第2話 旧波止場の朝

朝になっても、霧は晴れなかった。
窓の外は白く、町の輪郭がどこから始まり、どこで海に溶けているのか分からない。眠りは浅かった。何度も目を覚まし、そのたびに手のひらを握った。真鍮の鍵は夜間整理用の手帳に挟んだまま、枕元に置いてある。触れていないのに、金属の冷たさだけが皮膚の内側に残っていた。
港の方角から、低い鐘の音が聞こえた。
一度。
しばらくして、もう一度。
僕はベッドから起き上がった。頭の奥に、昨夜の記憶が薄くこびりついている。
帳簿を開くな。
あれが自分の声だったのか、誰かに言われた言葉だったのか、まだ分からない。けれど、あの鍵を見て身体が反応したことだけは確かだった。記憶は失われても、指先や喉の奥は、失った出来事を忘れていないことがある。
資料館へ向かうため、コートを羽織った。玄関を出ると、霧が肌に触れた。雨とは違う細かな水分が、髪と手首にまとわりつく。潮の匂いが濃い。海藻と錆びた鉄の臭気が、白い空気の中に沈んでいた。
通りには、いつもより人が多かった。
誰も足を止めてはいない。魚屋の前で包丁を動かす男も、店先の箒を持った女も、普段どおりの仕草を続けている。ただ、視線だけが同じ方角へ向いていた。
旧波止場。
その名を頭に浮かべた瞬間、胃のあたりが縮んだ。
角を曲がると、警察車両の回転灯が霧の中で赤く明滅していた。光は遠くまで届かず、濡れた路面にだけ短い赤い筋を作っている。その向こうに、黄色い規制線が張られていた。
近づくにつれて、町の人間の声が聞こえてきた。
「昨夜のうちに見つかったそうだよ」
「いや、朝の見回りだ。潮が引いたから出てきたんだ」
「榊原さんだって」
「声を落としなよ。聞こえる」
噂はいつも低かった。低いまま、霧より早く広がっている。
規制線の手前で、僕は足を止めた。
板張りの旧波止場は、埋め立て工事のあと使われなくなった場所だ。今では漁具倉庫の裏に取り残され、干潮のときだけ海面から姿を現す。何度か地図で見たことはある。けれど実際に立つと、地図の線がひどく薄っぺらく感じられた。
波止場の先に、人が横たわっている。
顔は見えなかった。濡れた髪と、砂を含んだ衣服だけが分かる。周囲には何人かの警察官がいたが、誰も大きな声を出さない。海の音がすべてを覆っているようだった。
神谷玲奈は、遺体から少し離れた場所にしゃがんでいた。
彼女は靴先で板の継ぎ目をなぞり、そこに溜まった泥を見ている。次に、切れたロープの端へ視線を移した。ロープは潮で濡れ、繊維の一部が白く毛羽立っている。神谷は手袋をした指で触れず、目だけで状態を確かめていた。
「霧島さん」
顔を上げないまま、彼女が言った。
「どうしてここへ?」
「資料館へ行く途中でした」
「そのまま通り過ぎればよかったのに」
「通り過ぎるには、噂が大きすぎました」
「噂は証拠になりません」
「でも、証拠が何もない場所では、噂だけが先に歩きます」
神谷は初めて僕を見た。潮風に乱れた髪が頬にかかっている。整えようとする様子はない。邪魔なら押さえる。それだけの人に見えた。
「昨夜、榊原さんと会いましたか」
「資料館で。閉館後まで残っていました」
「何時ごろまで?」
「正確には分かりません。資料館の時計が少し遅れているので」
「あなたの時計は?」
「持っていません」
「携帯電話は」
「電池が切れていました」
神谷の視線が、僕の肩口へ落ちた。何かを疑っているとき、彼女は顔ではなく手元を見る。僕の右手は、無意識にコートのポケットを押さえていた。手帳の中の鍵を確かめているように見えたかもしれない。
「何か持っていますね」
「鍵です」
「見せてください」
喉が固くなった。
手帳を取り出すという単純な動作が、ひどく遠く感じられる。昨夜、澪さんは変なものを見つけても朝まで触らずに置けと言った。僕はその約束を破った。鍵を拾ったことを知られたくないというより、鍵を見せたことで何かが決まってしまう気がした。
「資料館の鍵です。夜間整理用の」
「それなら、見せられますね」
神谷の声は冷たくない。ただ、逃げ道を残さない。
