7話 日常という名の錨

海風図書館の石造りの壁に守られた静寂から、僕らの高校へと戻る道のりは、まるで水圧の急激な変化に耐えながら浮上する深海魚の気分だった。古賀宗介さんの「物には記憶が宿る」という、静かだが重力を持つ言葉が、耳の奥で低く反響し続けている。その非日常的な余韻は、学校というあまりに「普通」な世界の光と喧騒に触れた瞬間、泡のように弾けて消えた。

体育の授業が終わった後の更衣室は、汗と制汗スプレーの匂いが混じり合った、生命力の濃密な湿気で満ちていた。無遠慮な笑い声、ロッカーを叩きつける音、次の授業への不満。そのすべてが、僕がほんの数時間前までいた世界とは、まるで異なる物理法則で動いているように感じられた。僕はその濁流の隅で、息を殺すように着替えていた。その時だった。

「おい、相田」

壁際に追い詰められた。僕の目の前に立っていたのは、バスケットボール部のエース、佐伯蓮だった。シャワーを浴びたばかりの彼の首筋から、石鹸の匂いがする。彼の背後には、彼と同じ種類の、光に満ちた世界に属する友人たちが数人、面白そうな見世物でも見るように僕たちを眺めていた。

「お前、最近やけに水瀬に近づいてるらしいな」

彼の声は、僕に対する純粋な敵意というよりは、もっと複雑な苛立ちを含んでいた。まるで、僕という不確定な要素を通して、彼自身も捉えきれないでいる水瀬詩織という存在の輪郭を確かめようとしているかのようだ。僕は何も答えられない。彼のような人間と僕とでは、話される言語の周波数帯が根本から違うのだ。彼の瞳の奥には、僕へのライバル心ではなく、彼が手を伸ばしても触れることのできない詩織の儚さそのものへの焦燥が燃えているように見えた。

放課後、僕は誰もいなくなった教室で一人、窓の外を眺めていた。霧ヶ崎の街並みが、オレンジと紫のグラデーションの中に沈んでいく。ポケットの中では、あの青い蝶の万年筆が、存在を主張するように冷たく重い。僕は一体、どこへ向かおうとしているのだろう。

「よお、相田先生。また黄昏れてるのか? 人生に悩むにはまだ早いって」

軽薄な声とともに、隣の席の高橋健太が、コンビニの袋をガサガサいわせながら僕の机に腰掛けた。彼は僕の前に、新作らしいエクレアと、微糖の缶コーヒーを置く。彼の指は、最新のスマホゲームのキャラクターを器用に動かしていた。ピコピコ、と間の抜けた電子音が、静かな教室に響く。

「最近のお前さ、ちょっとヤバいって噂だぜ。図書館通いとか、何? オカルトにでもハマったわけ?」

「……別に」

「別に、じゃねえだろ。いいか、樹。世の中のたいていの謎ってのは、俺たちが思ってるよりずっと単純で、つまらないもんなんだよ。水瀬さんがミステリアスに見えるのだって、俺らにはわかんない家庭の事情とか、まあ、そういうありふれた理由があるだけだ。そこに『呪われた運命』だの『選ばれし者』だの、そういう物語を被せてんのは、お前自身だ。わかるか? お前は、水瀬さんを特別だと思いたいだけなんだよ」

健太はゲームから目を離さず、しかしその言葉は真っ直ぐに僕の核心を撃ち抜いてきた。転校続きで、常に周囲との距離を測りながら「普通の日常」を死守してきた彼らしい、現実的で、身も蓋もない正論だった。

「俺はさ、別にヒーローになりたいとか思わないわけ。お前が変なことに首突っ込んで、いなくなっちまうのは、シンプルに困る。俺の知ってる相田樹は、小難しい本を読んでて、誰も知らないようなジャズを聴いてる、ちょっと面倒くさいヤツだけど、それでもちゃんと、この教室の、俺の隣の席に座ってるヤツだからな。その『普通』が、俺にとっては大事なんだよ」

彼はそう言うと、エクレアの袋を破って僕に押し付け、「じゃ、俺ゲーセン寄ってくから」と軽く手を振り、教室を出ていった。

一人残された教室で、僕はその安っぽいクリームの甘さを口に含んだ。その甘さは、僕が海風図書館で触れた、古めかしく、どこか血の匂いのする真実とはあまりにかけ離れていた。健太の言葉と、このエクレアの甘さ。それは、非日常の深い海へ沈んでいこうとする僕の足首に絡みつく、重たくて、それでいてどこか温かい、現実という名の錨だった。僕はその重さに、確かに救われている自分を感じていた。だが、ポケットの中の万年筆は、その錨を断ち切ってでも進めと、静かに僕を誘い続けている。霧が、また街に降りてきていた。

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日常という名の錨 - 霧の天使 - 誰でも作家life