第3話 篠宮の手ほどき

資料館へ戻ると、玄関ホールの時計は九時を少し回っていた。
実際の時刻がそうなのかは分からない。旧税関の建物に残された時計は、季節によって遅れ方が変わる。湿気の多い夜は針が重くなり、乾いた朝には妙に先へ進む。澪さんはその時計を直そうとしなかった。時間を示すものが一つしかない町では、狂いそのものも記録になる、と言っていた。
僕は受付脇の机に立てかけられた鍵の預かり証を見た。
神谷さんに渡した真鍮の鍵は、もう手元にない。紙片も同じだった。けれど、掌の中央にはまだ金属の重みが残っている。鍵を握っていた皮膚だけが、身体から切り離されたように冷えていた。
受付の奥では、篠宮さんが一人で待っていた。
照明は書庫側の一灯しかついていない。白い光が机の半分だけを照らし、残りを影へ沈めている。篠宮さんは湯気の消えかけた茶を前に、古い海図を広げていた。眼鏡を外さず、紙面へ顔を寄せている。僕が入ってきてもすぐには顔を上げなかった。
「神谷さんから連絡があった」
「鍵を預けました」
「そうか」
「僕が見つけた紙片も」
「そうか」
返事は短かった。けれど、驚いていないことだけは分かった。
僕はコートを脱ぎ、椅子の背に掛けた。濡れた袖口から、霧の匂いが立ち上る。篠宮さんはその匂いを嗅いだように鼻をわずかに動かしたが、何も言わなかった。
「澪さんが亡くなりました」
「知っている」
「知っているのに、海図を見ているんですか」
「海図は人が死んだあとも、海岸線を変えない」
「そういう言い方をすると、死んだ人間のほうが間違っていたみたいに聞こえます」
篠宮さんは、そこでようやく顔を上げた。
「間違うのは人間だ。海岸線も変わるが、変わった理由を残す。埋め立てたのか、崩れたのか、潮で削られたのか。線の前後を見れば分かる。人間の記憶は、理由を消してから線だけを引き直す」
「澪さんは、理由を探していた」
「そうだ」
「その理由を知っていたんですか」
篠宮さんは答えず、机の上の海図を折りたたんだ。古い紙は乾いた音を立てた。折り目は何度も同じ場所でつけられており、紙の繊維が白く浮いている。
「知っていることと、証明できることは違う」
「神谷さんも同じことを言いました」
「なら、よい刑事だ」
「あなたは、澪さんが何を調べていたのか知っている。なのに、僕には何も教えてくれない」
「教えれば、おまえはそれを自分の記憶と結びつける」
「結びつけてはいけないんですか」
「結びつけるなとは言っていない。先に紙を見ろと言っている」
篠宮さんは机の下から、細長い木箱を取り出した。蓋には、黒ずんだ白墨で「出港控え・旧」と書かれている。文字の一部が擦れていて、最後の字が「旧」なのか「九」なのか判然としない。
木箱を開けると、古い紙の匂いが流れた。湿った海藻の臭いではなく、乾ききらない繊維と、薄い黴の匂いだった。僕はその匂いを吸い込んだだけで、胸の奥に小さな波が立つのを感じた。
「これは、観海運輸が資料館へ寄託した出港記録だ。正式な原簿ではない。控えだ」
「控えなら、原簿と同じ内容では?」
「同じであるべきだ。だから、違えば意味がある」
篠宮さんは帳簿を三冊取り出し、机の上に並べた。
左から、観海運輸の出港控え。中央に資料館の受け入れ簿。右端に、港の古い作業記録。表紙の色も厚みも違う。左の帳簿は油と手垢で黒ずみ、中央は比較的きれいで、右端のものは表紙の角が潮で白く傷んでいた。
「まず、日付を見るな」
「日付を確認するための記録じゃないんですか」
「日付は人を安心させる。数字があるだけで、出来事がその日に起きたと思い込む。だが、数字は書き直せる。先に見るのは紙だ」
篠宮さんは右端の帳簿を僕の前へ押した。
「触れろ」
僕は表紙を撫でた。乾いている。けれど、中央の綴じ目にだけ、わずかな硬さがあった。紙を開くと、頁の端に波打った跡が残っている。
「ここだけ湿っています」
「正確には、一度濡れて乾いた」
「分かるんですか」
「紙は水を吸うと膨らむ。乾けば縮む。しかし、繊維の向きまでは元に戻らない。濡れた頁の隣に乾いた頁があれば、そこに境目が残る」
篠宮さんは、帳簿用の定規を取り出した。古びた木の定規で、目盛りの一部が擦れて消えている。彼はそれを紙面に置き、綴じ目から数センチの範囲を測った。
「この頁は、後から差し込まれている」
「でも、糸は切れていません」
