第4話 封印帳の口

その夜、資料館の時計は十時を過ぎても、九時の少し先で止まっていた。
篠宮さんが古札をしまったあと、僕はしばらく書庫を出られなかった。机の上には三冊の帳簿が残されている。観海運輸の出港控え、資料館の受け入れ簿、港の作業記録。どれも閉じられているのに、頁の内側で数字がまだ動いているように見えた。
荷札、K‐17。
旧波止場三番。
戻した記録がない。
その三つの言葉が、頭の中で重なっていた。
「帰らないのか」
篠宮さんが、冷めた茶を見たまま言った。
「帰っても眠れません」
「眠れないからといって、帳簿を開く理由にはならん」
「眠れない理由が帳簿にあるなら?」
「それは、なおさら明日に回せ」
「澪さんは、明日に回した結果、死にました」
言葉が書庫の空気を硬くした。
篠宮さんはすぐには僕を見なかった。薄い茶の表面に、天井の照明が細く揺れている。やがて彼は、紙包みを結んでいた古い紐を指先でほどいた。亡くなった妻の使っていたものだと、以前に聞いたことがある。紐は擦り切れ、何度も結び直された跡が残っていた。
「澪が死んだことと、今夜おまえが無理をしてよいことは別だ」
「別にできません」
「できる」
「どうしてですか」
「人は、別にしなければならんことを抱えて生きている。死んだ者のために、残った者まで同じ場所へ行く必要はない」
「それは、残った者が自分を守るための言葉ですか」
「そうかもしれん」
篠宮さんは、そこで初めて僕を見た。
「だが、自分を守ることと、事実から逃げることは同じではない。おまえは今、その二つを混ぜようとしている」
僕は返事をせず、机の端に置かれた三冊の帳簿を見た。
自分を守るために、知りたいわけではなかった。いや、最初はそうだったのかもしれない。空白の向こうに何があるのかを知れば、他人から渡された名前ではなく、自分の足で立てると思っていた。けれど澪さんが死んでから、知りたいという欲求に別の重みが加わっている。
彼女が最後まで揃えようとしていたものを、僕まで閉じてしまえば、死んだ人間の手から記録を奪うことになる。
「封印帳を見せてください」
篠宮さんの眉が動いた。
「なぜだ」
「僕の紙片が、どこから出てきたのか確認したい。K‐17が、どの記録から外されているのかも」
「封印帳は、保管資料の出入りを記す帳面だ。見ても、事故の全体は分からん」
「全体はいりません。まず、入口だけでいい」
「入口を開ければ、奥まで進みたくなる」
「だから、開ける前に戻る場所を決める」
僕がそう言うと、篠宮さんはわずかに目を細めた。感心したのか、呆れたのかは分からない。
「誰に教わった」
「誰にも」
「そういうところが危うい」
「危ういのは、僕ですか。記録ですか」
「両方だ」
篠宮さんは立ち上がり、書庫の奥へ歩いた。
古い床板が、体重の移動に合わせて低く鳴る。窓の外では霧が壁に貼りつき、灯台の光が五つ数える間隔で白く差し込んでは消えた。光が消えるたび、書架の列が海の底へ沈んでいくように見える。
篠宮さんが戻ってきたとき、その腕には黒い布で包まれた帳面があった。
表紙には、赤い蝋の跡が三つ残っている。封印はすでに切られていたが、切ったあとに誰かがもう一度閉じたような、薄い糊の跡が縁に残っていた。
「これが封印帳だ」
篠宮さんは、僕の正面に座った。
「資料館の保管庫から、資料を出し入れした記録がある。正式な貸し出しだけではない。確認のために一時的に移した場合も、原則として書く」
「原則として」
「原則は、人間が守るものだ。守られない場合もある」
「澪さんは書いていましたか」
「書いていた」
「有馬さんは?」
篠宮さんの指が、表紙の角で止まった。
「なぜ有馬の名が出る」
「澪さんは、三番棚の順番が変わったと言っていました。変えたのは有馬さんだと」
「順番を直した、と本人は言った」
「直すという言葉は便利ですね。何をどこからどこへ動かしたのかを曖昧にできる」
「おまえは、澪に似てきたな」
その言葉は、思った以上に深く刺さった。