僕が手帳を開きかけたとき、背後からよく通る声がした。
「神谷さん、まずは現場を落ち着かせるのが先でしょう」
伊吹宗一だった。
濃い色のコートを着て、襟元まで整えている。霧の中でも髪は乱れていなかった。顔には人前で笑うための皺があり、口元には穏やかな表情が置かれている。
「住民の不安が広がっています。遺体が見つかった場所で、持ち物の確認まで大声で始められては困る。港が止まれば、困るのは会社だけではありません。魚を売る人も、荷を運ぶ人も、今日の仕事を失う」
「現場の確認をしています」
「もちろん、あなたの仕事を邪魔するつもりはありません。ただ、町には町の時間があります。すべてを一度にひっくり返せば、真実に近づくどころか、誰も何も話さなくなる」
「話さなくなる人は、最初から話す気がない人です」
神谷の言葉に、伊吹の笑みがわずかに薄くなった。
「そう単純ではありませんよ。人は、正しいことだけで生きていけない。ここは潮見崎です。隣家の屋根の修理を手伝った人間が、翌日にはその家の借金まで背負わされるような町だ。誰かの秘密を知っていても、それを口にすれば自分の子どもの勤め先がなくなる。そういう絡まり方をしている。警察の手順だけで、すべてをほどけると思いますか」
「ほどく必要があります」
「ほどいた結果、何も残らなかったら?」
「残らなかったことにするよりはましです」
伊吹は黙った。
霧の向こうから、波が板の下を叩いた。ごう、と鈍い音がして、足もとの木材がわずかに震える。
そのとき、人の輪の外側に立っていた久世真帆が、こちらへ歩いてきた。
端正な服装は崩れていない。けれど、帳簿の入った鞄を胸に抱えている。肩が少しだけ固く、呼吸が浅い。神谷が目を向けると、久世は鞄の留め具に指を置いた。
「伊吹議長、会社の人間をここへ呼ぶ必要はありません」
「久世さん、あなたは何かご存じなのですか」
「知っていることと、確認できることは別です」
「その言い方は、何かを知っている人の言い方ですね」
「議長のように、言葉から人を立たせる技術はありませんので」
久世の声には温度がなかった。怒っているのか怯えているのか、僕には判断できない。ただ、彼女が帳簿の端を指でなぞっていることだけが分かった。
「昨夜、観海運輸の記録に、旧波止場へ向かった荷はありません」
神谷が言った。
「記録上は、でしょう」
「記録以外に何があるんです」
「現場です。濡れた木箱、動かされた荷札、倉庫の床に残った泥。記録が間違っているとき、現場まで間違うわけではありません」
久世はそこで初めて神谷を見た。
「帳簿が間違っているのではなく、帳簿をそう見せた人間がいるのかもしれない。ですが、それを私に言わせたいなら、先に記録を見せてください」
「あなたの鞄の中身を確認しても?」
「必要なら」
久世はためらわず鞄を開いた。
中には帳簿が二冊、検印の入った封筒、角のすり減った小さな手帳が入っていた。彼女は一つずつ取り出し、規制線の外に並べた。紙束の角が少しでもずれると、そのたびに指先で押し戻す。死体のそばでさえ、そこだけは乱れなかった。
僕は一冊目の表紙を見た。
観海運輸、出港控え。
昨夜、澪さんが話していた古い出港記録と同じ種類の帳簿だった。
「榊原さんとは、帳簿のことで揉めていましたか」
神谷が尋ねた。
久世はすぐには答えなかった。霧が髪に付着し、額に細かな水滴を作っている。
「揉めていた、という言葉は便利ですね。意見が違った人間を、簡単に敵にできますから」
「では、何をしていたんです」
「彼女は、数字の並びを見ていました。私は数字の後始末をしていた。違いはそれだけです」
「具体的に」
「会社の帳簿には、実際に運ばれたものと、運んだことにしたものが混ざっています。昔からです。私が入社したころには、すでにそうなっていた。補助金の申請、埋め立て資材の搬入、事故のあとに消えた荷。誰かが書き、誰かが検印し、誰かが保管した。私が全部を知っているわけではありません」
「しかし、あなたは今も帳簿を扱っている」
