7話 干潮の保管庫

干潮の時刻は、午前二時十七分だった。

神谷さんから真鍮の鍵を返されたのは、その日の夜だった。正確には、返されたというより、現場へ持って行く必要があるかもしれないからと、透明な証拠袋に入れたまま一時的に渡された。袋の口には署名があり、時刻も記されている。神谷さんは鍵を僕の手へ戻すとき、いつものように感情の見えない顔をしていた。

「持ち出した場所と、戻った場所を記録して」

「僕が持つんですか」

「あなたが開けたほうが、鍵が反応する可能性がある」

「記憶を証拠品と同じ場所に置かないんじゃなかったんですか」

「置いていない。これは物証。あなたは手を貸すだけ」

そう言って、彼女は証拠袋を僕の手帳の隣へ置いた。

「篠宮さんには、行き先を伝えました。戻る時刻も決めてあります。干潮が終わる前に戻れなければ、捜索を頼む」

「ずいぶん信用されましたね」

「信用していないから、戻る時刻を決めた」

神谷さんの言葉は乾いていた。それでも、僕を一人で行かせるつもりがないことだけは分かった。彼女は警察手帳の入った革ケースを閉じ、最後に証拠袋の口を指で確かめた。

「見るものを分けて。記憶、推測、現場で確認したもの。それぞれ口に出すときも、混ぜないで」

「分かっています」

「分かっている人間ほど、暗い場所では忘れる」

僕は鍵の入った袋を受け取った。

薄いビニール越しでも、真鍮の重みは伝わってきた。

夜の港は、昼間より広かった。表通りの店々が閉じ、窓の明かりが消えると、建物の間に海の気配が入り込む。裏堤防道へ向かう細道は、霧の濃い夜だけ町の表から外れる。街灯の光は足もとへ届く前に白くほどけ、堤防の先は見えない。見えないのに、道だけは身体が覚えていた。

僕は歩きながら、神谷さんから渡された紙を何度も確かめた。

干潮、二時十七分。

満ち始め、二時三十一分。

旧波止場奥の保管庫まで、往復二十分。

紙には、時刻と場所と、戻るべき時刻しか書かれていない。けれど、その簡潔さがありがたかった。誰かの解釈や慰めがない。今夜、僕が信じられるのは、こういう乾いた数字だけだった。

霧は薄かった。

そのぶん、湿り気だけが濃い。海から上がった水分が肌にまとわりつき、濡れた髪が頬へ貼りつく。手首に残る冷たさは、風のせいだけではなかった。旧波止場という言葉を思い浮かべるたび、皮膚の下に水が入り込むような感覚がした。

堤防の端から、干上がった海底へ降りる。

泥は黒かった。靴底が沈むたび、柔らかな抵抗が足首へ伝わる。海藻の腐った匂いが立ち上り、鼻の奥から喉へまとわりついた。足を引き抜くと、泥が靴の裏に厚く付着し、次の一歩を重くする。

遠くで灯台の機械音が回っていた。

一定の間隔で、低く唸る。

光が霧を横切るたび、旧波止場の残骸が浮かび上がった。濡れた杭。傾いた板。潮に削られた鉄輪。かつて人が荷を積み下ろしていた場所は、今では海と陸のどちらにも属していない。

僕はポケットの中の証拠袋を押さえた。

鍵の刻みは三。

古札に書かれていた数字も三。

足もとに現れる木の杭にも、かすかに白墨の跡が残っている。数字の三を半分だけ消した形だった。

身体が先に右へ向いた。

地図を見る前に、道を知っていた。

すぐに立ち止まる。

僕は暗い水面を見た。霧が薄く、海面が黒く見える。知らない場所へ来たはずなのに、足が迷わない。記憶ではない。そう言い聞かせる。以前に地図を見た。篠宮さんの海図を覚えていた。倉庫群の位置を、知らないうちに覚えていた可能性もある。