「糸を切らずに外す方法がある。濡らして、糊を緩め、紙を剥がす。乾かしてから戻せば、見た目は整う」
「誰かが、そこまでして?」
「誰かが、そこまでして残したいものがあった」
僕は頁の下端へ視線を移した。日付は昭和の末期。埋め立て工事が始まった頃らしい。欄には、資材の搬入、作業員の人数、船名が書かれている。数字の並びは整っていた。
整いすぎていた。
「この船名、同じものが二度あります」
「見つけたな」
「同じ日に、同じ船が二回入港している。時間も近い」
「実際に二度入った可能性は?」
「あります。でも、荷札番号が続いていない。二回目の記録だけ、番号が前の頁へ戻っています」
僕は指先で数字をなぞった。
K‐17。
昨夜拾った紙片の記号が、脳裏に浮かぶ。数字の形は違う。けれど、桁の置かれ方に同じ癖があった。番号の前に、誰かが意図的に空白を作っている。
「この番号を、知っている気がします」
「気がする、というのは?」
「見覚えではありません。身体が先に反応する。喉が冷たくなって、指が止まる」
「なら、指が止まった場所を見ろ。記憶を追うな」
「記憶を追っているつもりはありません」
「つもりは当てにならん」
言葉は厳しかったが、篠宮さんの声に責める響きはなかった。むしろ、僕が余計なものに触れないよう、机の端へ戻しているように聞こえた。
彼は左の帳簿を開いた。
「荷札番号は、荷物につける番号であると同時に、帳簿をつなぐ綴じ糸だ。たとえばK‐17が出港控えにあるなら、倉庫の受け入れ票にも、港の作業記録にも、同じ番号があるはずだ。三つが揃えば、荷物がどこから来て、どこへ動き、誰が受け取ったかが分かる」
「一つでも欠ければ?」
「荷物の動きが消える」
「人の動きも?」
篠宮さんの指が止まった。
ほんの一瞬だった。けれど、僕は見逃さなかった。
「人間は荷物ではない」
「記録の上では、同じように消せる」
「……そうだな」
篠宮さんは目を伏せた。
「昔、作業員が一人、旧波止場で行方不明になった。事故として処理されたが、事故の記録には、何を積んでいたかしか書かれていなかった。誰がその場にいたか、誰が最後に見たか、どこからいなくなったか。そこだけが抜けている」
胸の奥で、鍵を握ったときの冷たさが戻ってきた。
濡れた木材。
灯台の機械音。
手首をつかむ指。
僕は息を浅くした。
「その事故を、澪さんが調べていたんですか」
「澪は、事故という言葉を簡単には使わなかった」
「では、何と呼んでいたんです」
「消えた記録の束、と」
「それは答えになっていません」
「答えを急ぐな。おまえは、答えがない時間に耐えられないようだが、耐えられないからといって、空白へ好きなものを流し込めばいいわけではない」
「僕の空白に、誰かが好きなものを流し込んだんですか」
言葉が出たあと、書庫の空気が変わった。
どこかで配線が唸った。窓の外では風が霧を運び、古い建物の隙間を擦っている。篠宮さんは手のひらで机の角をゆっくり撫でた。その動作を見ていると、彼が何かを言う前に、言わないことを選んでいるのが分かった。
「おまえは、以前ここにいた」
「資料館に?」
「今より前だ」
「いつですか」
「日付を聞いてどうする」
「僕が何をしていたのか知りたい」
「それを知れば、記憶が戻ると思うか」
「少なくとも、他人から渡された名前だけで生きなくて済む」
篠宮さんは黙っていた。
僕は自分の手を見た。細く、傷の少ない手だった。帳簿を扱うには慣れている。紙の端を揃え、インクの滲みを探し、筆跡の癖を追う。けれど、それが誰に教えられたものなのかは覚えていない。生まれつきの才能などという言葉で片づけるには、手が知りすぎていた。
「僕は、澪さんの仕事を手伝っていたんですか」
「手伝ったこともある」
「何を?」
「記録の分類だ」
「それだけですか」
「それだけなら、こうして訊かんだろう」
僕は笑いそうになった。うまく笑えなかった。追及すると曖昧に笑って逃げる癖がある。いつもならそこで話を終わらせる。けれど今夜は、逃げる先がなかった。
「僕は、何かを隠しましたか」
篠宮さんはすぐに答えなかった。
「篠宮さん」
「おまえが隠したかどうかを、私が決めてよいのか」
「見ていたんでしょう」
「何を?」
「僕が、帳簿を開こうとしていたところを」
篠宮さんの眼鏡の奥で、目がわずかに細くなった。