「ええ。だから、私が疑われるのは自然です」
久世の声が、ほんの少し低くなった。
「帳簿を扱った人間は、帳簿に書かれた罪まで引き受けるべきでしょう。私はそれを分かっています。ただ、私が書き換えたものと、私の前に書き換えられたものを同じにされるのは困る。困るというだけでなく、もう誰かの代わりに黙るのは終わりにしたいんです」
伊吹が、ゆっくり息を吐いた。
「久世さん、今ここで会社の内部事情を話すのは適切ではありません」
「適切でないのは、死んだ人間の前で、町の都合を先に考えることです」
言い終えた久世は、すぐに視線を落とした。言い過ぎたと思ったのかもしれない。けれど、背筋は崩れなかった。
伊吹の笑顔は消えていない。消えていないのに、目の奥だけが動かなかった。
僕は遺体の方へ視線を戻した。
澪さんは、濡れた板の上に横たわっている。彼女の右手の近くに、黒い小さな機械が落ちていた。音声メモを録音していた端末だろう。神谷がそれを拾い上げ、画面を確認する。
「霧島さん、昨夜の話を聞かせてください」
「資料館で、保管棚の順番について話しました」
「それから?」
「澪さんは帰りました。僕は残って、展示室の清掃を……」
そこで言葉が止まった。

鍵。
紙片。
旧波止場三番。
戻すな。
昨夜、僕が見つけたものを話すべきだった。けれど、喉の奥に別の声が戻ってきた。
帳簿を開くな。
「何か見つけましたね」
神谷が言った。
「どうしてそう思うんですか」
「あなたは質問されると、相手の顔ではなく手元を見る。今は私の手を見ていない。自分のポケットを見ている」
僕はポケットから手を離した。
「紙片を一枚。荷札番号のようなものが書かれていました」
「どこにあったんです」
「展示ケースの裏です」
「なぜ今まで言わなかったんですか」
「澪さんに、変なものを見つけても朝まで触らないように言われていたからです」
「触った?」
「紙片は。鍵も」
神谷の目が細くなった。
「鍵を見せてください」
僕は手帳を開き、真鍮の鍵を取り出した。霧の中で見ると、昨夜より黒く見えた。柄の刻みは数字の三に似ている。神谷は手袋を替えてから受け取り、表面を確認した。
「これは資料館の鍵ではありませんね」
「分かりますか」
「鍵穴の形が違う。古い倉庫用か、施設の保管庫用です。どこで見つけたか、もう一度」
「展示ケースの背面です」
神谷は鍵を返さなかった。
伊吹が一歩近づいた。
「それは、旧波止場の古い保管庫の鍵かもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
濡れた木材。
白い霧。
誰かの手。
鍵を持つな。
いや、違う。
帳簿を開くな。
伊吹は僕の顔を見ていた。笑っている。けれど、その笑顔は僕ではなく、僕の背後にある過去へ向けられているようだった。
「ご存じなんですか」
僕が尋ねると、伊吹はゆっくりと首を振った。
「旧波止場には、昔から流れ着いた物を置く小さな保管庫があります。町の人間なら誰でも知っている話です」
「僕は知りませんでした」
「あなたは、まだ潮見崎に来て日が浅い」
「そうでしょうか」
自分でも驚くほど、声が静かだった。
伊吹の笑みが一瞬だけ止まる。
「何か思い出しましたか」
「思い出せません。ただ、あなたは僕が知らないと言い切るのが早い」
「記憶を失った人に、過去を決めつけるようなことは言っていません」
「決めつけているのは、僕ではなくあなたです」
霧がさらに濃くなった。伊吹の顔の輪郭がぼやけ、口元の笑みだけが浮かんで見える。
神谷が鍵を封筒へ入れた。
「この鍵は預かります。紙片もです」
「僕は資料館へ行かなければ」
「行ってください。ただし、保管棚を勝手に開けないこと。見つけたものがあれば、触る前に連絡する」
「僕を疑っていますか」
「現場にいた人間は全員疑います。あなたも、私も、ここにいる人間も」
「澪さんが殺されたのなら、僕が知っていることがあるかもしれない」
「だからこそ、勝手に追わないでください」
「記憶が戻るかもしれない」
