5話 倉庫群の湿り気

朝の霧は、まだ海面から離れていなかった。

港の方角を見ても、輪郭のあるものは何もない。白い塊が水面から立ち上り、そのまま空へ溶けている。歩くたびに、湿った空気が頬に貼りつき、コートの裾が重くなっていくのが分かった。

篠宮さんは、僕より半歩前を歩いていた。猫背のまま、視線だけはまっすぐ観海運輸の倉庫街に向いている。荷袋を提げた老人の足取りとは思えないほど、迷いがなかった。

「昨夜の続きだ」

篠宮さんが言った。

「棚の空白を写した紙、持っているか」

「持っています」

「今日はそれを、現物と突き合わせる」

「現物というと」

「帳簿の言葉ではなく、木と鉄と、腐りかけた縄だ」

僕たちは、観海運輸が管理する漁具倉庫群の入口に着いた。錆びた鉄扉が並び、その先はさらに深く、闇が沈んでいる。潮と油の混じった匂いが、鼻の奥を刺した。足元のコンクリートには、夜半に降った雨がまだ黒く残り、そこに霧の白さが薄く映り込んでいる。

扉の把手は、冷たいというより湿っていた。金属の表面に浮いた水滴が、指先に染みてくる。僕はその感触に、昨夜握った真鍮の鍵の冷たさを思い出した。似ているようで、違う。鍵の冷たさは内側から来るものだった。この扉の湿りは、外からまとわりつく類のものだ。

「開けるぞ」

篠宮さんが鍵を回すと、蝶番が低く軋んだ。中の空気が、外の霧よりもさらに重く感じられる。

倉庫の奥は、思っていたより深かった。天井近くの明かり取りから差し込む光は弱く、床に届く前に霧のような埃の粒に吸われてしまう。奥へ進むほど、自分の足音さえ遠くなる。誰かがそこにいるような気配だけが、少し遅れて追いついてくる感じがした。

「音が、変です」

「深い場所は、音を吸う。木箱、縄、油布。全部が音を殺す材料だ」

「わざとですか」

「わざとかどうかは知らん。ただ、静かな倉庫は、静かにされるべき理由を持つことが多い」

篠宮さんは、懐から古い海図を取り出した。倉庫の壁際にある作業台にそれを広げ、鉛筆で薄く線を引き始める。指先は震えていないのに、線は迷うように何度も引き直された。

僕は、渡された荷札の控えを手に、棚を一つずつ確かめていった。

番号は整然と並んでいるように見えた。だが、番号と現物の位置を照らし合わせると、書類上ではとうに港を出たはずの積荷が、倉庫のさらに奥、湿った壁際に押し込まれたまま眠っていた。逆に、帳簿には存在しない便の荷が、古い木箱の下敷きになって隠れていた。

僕は木箱の角を指でこすった。

乾いた泥がぽろりと落ちる。その下から、書類の余白に落ちるのと同じ、粉っぽい白が現れた。石灰か、あるいは潮の結晶か。指先で擦ると、微かにざらついた感触が残る。

木の匂いを嗅ぐ。潮に浸かった木材特有の、饐えたような重い匂いだった。書類の紙の匂いとは違う。紙は乾いた時間の匂いを持つが、木は湿った時間の匂いを持つ。二つが同じ「時間」を語っているはずなのに、匂いだけが食い違っていた。

「篠宮さん」

「見つけたか」

「荷は動いていません。でも、書類の上では動いたことになっています」

「逆のものは?」

「あります。書類にない便が、ここにある」

篠宮さんは、海図から顔を上げた。

「二つを重ねれば、どうなる」

「同じ量の荷が、名前だけを変えて、行ったり来たりしている」

「それだけか」

僕は少し黙った。篠宮さんの問いは、いつも答えの手前で止まる。答えを渡すためではなく、答えの手前に僕を立たせるための問いだった。

「量が変わっていない、ということは――誰かが、荷そのものを隠したいんじゃない。荷の“動き”を隠したいんです。動きが記録されなければ、いつ、誰が、何のためにここへ来たのかが消える」