その瞬間、頭の奥に断片が差し込んだ。
暗い書庫。
机の上の帳簿。
古い紙の角を押さえる自分の手。
背後から近づく足音。
篠宮さんの声。
――そこから先は、開くな。
僕は椅子の背に手をついた。木の冷たさが掌へ食い込む。
「今、何か思い出したか」
「あなたの声を聞いた気がします」
「いつの?」
「分かりません。けれど、同じことを言われた。帳簿を開くな、と」
「私はそう言ったのかもしれない」
「かもしれない?」
「記憶の中の声は、本人のものか、他人のものか、聞いた者が勝手に混ぜる。だから私は断言しない」
「あなたは、僕が記憶を失うことを知っていたんですか」
篠宮さんの掌が机の角で止まった。
「知っていたのではない。起きたことを見た」
「僕が倒れたところを?」
「倒れたのではない。立っていた。立ったまま、何も見えない顔をしていた」
僕の喉が乾いた。
「どこで」
「資料館の裏口だ」
「その夜、何があったんです」
「霧が濃かった。灯台の光が五つ数える間隔で消えた。港の鐘が鳴った。おまえは濡れていた。右手に何かを持っていた」
「鍵ですか」
「鍵だったかもしれん」
「見なかったんですか」
「見た。だが、見たものをすぐ名前にすると、名前が事実の代わりになる」
「それは便利な言い方ですね。知っているのに、何も言わないための」
声が震えた。怒鳴るつもりはなかった。怒鳴れば、相手の言葉を奪える。僕はそれをしたくなかった。それでも、胸の内側に溜まったものが、唇の隙間からこぼれていく。
「僕は、自分の過去を他人に預けている。あなたたちは何かを知っていて、僕が知らないことを理由に黙る。僕が忘れたものを、僕以外の人間だけが持っている。そういう状態で、どうやって自分を信じればいいんですか。記憶が戻るまで待てと言われても、待っているあいだに誰かが記録を変える。澪さんが死んだ。鍵は預けられた。紙片も消えた。僕の手元には、何も残っていない。それでも、僕の身体だけが何かを知っている。知らないふりをしろと言われても、知らないふりをするための身体がないんです」
篠宮さんは、最後まで口を挟まなかった。
僕の声が途切れると、書庫には紙の匂いだけが残った。古い紙は、言葉を吸い込まない。誰かが何を言ったかではなく、どこに指を置いたか、どの頁を開いたかだけを残す。
やがて篠宮さんは、中央の帳簿を僕の方へ向けた。
「ここを見ろ」
開かれた頁には、出港記録が並んでいる。日付、船名、荷札番号、積荷、担当者。どれも整然としていた。
ただ、一行だけ空いていた。
「この空白は、消されたんですか」
「分からん」
「紙の色が違います。ここだけ新しい」
「上から紙を貼った可能性はある」
「剥がせますか」
「剥がせる。だが、今は剥がさない」
「なぜ」
「誰かが、まだ見られたくないと思っているからだ」
「それなら、なおさら見るべきです」
「見たいという気持ちは、証拠を扱う理由にはならん」
「でも、見ない理由にもならない」
篠宮さんは僕を見た。鋭い目だった。初めて会ったときから変わらない目だと思っていたが、今はその奥に疲労が見えた。長い年月のあいだ、同じ紙を何度も閉じ、同じ空白を誰にも渡さず抱えてきた人間の疲れだった。
「澪は、その空白を剥がそうとしていた」
「だから殺された?」
「それは神谷に言え」
「あなたはどう思うんです」
「死者の代わりに推測を語るつもりはない」
「でも、何か知っている」
「知っている。だから慎重になる」
篠宮さんは帳簿の端を押さえた。
「記録を正すことは、過去を綺麗にすることではない。誰かが間違えた場所、誰かが黙った場所、誰かが見なかったことにした場所を、そのまま残すことだ。私は若い頃、町議会と港湾会社の人間が記録を揃えていくのを見た。誰も紙を破らなかった。日付を一日ずらし、荷物の名前を変え、別の帳簿へ移し、最後に『確認済み』の印を押した。それだけで、消えた人間が事故の外側へ追いやられた。死んだのか、逃げたのか、誰かに連れ去られたのかも分からないまま、記録の上では最初からそこにいなかったことになった」
「それを止めなかった」
「止められなかった」
「同じことです」
「そうだ」
篠宮さんは否定しなかった。
「だから私は、正しい人間のふりをする気はない。おまえに過去を返すのも、私の罪を軽くするためではない。おまえが何をしたか、何をしなかったか、それはおまえ自身が記録と向き合って決めることだ。私が先に結論を渡せば、おまえはまた誰かの文章の中で生きることになる」
