第6話 鐘のずれ

灯台日志を調べに行ったのは、神谷さんのほうが早かった。
僕が資料館へ戻った翌日の午後、潮見崎署から呼び出しが来た。電話口の声は短く、用件を尋ねても「神谷が話す」としか言わなかった。受話器を置いたあと、僕はしばらく濡れた窓を見ていた。霧は朝より薄い。けれど、薄くなったぶん、町の輪郭がかえって不自然に見えた。港湾会社の本社ビル、町議会の白い庁舎、その向こうの高台に立つ灯台。どれも見えているのに、互いの間にあるものだけが隠されている。
署の二階にある小さな取調室には、苦い珈琲の匂いと、古い紙の乾いた匂いが混じっていた。
神谷さんは机の上を片づけていた。書類の角を揃え、細い付箋を色ごとに並べ、使い込まれた金属製の定規を紙束の端へ置く。その動作に迷いがない。僕が入っても顔を上げず、最後の一枚を他の紙と重ねてから、ようやく椅子を引いた。
「座って」
「灯台日志ですか」
「先にこれを見て」
差し出されたのは、複写された記録だった。縦書きの細かな文字で、灯台の点灯時刻と、霧の濃さ、機械の異常が記されている。紙の中央に、赤い付箋が一枚貼られていた。
事件当夜の記録。
僕は紙の端へ指を置いた。複写紙は乾いていて、触れた感触からは何も分からない。けれど、赤い付箋の角がほんの少し浮いている。誰かが貼り直した跡だった。
「この付箋、いったん剥がされています」
「そう思う理由は?」
「糊の残り方が左右で違います。右側だけ紙の繊維が浮いている。貼ったままなら、こうはならない」
神谷さんは付箋を剥がさなかった。代わりに定規の先で、付箋の縁を軽く押さえた。
「正解。ただし、付箋を貼った人間と剥がした人間が同じとは限らない」
「そこに、欠落した日があるんですね」
「見て」
赤い付箋の下には、日付がひとつ抜けていた。
前日の記録から、翌日の記録へ。頁の罫線は続いているのに、その一日だけが存在しない。切り取られた形跡はない。紙そのものは一枚につながっている。けれど、書かれているはずの欄だけが、最初から空白だったように整えられていた。
「霧の夜の鐘が鳴った時間です」
神谷さんは、机の上に別の紙を置いた。
「港の鐘の保守記録。事件当夜、二十三時九分に一度、二十三時十四分に一度鳴っている。後者は定刻の鐘ではない。灯台守が異常を知らせるために鳴らした可能性がある」
「音声メモに残っていた時間と同じです」
「端末の記録では、二十三時十四分。澪さんの音声には、鐘の音の前に、何かを引きずるような音が入っている」
神谷さんが端末を再生した。
荒い潮騒が流れた。風がマイクに当たり、音が歪む。波の音の奥で、硬いものが板を擦る。続いて、短い足音が二つ、三つ。誰かが急いでいる。けれど走ってはいない。走れば音が大きくなる場所で、音を小さくしようとしている歩き方だった。
そのあと、鐘が鳴った。
低い音が一度、霧の中で膨らむ。
僕は反射的に指を折った。
一、二、三、四、五。
五つ数えたあと、端末の中で誰かが息を呑んだ。
「この鐘は、二十三時十四分に鳴ったように聞こえます」
「ように、ではなく、端末にはそう記録されている」
「でも、音そのものは遅れている」
「分かる?」
「前に、旧波止場で聞きました。先に空気が震えて、そのあとから音が届いた。霧のせいで、音が遅れている」
「霧の濃度と風向きを確認した。港から灯台側へ風が流れていた。音がこちらへ届くまで、数秒の遅れが出る。だが、五分は遅れない」
神谷さんは端末を止めた。
「問題は、音声メモの時刻が正しいかどうかではない。音声に入った鐘が、どの場所で鳴ったものかだ」
「港の鐘ではない可能性がある?」
「灯台にも小さな警報鐘がある。港の鐘より音が高く、余韻が短い。音声に残っているのは、港の鐘に似ているが、完全には一致しない」
「誰かが別の鐘を鳴らした」
「あるいは、別の場所で録音した音を重ねた」
神谷さんは音声メモの波形を印刷した紙を指で押さえた。
「音は切り貼りできる。だから、音だけでは時刻を決められない。ただ、紙の記録も無傷ではない。灯台日志には、事件当夜の前後だけ一日分の記録がない。港の保守記録には鐘の時刻が二つ残っている。さらに、灯台守の交替表では、二十三時前に交替したはずの人間が、翌朝まで勤務したことになっている」