「そうだ」

篠宮さんは鉛筆を置いた。

「荷は嘘をつかない。だが、荷の順番は簡単に嘘をつく。順番を変えれば、そこに立っていた人間の輪郭まで消せる」

僕の喉が、また少し冷たくなった。

「これは、澪さんが追っていたものと同じですか」

「同じだ。ただし、澪が見ていたのは十年以上前の順番だ。今おまえが見ているのは、つい最近の順番だ」

「今も、続いているということですか」

「続いているものは、古いものと同じ手つきを残す。おまえは昨日、紙の上でその手つきに気づいた。今日は、木と縄の上で気づいている」

篠宮さんは、海図に引いた線を指でなぞった。奥の壁際から、外の鉄扉、裏堤防道へ抜ける細い道筋が、薄く浮かび上がっている。

「荷の流れは一度ではない。何度もすり替えられている。慌てて隠した跡ではない。長く、丁寧に、見た目だけを整えた跡だ」

「誰が、そんなに丁寧に」

「それは、まだ言わない」

言いかけて、篠宮さんは口をつぐんだ。倉庫の奥から、足音が聞こえたからだ。

規則正しい、迷いのない足音だった。

久世真帆が、鞄を抱えて奥から現れた。

「――ここで、何をしているんですか」

彼女の声は、いつもと変わらず端正だった。だが、目の動きだけが、僕らの手元の荷札と海図を素早く測っていた。

「荷札の照合です」

僕が答えると、久世さんは一歩、こちらへ近づいた。

「照合には、会社の許可がいります」

「篠宮さんが、資料館の記録係として立ち会っています」

「資料館の記録は、資料館の中で完結するべきものです。倉庫の中身にまで、資料館の判断を持ち込む理由がどこにあるんですか」

声は低く、抑えられている。だが、その低さの奥に、僕は初めて彼女の呼吸の浅さを聞き取った。

「久世さん」

篠宮さんが、静かに口を開いた。

「あなたは、この倉庫の記録がおかしいことに、もう気づいていたはずだ」

久世さんは、答えなかった。ただ、鞄の留め具に指をかけたまま、視線をわずかに逸らした。

「気づいていて、正さなかった。正せなかった、と言った方が正しいかもしれない。あなたは、帳簿を書き換える人間ではなく、書き換えられた帳簿を、そのまま抱えて生きてきた人間だ」

「――勝手なことを」

久世さんの声が、少しだけ震えた。

「勝手ではありません。あなたの手を見れば分かる。帳簿を閉じる前に、必ず端を揃える。今も、鞄の留め具を、必要以上に何度も確かめている。それは、何かを守ろうとする手ではなく、何かに耐えている手だ」

久世さんは、長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。

「――篠宮さん。あなたは、昔からそうやって、人の手だけを見て、勝手に人の中身を決めつける」

「決めつけているのではない。読んでいるだけです」

「読むことと、暴くことの境目を、あなたはいつも自分に都合よく引く」

久世さんの声は、初めて温度を持った。怒りではない。もっと深い、疲れの温度だった。

「私は、数字の後始末をする係です。誰かが書いた嘘を、次の年度に矛盾が出ないよう、静かに均していく。それだけの仕事を、何年も続けてきました。均すたびに、自分の指がどこかへ紛れ込んでいく感覚がありました。誰の罪でもない場所に、自分の指紋だけが残っていく」

彼女は、僕の方を見た。

「霧島さん。あなたが、この倉庫の順番を疑うのは自由です。ですが、順番を疑うことは、私の指紋を数えることでもあるんです。私は、それに耐える準備が、まだできていない」

僕は、何も答えられなかった。彼女の言葉には、告発でも弁明でもない、もっと生の感情が滲んでいた。数字の裏に隠れて生きてきた人間が、初めて自分の輪郭を差し出しているように聞こえた。

「久世さん」

僕は、ようやく声を出した。

「僕は、あなたを裁くために、ここへ来たわけじゃありません。ただ、荷の動きの中に、僕自身の空白と同じ形をしたものがある気がして、それを確かめたいだけなんです」

久世さんは、僕を見つめた。

「あなたの空白と、この倉庫の空白が、同じ形をしている、と」

「分かりません。ただ、あなたの指紋を数えるつもりはない、ということだけは言えます」

久世さんは、しばらく黙っていた。やがて、鞄の留め具から指を離し、静かに息を吐いた。

「――この先は、私からは言えません。言えば、私はまた誰かの代わりに黙ることになる。ただ、あなたが見ているものは、間違っていない、とだけ言っておきます」

それだけ言うと、久世さんは踵を返し、倉庫の奥へ戻っていった。足音はやはり規則正しく、乱れがなかった。けれど、遠ざかる背中の肩が、来たときよりわずかに落ちていた。

篠宮さんは、彼女の後ろ姿を見送ってから、海図に視線を戻した。

「聞いたか、今の言葉」

「間違っていない、と」

「それは、認めたわけではない。だが、否定もしなかった」

「それが、彼女にできる精一杯の答えということですか」

「潮見崎では、それが誠実さの形になることがある」

篠宮さんは、線を引き終えた海図を折りたたんだ。

「帰るぞ。ここでの用は済んだ」

倉庫を出ると、霧はさらに濃くなっていた。表通りを避け、篠宮さんは裏堤防道へ足を向けた。堤防の縁は白く溶け、海と空の境目が消えている。歩くたびに、足音だけが自分のものだと分かる静けさだった。

視界が失われるほど、身体の内側の輪郭だけがはっきりしてくる。僕はポケットの中で、何も入っていないはずの指を握った。真鍮の鍵は、もう神谷さんに預けている。それでも、指先は冷たいものの形を覚えていた。

堤防の縁に沿って歩くうち、霧の向こうに、見えるはずのない灯台の輪郭がぼんやり浮かんだ気がした。光ではない。ただの影だ。それでも、五つ数える間隔で何かが明滅するような錯覚が、瞼の裏にちらついた。

「篠宮さん」

「何だ」

「久世さんは、僕を見て、何かを堪えているように見えました」

「そうだろうな」

「なぜですか」

篠宮さんは、すぐには答えなかった。霧の中を数歩進んでから、ようやく口を開いた。

「彼女がその答えを持っている。だが、それはおまえが彼女の口から聞くべきものではない。おまえ自身の手で、紙の中から掘り出すべきものだ」

その言葉を聞きながら、僕は無意識に、右手を強く握りしめていた。

鍵はない。

それでも、掌の中心には、確かにあの重みが残っている。

霧の向こうで、遠く低い音が響いた。港の鐘か、それとも倉庫の奥で鳴った金属音の名残か、判別はつかなかった。ただ、その音を聞いた瞬間、僕の身体は、また何かを思い出しかけて、すぐに沈黙した。

思い出す一歩手前の場所に、僕はまだ立ち続けている。

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