胸の奥が痛んだ。
篠宮さんは机の引き出しから、小さな古札を出した。潮で錆びた文鎮の下に置かれていたものらしい。札には、かすれた墨で「三」とだけ書かれている。裏側には、倉庫の位置を示す短い線が引かれていた。
「これは何ですか」
「旧波止場の倉庫番号だ」
「三番?」
「表向きはな」
「表向きではない場所があるんですか」
「古い保管庫は、倉庫番号と入口が一致しない。潮が満ちると裏側が海になる。干潮のときだけ、奥の扉へ回れる」
篠宮さんは古札を僕の手のひらへ置いた。
紙は乾いていた。だが、触れた瞬間、指先に潮の冷たさが走った。真鍮の鍵を握ったときと同じではない。もっと遠い、足もとから水が上がってくるような感覚だった。
濡れた木材。
白い霧。
誰かの手が、僕の手首をつかむ。
今度は、別のものが見えた。
帳簿の頁を閉じる自分の手。
その上に重なる、もう一人の手。
細い指が紙の角を押さえている。
澪さんの手だったのかもしれない。けれど顔は見えなかった。
「今夜、旧波止場へ行くつもりか」
篠宮さんの声で、景色が消えた。
「行くべきではないんですか」
「行くなとは言っていない」
「では?」
「干潮の時刻を調べろ。潮位を確認しろ。誰かに行き先を伝えろ。戻る時間を決めろ。記憶を取り戻したい人間は、危険を危険だと思わなくなる。おまえには、その癖がある」
「僕を止めるために札を渡したんですか」
「止めるためなら、渡さない」
「見つけさせるため?」
「見つけるのは、おまえだ」
篠宮さんは古札から手を離した。
「ただし、そこで見たものを、自分に都合のいい物語へ並べ替えるな。誰かを救うためでも、自分を守るためでもだ。空白は、埋めれば終わるものではない。そこに何がなかったのかを、なかったまま確かめる必要がある」
僕は古札を握った。
紙の端が掌に食い込む。痛みは小さかったが、はっきりしていた。真鍮の鍵がなくても、僕の手にはまだ、触れて確かめられるものがある。
書庫の窓を、篠宮さんが少しだけ開けた。
霧が細い帯になって入り込み、紙の上を撫でた。遠くで灯台の機械音が回り始める。一定の間隔で、低い唸りが重なる。
僕は机の上の三冊の帳簿を見た。
日付は揃っている。
けれど、荷札番号は一つずれている。湿った頁が一枚だけあり、空白の周囲だけ紙の色が違う。誰かの手が、紙を破らずに記録を変えた。
篠宮さんは帳簿を閉じた。
その動作は、澪さんのものと似ていた。角を揃え、表紙を撫で、最後に指先で端を確かめる。違うのは、閉じたあとに手を離さなかったことだ。まるで、帳簿が勝手に開かないよう押さえているようだった。
「明日の朝、保管棚の順番を見ろ」
「朝まで待てと言うんですか」
「今夜ではない」
「澪さんは、待てと言ったあとに殺された」
「だから、待つことと何もしないことを混同するな」
篠宮さんは古い荷札を一枚、帳簿の間から抜き取った。表には黒い文字で「K‐17」とある。僕の拾った紙片と同じ記号だった。
「この荷札は、資料館の記録では旧波止場三番へ戻されている」
「戻された?」
「だが、戻した記録がない」
「荷物は?」
「記録の上では、存在しない」
喉の奥が冷えた。
篠宮さんは荷札を僕へ渡さなかった。机の上に置いたまま、指先で押さえている。
「これは、まだおまえが持つべきではない」
「僕の記憶に関係しているかもしれない」
「かもしれない」
「なら、見せてください」
「見せている」
「触らせてください」
「触れば、持ち帰りたくなる」
「持ち帰ってはいけない理由は?」
「理由は、紙に残っている」
篠宮さんは荷札の裏側を返した。
裏には、鉛筆で短い線が一本だけ引かれていた。海図の道筋のようにも、誰かの手の震えのようにも見える。その線の端に、薄く数字が書かれている。
三。
僕の胸の奥で、灯台の光が一度だけ点いた。
資料館の窓の外は、霧で真っ白だった。見えるはずのない海の匂いが、開いた窓から入り込んでくる。僕は古札を握ったまま、線と数字を見つめた。
記録は、僕の過去を説明してくれない。
ただ、見落とした場所を指している。
それだけで、今夜の僕には十分だった。
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