「通れる場所は、同じだ」

「では、あの夜も、ここを通った人がいる」

「いる」

「誰ですか」

「まだ、言わん」

真帆が息を呑む気配がした。私は彼女へ視線を向けなかった。ここで急げば、椎名は口を閉じる。彼の沈黙は拒絶ではなく、言葉を出したあとに起きることを測るための間だと、少しずつ分かってきた。

「名前を聞いているのではありません」

私は言った。

「この道を、どちらからどちらへ通ったのかを知りたい」

椎名の首が、わずかに動いた。

「港から来た者が一人。図書館から出た者が一人。あとから倉庫側へ回った者が二人」

「久保田さん、立花さん、影山さんですか」

「名前は言ってない」

「位置の話です」

「位置だけなら、そうだ」

「私は?」

「お前は、裏口の扉のそばにいた」

椎名の声は低かった。

「扉から出て、三歩。そこで止まった。誰かが倒れていた。お前は近づこうとしたが、後ろから呼ばれて振り返った」

喉が固まった。

私は、そこまでの記憶を持っていなかった。濡れた石、足音、鐘。断片はあっても、自分の身体がどこにあったのかは分からなかった。

「誰が私を呼んだのですか」

椎名は答えなかった。

「椎名さん」

「鐘が鳴る」

「まだ鳴っていません」

「鳴る前の音がある」

彼は港の奥へ顔を向けた。

「海の音が変わる。風が一度、倉庫の間を抜ける。そのあとに鐘が来る」

言われてみれば、波の音が変わっていた。さざめきのようだった音が、低く重なり始めている。風が屋台の布を膨らませ、蝋燭の炎を同じ方向へ倒した。

椎名は手を上げた。

「ここで止まる」

倉庫の角を曲がると、防波堤へ続く石段が見えた。石は潮で黒く濡れ、表面に薄い藻が張っている。階段の脇には、古い金具が埋め込まれていた。椎名はそれを指で示した。

「昔は、ここに鎖があった」

「通路を塞ぐための?」

「荷を置くための」

「でも、あの夜は鎖が張られていた」

椎名は私を見なかった。

「張られていた」

「誰が」

「俺だ」

佐伯が一歩近づいた。

「椎名さん。鎖を張った理由を、正確に話してもらえますか」

「正確に?」

「はい。事故の前か、あとか。誰に頼まれたか。何時だったか」

椎名は唇をひとつ噛んだ。

「事故のあとだ」

「誰に頼まれたのですか」

「頼まれたんじゃない」

「では?」

「言われた」

「誰に」

椎名は防波堤の先を見た。夕方の海は鈍い銀色に沈み、屋台の明かりだけが水面へ細く流れている。

「影山だ」

その名前が、倉庫の壁に当たって戻ってきたように感じた。

「影山さんが、鎖を?」

「通路を閉じろ、と言った。人が来ると、足場が危ない。そう言った」

「本当に、足場が危なかったのですか」

「濡れていた。雨が降ったあとだった。危なかったのは本当だ」

「でも、人を通さない理由は別にあった」

佐伯の声が低くなった。

椎名は答えなかった。

「椎名さん」

私は石段を見た。三十年前の夜、ここに立っていた自分を思い出そうとした。だが、記憶の糸はまだ湿ったまま、指から滑っていく。

「私は、誰かを助けようとしたのですか」

椎名の喉が動いた。

「助けようとした」

「誰を」

「倒れていた人を」

「では、なぜ私は止まったのですか」

「後ろから呼ばれたからだ」

「誰が呼んだのですか」

椎名は長く黙った。

「影山か、久保田か。どちらかだ」

「覚えていないのですか」

「覚えている」

「なら、なぜ言わないのですか」

椎名はポケットから鍵束を取り出し、掌の上で握り直した。古い金属が擦れ合い、乾いた音を立てる。

「言えば、あの夜の形が変わる」

「形を変えるのは、事実ではなく、私たちの見方です」

真帆が言った。

「見方が変われば、人の暮らしも変わる」

椎名の声は、初めてわずかに揺れた。

「俺は港で長く働いた。誰かが荷を落としたら拾う。船が遅れたら段取りを変える。人が倒れたら助ける。それが仕事だ。だが、あの夜は、助ける前に町の都合が入った。通路を閉めろ。人を集めるな。話を広げるな。そう言われて、俺は鎖を張った」

「それで、誰かが助かりましたか」

椎名は海を見た。

「分からん」

「誰かが傷つきましたか」

「分からん」

「では、あなたが知っているのは何ですか」

彼は、鍵束をゆっくりポケットへ戻した。

「お前が、三歩進んだことだ」

私の身体の奥で、何かがはっきりと鳴った。

記憶ではない。記憶の周囲に張られていた薄い膜が、破れた音だった。

私は裏口の扉を出た。石は濡れていた。前方に倒れている人がいる。私は一歩、二歩、三歩と進んだ。手を伸ばそうとした。けれど背後から、私の名前を呼ぶ声がした。

静子。

その声は、優しかった。

優しかったから、私は振り返った。

防波堤の上で、風が強くなった。真帆が私の腕へ手を添えた。細い指だったが、支える力は思ったより強い。

「行けますか」

彼女が尋ねた。

私は石段の下を見た。足元に、三十年前の濡れた石と、今の石が重なっている。どちらも滑りやすく、どちらも私を待ってはいない。

「はい」

声はかすれていた。

「今度は、行けます」

佐伯が先に石段へ足をかけた。椎名はその後ろへ回り、誰かが転ばないように、さりげなく手すりの位置を確かめた。立花はカメラの革紐を握り直し、真帆はノートを閉じた。

誰も大声では話さなかった。

町の灯りは、坂の下で少しずつ遠ざかっていく。焼き上がった油の匂いも、蝋燭の甘い煙も、湿った木の匂いも、風にほどけて海へ流れていった。

石段の途中で、私は背後を振り返った。

そこには、いくつもの道があった。商店街へ戻る道、倉庫の影へ続く道、図書館の裏口へ向かう細い道。三十年前、誰かが選び、誰かが塞ぎ、誰かが見ないふりをした道だ。

私はもう、見えない場所へ戻るつもりはなかった。

防波堤の鐘が鳴る方角から、低い金属音が届いた。

まだ一度目ではない。

鳴る前の、海の音だった。

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