「似ていたんですか」
「似ていたから、澪はおまえを資料館へ置いた」
「僕を?」
「おまえは、ここへ自分で来たと思っているのか」
喉の奥が冷えた。
以前から、僕は自分がどうして潮見崎にいるのかを知らなかった。気がついたときには町の診療所にいて、身元を示すものは名前の書かれた古い身分証だけだった。篠宮さんはその後、夜間整理の仕事を紹介してくれた。僕はそれを、記憶を失った人間への親切だと思っていた。
「僕を、澪さんが雇ったんですか」
「雇ったのは資料館だ。だが、話を持ち込んだのは澪だ」
「理由は?」
「紙を扱えるからだ」
「それだけですか」
「それだけなら、おまえは訊かない」
篠宮さんは封印帳を開いた。
頁をめくる音が、暗い書庫に小さく重なる。紙は古いが、帳面そのものは想像していたより新しい。薄茶色の罫線に沿って、資料番号、搬出日、返却日、確認者の印が並んでいる。文字は人によって違った。太い筆圧で書かれたもの、角ばった数字、急いで走らせた鉛筆の跡。
「まず、文字を読むな」
「また紙を見るんですか」
「人は文字に意味を与えたがる。意味を先に見れば、欠けたものを勝手に補う。紙の厚み、筆圧、乾き方、書かれた順番を見ろ」
僕は頁へ顔を近づけた。
インクの匂いはほとんど消えていたが、ところどころに湿り気が残っている。日付の欄だけが黒ずみ、確認者の印の周囲に薄い赤茶色のにじみがあった。
「この頁、後から濡れています」
「どこで分かる」
「文字の下に、紙の毛羽立ちがあります。濡れたあとに乾いたものです。けれど、日付の欄より確認者の印のほうがにじみが浅い」
「つまり?」
「印を押したあとに濡れたんじゃない。濡れた紙へ、あとから印を押している」
篠宮さんは何も言わなかった。
僕は頁をさらにめくった。記録の大半は、資料の閲覧や展示替えに関するものだった。古地図、旧税関の建築図、埋め立て工事の写真、港湾会社から寄託された作業日誌。
その中に、番号の並びが一つだけ途切れていた。
K‐15。
K‐16。
次が、K‐18。
K‐17だけがない。
僕の唇が、無意識に動いた。
「K‐17」
声に出した途端、胸の奥が締まった。舌が数字を知っていた。記憶にないはずのものを、口が先に発音した。
篠宮さんは僕を見ていた。
「何を思い出した」
「思い出していません。ただ、次に来る数字が分かる」
「それは記憶ではない」
「では何ですか」
「癖だ。数字の並びを読む癖が身体に残っている」
「身体に残るなら、記憶と何が違うんです」
「記憶は、自分のものだと思い込む。癖は、誰のものか分からないまま残る」
僕は指先で頁の空白を撫でた。
そこだけ紙がわずかにへこんでいる。何かを貼って剥がした跡だ。剥がした紙の縁が、縦に細く残っている。上から別の紙を貼り、その紙ごと抜き取ったのだろう。
「K‐17は、ここに書かれていた」
「可能性はある」
「この帳面から抜かれた」
「そうだ」
「誰が?」
「記録がない」
「記録を抜いた記録まで残す人間はいません」
「だから、別の場所を見る」
篠宮さんは三冊の帳簿を、封印帳の左右へ並べた。
「K‐17が抜かれた時期を特定する。封印帳では番号が一つ飛んでいる。観海運輸の出港控えでは、K‐17の前後に番号の順序が戻っている。資料館の受け入れ簿では、K‐17の代わりに『旧資材関係』という曖昧な記載がある。三つを重ねれば、誰かが同じものを別の名前で呼んだことが分かる」
「同じものというのは、積荷ですか」
「まだ決めるな」
「荷札があるなら、積荷でしょう」
「荷札は荷物に付く。だが、記録に残るのは荷物だけではない。担当者、保管場所、確認の印も一緒に動く。番号が残っているのに、人間の名前だけが消えているなら、そこに別の意図がある」
篠宮さんは観海運輸の控えを開いた。
K‐16の欄には、埋め立て用の鋼材。K‐18には、旧波止場周辺の廃材とある。K‐17の場所には、行間を空けたまま、次の記録が続いていた。
「この空白は、書き忘れですか」
「そう見えるように作られている」