けれど、理由をいくら並べても、身体が選んだ方向は変わらなかった。

旧波止場の奥に、低い石積みが残っていた。

石積みの陰へ回ると、錆びた鉄扉が現れる。表からは倉庫の壁にしか見えない。蝶番の周囲には潮の白い粉が固まり、扉の下には海水が細く流れていた。

僕は証拠袋から鍵を取り出した。

袋を開ける前に、時刻を確認する。

二時二十三分。

戻るまで、八分しかない。

鍵を袋から出す。真鍮が掌へ触れた瞬間、喉の奥が狭くなった。

霧の中に立っている。

濡れた木材。

誰かの荒い息。

手首をつかむ指。

帳簿を開くな。

今度は、その言葉の後ろに別の声があった。

――見たなら、戻せ。

僕は息を止めた。

声の主は分からない。命令なのか、懇願なのかも分からない。ただ、手首をつかんでいた指の力が、誰かを止めるためではなく、何かを渡すためのものだった気がした。

鍵を差し込む。

錠は抵抗しなかった。

まるで、ずっと待っていたように回った。

錆びた蝶番が軋む。音は霧の中へ吸われず、足もとから背中へ這い上がってきた。扉の内側から、冷えた紙と湿った木の匂いが流れてくる。

保管庫は狭かった。

天井は低く、壁際に木箱と帳簿の束が積まれている。海水が染みた床には、古い砂と海藻の切れ端が残っていた。壁の一角に小さな机があり、その上だけは不自然なほど乾いている。

誰かが、ここで紙を扱っていた。

僕は灯りを向けた。

机の上には、古い原簿が六冊、重ねられていた。表紙はどれも潮で膨らみ、角が擦れている。上から二冊目だけ、背表紙に新しい白い糸が使われていた。綴じ直されたのだろう。

僕は原簿を一冊ずつ机へ移した。

角を揃える。

表紙の向きを合わせる。

指先が勝手に動いた。

その動作を見ているうちに、奇妙な既視感が膨らんだ。僕はこの机で、以前にも同じことをした。帳簿を右から左へ並べ、濡れた頁を乾いた布で挟み、破れた荷札を封筒へ入れた。

けれど、そこに誰がいたのかは思い出せない。

僕は原簿の下から、薄い封筒を見つけた。

表には何も書かれていない。封は閉じられていたが、糊が一度剥がされ、貼り直されている。僕は封筒の端を指で押さえた。紙は乾いている。だが、内側に硬いものがある。

封を開く。

中から、折り畳まれたメモが出てきた。

筆跡を見た瞬間、澪さんだと分かった。

文字は急いでいた。けれど、数字の七の払い方と、行の端を揃える癖は、彼女のものだった。

――K‐17は荷ではない。

僕は、呼吸を忘れた。

続きには、いくつかの時刻が並んでいた。

――二十三時九分、港の鐘。

――二十三時十四分、灯台側の警報鐘。

――二十三時十九分、旧波止場から資料館裏口へ移動。

その下に、短い一文がある。

――悠真は見ている。だが、見たことを自分のせいだと思わせないこと。

指先が震えた。

僕は、その名前を何度も見た。

悠真。

他人が呼ぶための名前ではない。澪さんが、僕へ向けて書いた名前だった。

さらに下には、文字が乱れている。

――透が音を切った。

――伊吹は、順番を変える。

――久世は、K‐17の本当の行先を知っている。

そこで文章は途切れていた。

僕はメモを机に置き、原簿の表紙を撫でた。K‐17は荷ではない。では、何だったのか。人か。場所か。あるいは、記録から消された出来事そのものか。

原簿の一冊を開く。

古い紙の匂いが立ち上がった。頁には、埋め立て工事当時の搬入記録が並んでいる。鉄材、砂利、燃料、作業員。K‐16の次に、K‐18がある。K‐17だけが欠落していた。

だが、末尾の余白に小さな手書きが残っていた。

――作業員一名、所在不明。

――船荷として処理。

僕の指から力が抜けた。

誰かが、人を荷物の欄へ移した。

そうすれば、失踪は事故になる。事故は手続きになる。手続きは、担当者のいない紙の束になる。最後に誰かが「確認済み」と印を押せば、そこにいた人間は、紙の中から消える。