「人が一人、記録の上で動かされている」
「そう。荷物と同じ」
神谷さんは、複写された日志の余白を見つめた。
「人がいなかったことにするには、姿を消す必要はない。交替時刻をずらし、目撃された場所を別の場所へ移し、誰かに『その時間はそこにいた』と言わせればいい。町の人間は、記録がそうなっていれば、見たもののほうを疑う」
「澪さんは、それを知っていたんですか」
「たぶん」
「たぶんで捜査するんですか」
神谷さんの目が、僕の手元へ落ちた。
「捜査は、たぶんを積み上げる仕事じゃない。たぶんを消していく仕事。今は、消しきれていないものがこれだけある」
彼女は付箋の貼られた空白、鐘の保守記録、音声の波形を順に並べた。
「私は以前、証言の強さに引っ張られて、物証の扱いを誤ったことがある。人が自信を持って言うと、それだけで事実らしく聞こえる。けれど、その自信が誰かに与えられたものかもしれないとは考えなかった。結果、記録の空白を埋めるために、証言のほうを都合よく使った」
「それで、今は証拠の順番を飛ばさない」
「飛ばさない。飛ばせば、次に飛ばす理由ができる」
神谷さんは、僕の前へ小さな封筒を置いた。
「灯台日志の原本を見たい。資料館にある旧記録と照合する。あなたにも来てもらう」
「僕を信用しているんですか」
「まだしていない」
「では、なぜ」
「信用していないから、目の前で見ておきたい。あなたは記憶を失っている。そのことを理由に、見えたものへ勝手な意味を足す危険がある。一方で、他の人間が見落とす紙の違いを見つける。危ういが、役に立つ」
神谷さんの言い方には、慰めも遠慮もなかった。けれど、その封筒を僕の前へ置いた手つきには、僕を捨ててはいないという意思があった。言葉にしないまま、危険な場所へ一人で行かせないための手配だった。
僕は封筒を受け取った。
「伊吹さんと久世さんも呼ぶんですか」
「先に伊吹議長へ行く」
町議会の議場は、海沿いの庁舎の三階にあった。廊下には、埋め立て事業の完成式典を写した写真が何枚も飾られている。作業服の男たち、白いヘルメット、背後に広がる新しい岸壁。写真の隅には若い頃の伊吹さんが写っていた。笑顔は今と同じだった。
伊吹さんは議長室で茶を淹れていた。銀の万年筆が机の右端に置かれ、革表紙の手帳の上には、髪の毛一本さえ落ちていない。彼は僕らを迎えると、まず襟元を整え、椅子を勧めた。
「澪さんの件は、町に大きな痛手を残しました」
「痛手という言葉で済ませるつもりですか」
神谷さんが言うと、伊吹さんは湯飲みを机へ置いた。
「済ませるつもりはありません。ですが、言葉には順番があります。死者を悼むこと、原因を調べること、責任を問うこと。どれも必要ですが、同時に行えば、互いを壊してしまう」
「記録の照会をします」
「もちろん協力します」
「灯台日志の欠落日について」
伊吹さんの笑顔は崩れなかった。
「灯台の記録は、管理者に確認すべきでしょう。町議会が保管しているのは、事業に関する正式な書類だけです」
「埋め立て工事の当時、町議会は灯台と港の記録をまとめていました」
「まとめたことと、改ざんしたことは別です」
「まだ改ざんとは言っていません」
一拍、沈黙があった。
伊吹さんの指が、机の縁をゆっくりなぞった。
「神谷さん。あなたは言葉を正確に扱う人だ。だからこそ、言葉の外にある影響も考えていただきたい。古い事故を掘り返せば、当時の関係者だけでなく、その家族も、会社も、町全体も巻き込まれる。住民に何を知らせ、何を伏せるかは、捜査の問題ではなく、共同体の判断です」
「死者の沈黙を、共同体の判断で上書きするんですか」
「違います。混乱を防ぐために、確かなものから示すべきだと言っている」
「確かなものとは、あなたが整えた説明ですか」
伊吹さんは笑った。
「私が整えたかどうかは、記録を見れば分かるでしょう」
「その記録を見せてほしい」
「正式な照会をいただければ」
「今、正式に求めています」
「では、手続きを整えましょう」
彼の声は穏やかだった。穏やかなまま、時間をこちらから奪っていく。紙を出す前に書式を求め、書式を求める前に担当者を変え、担当者が変われば確認の順番を作り直す。町を動かす人間の手つきだった。