「どうして分かるんです」
「書き忘れた人間は、空白を埋めようとする。後から整えた人間は、空白を整える」
篠宮さんは頁を閉じず、余白の幅を指で測った。
「見ろ。上の行と下の行で、文字の位置が揃っている。K‐17の行だけ、最初からなかったように残してある。これは失敗ではない。消した結果を、帳簿の自然な形に見せている」
僕は紙から目を離せなかった。
誰かは、記録を壊したのではない。壊したあとも、壊れていないように見せた。
澪さんが言っていた。記録は、嘘をつかせることができる。
その言葉が、紙の上で別の姿を取っていた。
「この帳簿を、誰が扱えるんですか」
「資料館の職員、観海運輸の担当者、町議会の確認役。それぞれに権限がある」
「有馬さんにも?」
「資料整理の補助だ。正式な閲覧権限はない」
「でも、棚の順番を変えた」
「順番を変えることと、帳簿を持ち出すことは違う」
「そうやって、一つずつ別の話にする」
僕の声が強くなった。
「番号を抜いたこと。紙を濡らしたこと。棚の順番を変えたこと。全部を別々に扱えば、誰も責任を負わずに済む。でも、同じ手つきで紙を扱った人間がいるなら、別の話ではありません」
篠宮さんは、長いあいだ僕を見ていた。
「同じ手つきとは?」
「書き直しの癖です。日付の七。数字の三。余白の取り方。紙を濡らして糊を緩めた跡。全部、同じ人間がやったと決めるには足りない。でも、偶然と呼ぶには揃いすぎている」
「おまえは、紙から人間を逆算しようとしている」
「それが僕の仕事です」
「おまえの仕事は夜間整理だ」
「僕が何者か分からないなら、せめて今できることをするしかない」
その言葉を口にしたとき、自分の中のどこかが静かになった。
記憶が戻るまで待つ。誰かが全部を説明してくれるのを待つ。僕はずっと、そうしてきた。空白を自分で埋めることが怖かったからだ。間違った記憶を自分のものにするくらいなら、何も持たないほうが安全だと思っていた。
けれど、何も持たない人間は、他人の言葉をそのまま受け取るしかない。
篠宮さんは、封印帳の裏表紙をめくった。
最後の頁に、古い荷札が一枚、糸で仮留めされていた。潮を吸って硬くなった紙の端が、茶色く波打っている。表面には、滲んだ文字が残っていた。
K‐17。
その下に、判読しづらい場所の名がある。
旧波止場――三番。
ただし、三番という数字の下には、別の線が重ねられていた。誰かが一度書き、消し、その上から再び同じ数字を書いたように見える。
「この荷札は、なぜ封印帳に残っているんですか」
「誰かが、完全には捨てられなかったからだ」
「誰か?」
「それを調べる」
「この荷札を持って行っても?」
「駄目だ」
「僕に見せたのは、持ち出させるためではないんですか」
「見せることと渡すことは違う」
篠宮さんは荷札を糸から外さず、指先で押さえた。
「おまえは、今すぐ旧波止場へ行きたい。だが、干潮はまだ先だ。潮位も見ず、灯台の点灯時刻も確かめず、霧の中へ入れば、記憶を探す前に自分が記録から消える」
「脅しているんですか」
「忠告だ」
「澪さんにも、そう言ったんですか」
篠宮さんの指が、荷札の角で止まった。
「言った」
「それでも彼女は行った」
「行った」
「止めなかった」
「止められなかった」
「また同じことを言うんですね」
「止めるというのは、相手の足を折ることではない。人間は、自分の見たものを確かめるために歩く。私は、その歩き方を見ていることしかできなかった」
その声には、初めて隠しきれない疲れが滲んだ。
「澪さんは、何を見たんですか」
「まだ分からん」
「分からないのに、彼女が殺されたことだけは分かる」
「死んだことは分かる。殺されたかどうかは、神谷が調べる」
「あなたは、いつも言葉を分ける」
「分けなければ、誰かの推測が事実の顔をする」
「でも、分けたままでは、誰も責任を取らない」
篠宮さんは答えなかった。
その沈黙の中で、僕は封印帳の端に別の違和感を見つけた。荷札が留められている糸の色が、帳面を綴じる糸と違う。赤黒い糸ではなく、薄い灰色。紙包みを結ぶための紐に似ている。