僕は次の頁をめくった。

その裏に、何かが貼りついている。紙の角を爪で起こすと、古い身分証の断片が現れた。濡れて乾いた跡があり、名前欄の中央だけが破れている。

残っている文字は、ひらがなの「き」と、漢字の一部だった。

霧島悠真。

名前の下には、資料館の旧式な印が押されている。発行日を見た。

十年前。

胸の奥で、長く鳴り続けていた鐘が不意に止まった。

世界から音が消える。

続いて、冷たい水に足を取られた。

旧波止場。

濡れた木材。

白い霧。

僕の手首をつかむ誰かの手。

目の前に、澪さんがいた。

今より若く見える。髪は乱れ、頬に霧の水滴がついている。それでも目の奥は冴えていた。彼女は僕の手から帳簿を取り上げようとしている。

「開かないで」

声が聞こえた。

「でも、ここに書いてある」

僕が答えている。

「書いてあるから、開いてはいけないの。開けば、あなたの名前が消される」

「もう消されている」

「だから戻すの。あなたが見たことを、ここへ戻しておく」

誰かが近づいてくる。

板を踏む足音。ゆっくりで、急いでいるのに急いでいない歩き方。

澪さんが僕の手首をつかんだ。

「悠真、聞いて。あなたは何もしていないことにされる。けれど、何もしなかったわけじゃない。見た。だから、生きてここを出て」

霧の向こうに、穏やかな声がした。

――澪さん、そんなに急がなくても。

有馬透の声だった。

僕はその声を、今まで何度も資料館で聞いていた。紙を返すときの柔らかな声。鉛筆の向きを直すときの静かな息遣い。何も壊さない人間の声。

記憶の中で、有馬の手が帳簿へ伸びる。

僕はその手を払った。

帳簿が床へ落ちる。

澪さんが何か叫ぶ。

灯台の光が消える。

誰かが僕の後頭部を殴ったのか、足もとが崩れたのか、それは分からない。ただ、最後に見えたのは、濡れた木材の上へ落ちた真鍮の鍵と、白い粉のついた袖口だった。

僕は机に手をつき、現実へ戻った。

保管庫の壁が近い。呼吸が荒い。右手の手首には、もう誰の指もない。それでも、そこだけ皮膚が締めつけられている。

メモの最後の行を読み返した。

――悠真は見ている。

僕は、町の外から来た通りすがりではなかった。

過去を失った被害者でも、偶然事件に巻き込まれた調査補助員でもない。僕はこの場所にいた。澪さんと帳簿を見て、有馬の手を払い、誰かが消される瞬間を見た。

そして、そのあと何かを戻した。

何かを隠した。

それが何だったのかは、まだ分からない。

分からないまま、自己嫌悪だけが先に形を持った。記憶がないことを言い訳にして、僕はずっと自分を無垢な場所へ置いていたのかもしれない。知らないから責任がない。覚えていないから、選んでいない。そう思い込めば、空白は傷でいられる。

けれど、傷の中に自分の手があった。

僕は原簿の頁を閉じた。

澪さんのメモと身分証の断片を、封筒へ戻す。角を揃え、折り目を合わせ、机の中央へ置いた。持ち帰りたい衝動はあった。すべてを自分の手元へ集め、誰にも触れさせたくなかった。

それでも、僕は一度、時刻を書いた。

二時二十九分。

見つけたもの。澪さんのメモ。原簿。身分証の断片。

記憶。十年前、旧波止場にいた可能性。澪さんと帳簿を見ていた。

推測。K‐17は、失踪した作業員を記録上の荷物へ置き換えた番号かもしれない。

鉛筆を置いた。

戻る時刻まで、あと二分だった。

扉の外で、水の音がした。

潮が戻り始めている。

僕は封筒をコートの内側へ入れ、原簿を一冊だけ持ち上げた。すべては運べない。だからこそ、どれを持ち帰るかを選ばなければならない。

手に取ったのは、K‐17の行が欠けた原簿だった。

扉を閉める前、保管庫の中を振り返る。

暗い机。濡れた床。積み重ねられた帳簿。紙の匂い。

ここには、僕が忘れたものがすべて残っているわけではない。残っているのは、誰かが消そうとして、消しきれなかった断片だけだ。

だから、記憶が戻らなくてもいいとは思えなかった。

戻らないことを、都合よく許してはいけない。

けれど、戻った記憶だけで自分を決めることもできない。

僕は鍵を抜き、証拠袋へ戻した。

扉を閉める。

錠がかかる音が、海の底で鳴ったように聞こえた。

泥の上へ出ると、霧の向こうで灯台の光が点った。

一度。

二度。

三度。

僕は数えた。五つ目が来る前に、裏堤防道へ向かって歩き始める。

足は重かった。靴底に泥がまとわりつき、海藻の匂いがいつまでも残る。けれど、さっきまでのように道に連れて行かれてはいなかった。

僕は自分で戻る方向を選んでいた。

資料館へ戻れば、神谷さんに原簿を渡す。篠宮さんに、十年前のことを尋ねる。有馬の名前がメモに残っていたことも、僕自身があの夜そこにいたことも、隠さない。

何をしたのかは、まだ分からない。

何を隠したのかも、分からない。

それでも、分からないまま記録することはできる。

霧の向こうから、港の鐘が鳴った。

音は遅れて届いた。空気が先に震え、低い響きがあとから追いついてくる。

僕は立ち止まり、濡れた手首を見た。

そこには、誰かの指の跡も、過去を証明する傷もなかった。

ただ、冷たさだけが残っている。

僕はその冷たさを、忘れたことにしなかった。

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