僕は机の上の手帳を見た。
表紙の端に、古い海図の角が挟まっている。灯台から旧波止場へ伸びる線のようだった。
「伊吹さん」
「何でしょう」
「灯台日志を見ると、何か困りますか」
神谷さんがこちらを見た。伊吹さんは僕の目をまっすぐ見返した。笑うとき、相手の目を逃がさない人間の視線だった。
「困る、というのは妙な言い方ですね。記録は町の共有物です。正しく扱われるなら、誰が見ても問題はない」
「正しく扱われるなら、という条件をつけました」
「霧島さん。記憶を失った方が、言葉の細部だけを拾うのは危険です。人は、不安になると、文章の綻びを自分の居場所にしてしまう」
胸の奥に冷たいものが落ちた。
「僕の記憶を知っているんですか」
「あなたの状態を知っているだけです。資料館に来る前のことを、あなた自身が覚えていないことも」
「誰から聞いたんです」
「町では、誰かの事情は隠しても消えません」
「それは記録ですか、噂ですか」
「どちらも、ときには同じ働きをします」
伊吹さんの言葉が、霧のように机の上へ広がった。形を持たないのに、逃げ道だけを塞いでいく。
神谷さんが封筒を閉じた。
「照会書は今日中に出します。記録が出なければ、出ないこと自体を記録します」
「どうぞ」
伊吹さんは、また笑った。
「ただし、町を壊した責任まで、私一人に負わせないでいただきたい。町は一人で動かすものではありません」
その言葉に、僕は違和感を覚えた。
責任を分ける言い方なのに、彼は誰かの名前を出さなかった。町議会、港湾会社、資料館。三者をひとつの曖昧な塊にして、誰の手も見えなくしている。
庁舎を出ると、潮風が頬を打った。霧は晴れかけていたが、海面にはまだ白い帯が残っている。神谷さんは歩きながら、髪を押さえた。整えるためではなく、視界を塞ぐものを避けるための仕草だった。
「久世さんのところへ行きます」
「伊吹さんと口裏を合わせているように見えました」
「そう見える」
「実際に合わせているかもしれない」
「かもしれない」
「神谷さんは、何でも分けますね」
「分けないと、疑いが人を食う」
観海運輸の事務室では、久世さんが一人で帳簿を確認していた。窓の外に港が見える。事務机の上には濃い茶が置かれていたが、湯気はもう消えている。久世さんは僕らが入ってもすぐに顔を上げず、数字の並びを最後まで追ってから帳簿を閉じた。
閉じる前に、指先で頁の端をなぞった。
「灯台日志の照会です」
神谷さんが言った。
「伊吹議長から聞いています。正式な書類が必要なのでしょう」
「議長は、そう言いました」
「では、そうなのでしょう」
久世さんは机の引き出しから、古い経理手帳を取り出した。名前の部分が擦れて読めなくなっている。彼女はその手帳を開き、数年前の日付を探した。
「灯台日志は会社の管轄ではありません」
「しかし、港の出入りと点灯時刻を照合していた」
「昔は、港湾会社が灯台守へ燃料を届けていました。燃料の納入記録と点灯記録を一緒に綴じていた時期がある。今は別です」
「別にされたのは、いつですか」
「失踪事故のあとです」
久世さんの声は平坦だった。けれど、紙面を押さえる指が止まった。

「事故のあと、記録が散らされた。灯台は町議会、貨物は会社、作業員の名簿は工事業者。ひとつの出来事を三つに分ければ、どこにも全体の責任が残らない。私は、その分け方を帳簿の上で何度も見ました」
「あなたは、記録を分ける作業に関わった」
「関わったというより、渡されたものを受け取った。受け取ったものを次の帳簿へ移した。それが仕事でした」
「異議は唱えなかったんですか」
久世さんは、濃い茶の湯飲みへ手を伸ばした。冷めているはずなのに、口をつけず、ただ両手で包む。
「唱えました。最初の頃は。数字が合わない、担当者が不明だ、日付が重なっている。そう言うたびに、上の人間は『年度末までに整えてくれ』と言った。整えるというのは、間違いを直すことだと思っていた。でも、違った。誰が何をしたか分からなくすることだった」
「それでも続けた」
「続けました」
久世さんは僕を見た。
「正しいことを言えば、誰かが職を失う。家族が困る。会社が倒れる。そう言われて、私は黙った。黙ったあとで、帳簿の端を揃えた。紙が揃っていれば、少なくとも自分の手元だけは崩れていないように見えたからです」