しかも、その糸は一度切られ、結び直されていた。
「誰かが、これを外そうとした」
「そうだ」
「あなたが?」
篠宮さんは荷札から手を離した。
「私ではない」
「澪さんですか」
「それも分からん」
「有馬さん?」
「分からん」
「分からないことを、分からないまま残しておけるんですか」
「残す。分からないものを分かったことにするよりは、ずっとましだ」
その言葉を聞いて、僕は荷札の裏側を見た。
そこには、鉛筆で短い線が引かれていた。地図の道筋のようにも、誰かの手が震えた跡のようにも見える。線は一度、左へ折れ、それから三番倉庫の位置を示すように下へ伸びていた。
線の端に、小さく文字がある。
――保管庫。
その下に、別の筆跡で書き足されていた。
――開けるな。
僕の喉が、ひどく冷たくなった。
真鍮の鍵を握ったときに聞いた言葉と同じだった。帳簿を開くな。保管庫を開けるな。誰が、誰に向けて書いたのかは分からない。それでも、僕の身体はその命令を知っていた。
書庫の奥で、古い空調機が唸った。
その音に重なって、港の鐘が鳴る。鐘の響きは霧に吸われ、少し遅れて資料館の壁へ届いた。
一度。
二度。
間隔を数えようとしたが、三つ目の音が来る前に、篠宮さんが封印帳を閉じた。
「今夜はここまでだ」
「明日の朝まで?」
「明日の朝、保管棚を確認する」
「その前に、誰かがまた順番を変えるかもしれない」
「なら、変更される前の状態を残せ」
篠宮さんは机の引き出しから、薄い紙と鉛筆を出した。
「記録を写すのではなく、並びを描け。どの棚に何があり、どこに空白があるか。おまえの目で見た順番を残せ」
「僕の目は信用できますか」
「目は信用しない。見たものを残す手順を信用する」
篠宮さんは紙を僕の前へ置いた。
「日付を書く。時刻を書く。見た場所を書く。触れたかどうかを書く。分からないものには、分からないと書け。推測は欄を分けろ」
「捜査みたいですね」
「記録は、捜査より古い」
僕は鉛筆を握った。
紙のざらつきが指先に伝わる。真鍮の鍵は神谷さんに預けたままだ。けれど、いま僕の手元には、鍵より確かなものがある。見たものを、見た順番のまま残すための紙だ。
書庫を出る前、僕は振り返った。
篠宮さんは封印帳を胸もとへ引き寄せ、表紙の端を丁寧に撫でていた。守っているようにも、閉じ込めているようにも見える。
「篠宮さん」
「何だ」
「僕は、昔ここで何をしていたんですか」
彼は一拍置いた。
「記録を並べていた」
「それだけですか」
「違う」
篠宮さんは窓の外へ目を向けた。霧の向こうで、灯台の光が一度だけ点った。
「おまえは、並べた記録を一度、別の場所へ移した」
「隠したんですか」
「それを決めるのは、おまえだ」
「僕は、何を隠したんです」
「明日の棚を見れば、最初の一枚に触れられる」
それ以上、篠宮さんは言わなかった。
僕は書庫を出て、三番棚の前へ向かった。
館内は閉館後の静けさに戻っていた。展示室の照明は落ち、古い港の地図だけが非常灯の青白い光を受けている。外では霧が窓を濡らし、ガラスの向こうで灯台の光が規則正しく消えては現れた。
棚の前に立つ。
昨日、有馬さんが整理したという出港記録が並んでいる。表紙はすべて同じ向きで、背表紙の番号も揃っている。揃いすぎていた。
僕は篠宮さんから渡された紙に、時刻を書いた。
それから、棚の順番を一冊ずつ写し取った。
K‐15。
K‐16。
空白。
K‐18。
空白の奥に、薄い紙の端が見えていた。
誰かが急いで隠したのではない。見つけさせないために、見つけられる形で残している。
僕は鉛筆を置き、扉の鍵穴へ手を伸ばした。
触れる直前、喉の奥で、あの言葉が戻ってきた。
帳簿を開くな。
今度は、僕は手を引かなかった。
開くためではない。
誰が閉じたのかを確かめるために、僕は鍵穴の冷たさへ指を置いた。
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