「戻った記憶が正しいとは限りません」
神谷は鍵の入った封筒を指で押さえた。
「人は、思い出したいものだけを思い出します。記憶は証拠品ではない。順番も、時刻も、触れた人間の手も残らない。あなたが何かを感じたとしても、それだけで誰かを犯人にはできません」
「では、何を信じればいいんですか」
「確かめたものです。泥の跡、紙の繊維、時刻、荷札の番号。あなたが感じたことは、捨てなくていい。ただし、証拠と同じ場所に置かないでください」
その言葉は冷たく聞こえたが、突き放してはいなかった。
僕は規制線の向こうにある澪さんを見た。昨夜まで、明日の朝に話せると思っていた。棚の順番のことも、紙片のことも、鍵のことも。彼女は記録を揃えてから追えと言った。人は逃げるが、記録は逃げないとも。
けれど、記録を揃える時間を、誰かが奪ってしまった。
神谷が端末を再生した。
小さな機械から、荒れた潮の音が流れた。風がマイクを撫で、波が遠くで砕けている。その奥に、澪さんの呼吸がある。
浅い。
何かを待っている呼吸だった。
やがて、短い音が入った。
誰かが板を踏む音。
そのあと、息を呑む気配。
声は聞き取れない。ただ最後に、近すぎる吐息が残った。マイクのすぐそばで誰かが動いたように聞こえる。
僕の手首が冷えた。
「この時刻を確認できますか」
僕は神谷に尋ねた。
「端末に記録された時刻は、昨夜の二十三時十四分」
「その時刻、出港記録には何があります」
「まだ確認中です」
神谷は端末を止め、濡れたメモ帳を開いた。
「ただ、観海運輸の古い控えには、二十三時台の貨物移動はない。だから、音声か帳簿のどちらかが間違っている。あるいは、両方が別の意味で正しい」
「両方が正しい?」
「音声が録られた時刻と、貨物が記録された時刻が同じとは限らない。誰かが音声を編集した可能性もある。逆に、帳簿が実際の移動を記録していない可能性もある」
神谷は立ち上がった。
「捜査は、違和感の大きい方へ流されると間違えます。だから順番を守る。まず現場。次に記録。その後で証言です」
彼女はそう言って、波止場の先へ歩き出した。
僕も資料館へ向かおうとしたが、足が動かなかった。霧の向こうで、旧波止場の板がゆっくりと濡れている。海藻の匂いが強くなり、靴底から冷たさが上がってきた。
そのとき、波の下で金属が鳴った。
かすかな音だった。
僕は反射的に海面へ目を向けた。白い水の向こうに、何かが沈んでいる。黒い布か、錆びた道具か、それとも古い木箱の角か。形を見定めようとした瞬間、頭の奥に別の景色が差し込んだ。
灯台の光。
五つ数える間隔。
誰かが言う。
まだ戻すな。
僕は息を止めた。
澪さんの紙片にあった言葉とは違う。けれど、同じ命令の続きのように聞こえた。
霧の向こうで、港の鐘が鳴った。
音はすぐには届かなかった。先に空気が震え、そのあとから低い鐘の響きが追いついてくる。時刻を知らせるはずの音が、時刻そのものを遅らせている。
僕は資料館へ歩き出した。
背中に、町の人間たちの視線が刺さっている。誰も僕を呼び止めない。誰も何も尋ねない。ただ、僕が何を持ち、どこから来て、何を知っているのかを、霧の隙間から測っている。
手帳の中に鍵はもうない。
それでも、掌にはまだ重みが残っていた。
澪さんが死んだことで、昨夜まで明日だったものが、もう過去になっている。僕はその過去を知らない。知らないはずなのに、旧波止場へ近づくたび、身体のどこかが先に怯える。
資料館の白い壁が、霧の中から浮かび上がった。
その壁の向こうに、澪さんが揃えていた紙束がある。順番を変えられた出港記録と、途中で切れたメモ。誰かが見せたくないものを隠すために、別の記録を重ねている。
僕は玄関の前で立ち止まり、濡れた手首を見た。
記憶がないなら、記憶以外のものから始めるしかない。
泥の跡。
紙の湿り気。
帳簿の空白。
そして、誰かが整えすぎた順番。
僕は鍵のない手を握り、資料館の扉を開けた。
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