「伊吹さんも、そのことを知っていますか」
「知っています」
「口裏を合わせていますか」
「彼は、私が知っていることを知っている。私は、彼が知っていることを知っている。それだけです」
「それを口裏と言うんじゃないですか」
「言葉を選ばないなら、そうでしょうね」
久世さんの声が、少し低くなった。
「でも、口裏を合わせるというのは、同じ嘘を言うために互いの言葉を揃えることです。私たちは、同じ嘘を言う必要すらない。誰が何を知っているかを曖昧にしておけば、他人が勝手に隙間を埋めてくれる。潮見崎では、そういうやり方のほうが長持ちします」
僕は、彼女の帳簿へ視線を落とした。
数字の列は整っていた。だが、欄外に小さな鉛筆の跡がある。消しゴムで薄く消され、紙の表面だけが白く毛羽立っている。
「ここに、灯台の時刻を書いていたんですか」
「昔の控えです」
「消した理由は?」
「消していません」
「消し残しがあります」
久世さんの背筋が伸びた。
何かを隠しているときほど、背筋がまっすぐになる。その変化は小さかったが、僕には十分だった。
「それを見つけたから、私を疑うんですか」
「疑うのは神谷さんです。僕は、違和感を見ているだけです」
「便利な分け方ですね」
久世さんは、僕の言葉をそのまま返した。
「あなたは違和感だけを見ているつもりでも、その先には人間がいる。私の背筋、伊吹議長の呼吸、神谷さんの紙の揃え方。そこから人間の罪を逆算する。ですが、あなた自身のことになると、同じように見られない」
喉の奥が詰まった。
「僕のことを知っているんですか」
「知っている、とは言えません」
「また、それですか」
「あなたが資料館に来る前、観海運輸の倉庫で働いていた記録がある。短期間でした。正式な社員ではない。澪さんの依頼で、資料の運搬を手伝っていた」
頭の中で、何かが擦れた。
濡れた木箱。
白い粉。
誰かの手が、僕の手首をつかむ。
視界が暗くなり、机の縁が遠ざかった。
「霧島さん」
神谷さんの声がした。
「座ったままでいい。息を整えて」
僕は机に手をついた。紙のざらつきが掌へ食い込む。久世さんは立ち上がらなかった。けれど、湯飲みを僕の方へ押し出した。冷めた茶だった。熱すぎないどころか、もうほとんど温度がない。それでも、口に含むと喉の震えが少し収まった。
「なぜ、今まで言わなかったんですか」
僕は久世さんに尋ねた。
「あなたが訊かなかったからです」
「記憶がない人間は、自分から何を訊けばいいのか分かりません」
「だから、誰かが勝手に教えるべきだと?」
「少なくとも、僕に関係することなら」
「関係することをすべて返せば、あなたは自分で選ぶ前に、他人の記憶を背負うことになる」
久世さんは帳簿を閉じた。
「澪さんは、あなたに何も言わなかった。言わなかったのではなく、言う時期を待っていた。あの人は、記録を渡すときでさえ順番を気にする人でした」
「澪さんは、僕を守ろうとしていたんですか」
「守ったのか、隠したのかは分かりません。ただ、見捨てなかった。あなたが夜の資料館で働けるように、私へ何度も連絡してきた。あなたの手が紙を扱えること、記録を見ても余計なことを言わないこと、そして――」
久世さんはそこで言葉を切った。
「そして、あなたが過去を思い出したときに、誰かの言葉だけで自分を決めないようにすること。それだけは、彼女が何度も言っていました」
胸の奥に、澪さんの声が戻った。
記録は逃げません。
人は逃げます。
逃げた人を追うのは、記録を揃えてから。
その言葉の裏側に、彼女が待っていた時間があった。僕が思い出すのを待つのではなく、僕自身が確かめる場所まで歩いてくるのを待っていたのかもしれない。
神谷さんが、灯台日志の複写を机へ置いた。
「久世さん。事件当夜、二十三時十四分前後に、観海運輸の人間が港へ出た記録はありますか」
「公式にはありません」
「非公式には?」
久世さんは答えなかった。
事務室の外で、誰かが歩いた。ガラス戸の向こうを、作業服の男が二人通り過ぎる。こちらを見たように思えたが、目が合う前に視線を逸らした。港町では、話を聞かれることより、誰と話していたかを見られることのほうが怖いのかもしれない。
