第9話 身代わりの蝶の伝承
今にして思えば、僕はただ、安易な物語に逃げ込みたかっただけなのかもしれない。彼女の抱える影を「複雑な家庭環境」という、どこにでもあるラベルの付いた引き出しに仕舞い込んでしまえば、僕の心はいくらか安らぐはずだった。観測者である僕が理解できる範囲の、手触りのある不幸。それなら、僕のこのどうしようもない憧れやもどかしさも、ありふれた青春の一コマとして処理できる気がしたのだ。
その浅はかな自己満足は、海風図書館の司書、古賀宗介さんの前では、まるで薄いガラスのように脆かった。僕が辿り着いた結論をぽつりぽつりと語ると、彼は黙って僕の話を聞いていた。そして、全てを話し終えた僕に、彼は何も言わず、ただ一冊の古びた文献をカウンターの上に滑らせたのだ。
「……?」
それは『霧ヶ崎地方の民間伝承』と題された、分厚く、カビと古い紙の匂いがする本だった。彼が指し示したページを開くと、そこには僕の心を凍らせるのに十分な見出しがあった。
「身代わりの蝶(ひとがたのちょう)」。
僕は、乾いた喉をごくりと鳴らし、その頁に視線を落とした。そこに記されていたのは、物語と呼ぶにはあまりに生々しく、呪いと呼ぶにはあまりに物悲しい、この霧ヶ崎という土地に古くから伝わる習わしだった。――この町を襲うあらゆる災厄、人々の不運、病。その全てを、ある一族の者が、蝶を宿した器物にその身を代償として封じ込めてきた、と。文献に添えられた古風な挿絵には、一匹の蝶が描かれていた。その翅の模様、繊細な触覚の曲線。それは僕のポケットの中で重みを増し続ける、あの万年筆の蒔絵と、恐ろしいほどに酷似していた。
頭を鈍器で殴られたような衝撃のまま、どうやって家に帰ったのか覚えていない。
自室の机に向かい、ヘッドホンをつけた。だが、いつも僕を外界から守ってくれるはずのビル・エヴァンスのピアノは、意味のない音の羅列となって鼓膜を滑っていくだけだった。
僕はポケットから、あの万年筆を取り出した。深い藍色の軸に浮かぶ、銀の蝶。その冷たい感触が指先に伝わった、その瞬間だった。
断線したフィルムが繋がるように、僕の脳裏に、今まで霞がかかっていたイメージが、一つの鮮明な記憶となって溢れ出した。
……真夏の、むせ返るような緑の匂い。耳を劈くような蝉の声。そして、何もかもを白く塗りつぶす、深い、深い霧。僕は森の中でたった一人、迷子になって泣いていた。まだ小学生だった僕にとって、それは世界の終わりにも等しい絶望だった。もう誰にも会えない。家に帰れない。その恐怖に膝を抱えていた僕の前に、不意に、一人の少女が現れたのだ。僕と同じくらいの歳の、白いワンピースを着た少女。彼女は泣きじゃくる僕の前にしゃがみ込むと、黙って一つの木彫りのお守りを差し出した。そこには、小さな青い蝶の飾りがついていた。
「これがあれば、大丈夫」
そう言って、彼女は静かに微笑んだ。その顔。その声。それは、教室の窓越しに僕がずっと見つめてきた、水瀬詩織の面影そのものだった。
万年筆は、ただの偶然ではなかった。僕が彼女に惹かれたのは、学年のマドンナだからではなかった。僕たちは、ずっと昔に、この霧深い町で出会っていたのだ。そして彼女は、絶望していた僕の運命を、静かに変えてくれていた。
ポケットの中の万年筆が、ずしりと重い。それはもはや、ただの美しい筆記具ではなかった。彼女が背負わされてきた運命の、そして僕自身の失われた過去の、紛れもない象徴だった。僕の世界は、もう二度と、元の静かな均衡を取り戻すことはないだろう。
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