8話 雨音の邂逅

あの日の海風図書館は、今でも雨の匂いと共に記憶の底から浮かび上がってくる。あれは、僕の日常と非日常の境界線が、雨水に滲んで溶け合い始めた日だったのかもしれない。

万年筆を返してから数日、僕はまるで熱に浮かされたように、水瀬詩織のことばかり考えていた。彼女が見せた、あの刹那の悲しみの表情。それは僕が勝手に作り上げた「天使」のイメージに、初めて入った亀裂だった。その亀裂の奥を覗きたいという衝動と、神聖なものを壊してしまうことへの恐怖が、僕の中で奇妙な均衡を保っていた。

僕は再び、高台にある海風図書館の重い扉を押した。その日は朝から冷たい雨が降っていて、霧ヶ崎の街全体が、分厚い灰色のウールに包まれているようだった。館内には僕以外に誰の姿もなく、窓ガラスを叩く雨音だけが、古い建物の静寂を際立たせている。司書の古賀さんはカウンターの奥で、まるでこの図書館の一部であるかのように静かに本を読んでいた。彼と視線が合ったが、彼は何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。

郷土資料室の奥、カビとインクが混じり合った独特の匂いがする場所で、僕は『霧ヶ崎地方の民間伝承』という、装丁の傷んだ本を開いていた。彼女の謎を解く手がかりが、こんな場所にあるとは思えなかった。それでも、何かに導かれるように、僕はページをめくっていた。雨音が、まるで遠い時代の囁き声のように聞こえる。

その時だった。不意に、背後から声がした。

「……そういうの、好きなんですか?」

振り返ると、そこに水瀬詩織が立っていた。心臓が、まるで冷たい手で鷲掴みにされたかのように跳ねた。いつも大勢の明るい喧騒の中にいる彼女とは、まるで別人のようだった。制服の肩が、ほんの少し雨に濡れている。その声は驚くほど脆く、この図書館の静寂と雨音の中に溶けて消えてしまいそうだった。

「あ……いや、別に、そういうわけじゃ……」 僕は意味のない否定の言葉を口走る。彼女は僕の隣までゆっくりと歩いてくると、僕が開いていた本を、少しだけ距離を置いて覗き込んだ。

「霧ヶ崎の、古いお話」 彼女は独り言のように呟いた。その横顔は、教室で見せる完璧な笑顔の仮面を外し、ひどく無防備に見えた。深い孤独の気配が、彼女の佇まいから滲み出ている。僕はその気配に圧倒され、かけるべき言葉を見つけられずにいた。

「相田くんも、探してるの?」 「え?」 「……ううん、なんでもない。ただ、この町の古い話って、時々、本当のことみたいに聞こえるから。昔からずっと、変わらないものがあるような気がして」

彼女の言葉は、まるで霧の中を漂う小舟のように、掴みどころがなかった。だが、その瞳は確かに僕を捉えていた。僕が万年筆を拾ったこと、そして今、ここにいること。そのすべてが、彼女の中で一本の線として繋がり始めている。そんな確信があった。

短い会話の後、彼女は「じゃあ」と小さく言って、僕の横を通り過ぎていった。雨に濡れた微かなシャンプーの香りが、僕の鼻先を掠める。

一人残された郷土資料室で、僕はしばらく動けなかった。彼女が残していった静かな余韻が、雨音に混じって空間を満たしている。僕は、彼女の抱える影の正体を、無意識のうちに手近な物語に当てはめようとしている自分に気づいた。複雑な家庭環境。誰にも言えない悩み。そういった、ありふれた、理解しやすい物語の中に彼女を位置付ければ、僕の心も少しは安らぐ気がしたのだ。僕が崇めていた「天使」が、ただ傷ついただけなのだと、そう思いたかった。

だが、心の奥底ではわかっていた。これは、そんなありふれた物語ではない。

彼女もまた、僕という存在を意識し始めている。その確信だけが、憧れとも畏れともつかない、奇妙な痛みとなって僕の胸を締め付けていた。あの時の僕は、まだ都合のいい物語に逃げ込むことで、真実から目を逸らそうとしていたのだ。雨は、まだしばらく止みそうになかった。

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