久世さんは、引き出しから錆びた荷札の切れ端を出した。
「これは、帳簿にはありません」
K‐17の一部だった。
紙の端は潮で硬くなり、文字の下に薄い灰色の線が残っている。線は灯台から旧波止場へ伸びる道に似ていた。
「事件当夜、この荷札を見つけました。裏堤防道の排水溝に落ちていた。澪さんへ渡すつもりでしたが、渡せなかった」
「なぜ」
「渡せば、私がどこで見つけたかを説明しなければならない。説明すれば、私がその夜、裏堤防道にいたことも話すことになる」
「あなたは、何を見たんですか」
久世さんは僕を見た。
その視線に、警戒とは違うものが混じった。僕を遠ざけたいのに、完全には切り捨てられない人間の目だった。
「霧の中で、あなたを見ました」
室内の音が消えた。
「僕を?」
「正確には、あなたに似た人影を。灯台の光が消えたあと、旧波止場の方から歩いてきた。濡れていて、右手を押さえていた。誰かと一緒だったように見えましたが、霧が濃くて、もう一人の顔は分からなかった」
「僕は、何をしていたんです」
「分かりません。ただ、あなたは何度も後ろを振り返っていた。追われているようにも、誰かを待っているようにも見えた」
「なぜ、僕だと思ったんですか」
「歩き方です」
久世さんは、荷札の切れ端を指で押さえた。
「人の顔は霧で消えます。でも、歩き方は消えない。あなたは今も、考えながら歩くとき、左足を少し引く。あの夜の人影も同じでした」
僕の左足が、床の継ぎ目を探していた。
灯台の光。
五つ数える間隔。
濡れた袖。
自分の手首をつかむ指。
誰かが言う。
戻すな。
僕は目を閉じた。記憶を追いかければ、また霧の中へ沈む。けれど、今度は沈む前に、紙の上の事実を一つ掴んでいた。
K‐17。
灯台の欠落日。
二十三時十四分。
そして、自分がその夜、旧波止場から歩いてきた可能性。
神谷さんが、荷札の切れ端を証拠袋へ入れた。
「久世さん、これは預かります」
「ええ」
「あなたの証言も、正式に聞きます」
「分かっています」
久世さんは、帳簿の端を最後に一度だけ揃えた。
「ただ、私の証言は信用しすぎないでください。私は長いあいだ、見たことを記録より先に飲み込んできた。飲み込んだものは、時間が経つと、自分の記憶なのか誰かの説明なのか分からなくなる」
「証言は証拠と同じ場所に置かない」
僕が言うと、神谷さんがこちらを見た。
「覚えていたんですね」
「覚えたんです。今」
署へ戻る道で、霧がまた濃くなっていた。
神谷さんは先を歩き、僕は少し遅れてついていく。濡れた路面に、灯台の光が途切れ途切れに映っている。光が消えるたび、町の建物が海の底へ沈み、次に現れたときには位置が変わっているように見えた。
「神谷さん」
「何」
「鐘の音は、時間を知らせるものですよね」
「本来は」
「でも、音が届く場所によって、時間がずれて聞こえる。記録が書かれた場所によっても、意味がずれる」
「そう」
「では、時間そのものを隠すには、時計を壊す必要はない」
「記録する場所を分ければいい。音の届く場所と、人のいる場所と、紙を書く場所を別にする」
「そうすると、同じ夜の出来事が、別々の時間に見える」
「その通り」
神谷さんは歩みを止めずに言った。
「だから、次は灯台、港、旧波止場を同じ時刻の中で見る。音声メモの時刻を信じるのではなく、音がどこから来て、誰が聞き、どの紙に残ったかを並べ直す」
「有馬さんも、音声メモに触れられますか」
「資料館の整理担当なら、機器を扱う機会はある」
「でも、まだ疑う理由には足りない」
「足りない。だから疑いを急がない」
神谷さんはそこで初めて、ほんの少しだけ振り返った。
「あなたが見たものは、捨てなくていい。けれど、記憶と証拠と推測を、同じ紙に書かないで」
「分けて書きます」
「それができるなら、あなたは自分の記憶が戻らなくても、前へ進める」
その言葉は、慰めではなかった。記憶が戻ることを前提にしない、乾いた許可だった。
署の前で、港の鐘が鳴った。
音は一度、霧の向こうで震えた。
僕は数えなかった。
届くまでの時間を、もう鐘の音だけで決めないために。
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