6話 物記の司書

今にして思えば、あの時の僕の決意は、グラスに垂らされた一滴のインクのようなものだった。透明な水の中で、それは静かに、しかし確実に形を変えながら沈んでいく。僕の均衡を保っていた日常という名の水は、その一滴によって、もう二度と元の透明には戻れないほど、静かに侵食され始めていたのだ。

彼女、水瀬詩織の本当の姿を知りたい。その衝動だけが、僕を動かす唯一のエンジンだった。ポケットの中の万年筆を握りしめた時、指に伝わる冷たさが、僕を臆病な観測者の殻から外へと押し出す。

そのインクが僕を導いたのは、霧ヶ崎の町を高台から見下ろす、あの「海風図書館」だった。学校から自転車で長い坂を上る。背後には、次第に小さくなる僕たちの日常の風景が広がり、前方には、まるで時間の流れから取り残されたかのような古い石造りの建物が、空の灰色を背負って鎮座していた。この町が霧ヶ崎と呼ばれる所以である、海から立ち上る霧が、すでに建物の輪郭をぼやかし始めている。日常と非日常の境界線は、いつもこの霧によって曖昧にされるのだ。

重い木製の扉を押し開けると、カビと古い紙の匂いが混じり合った、独特の空気が僕の肺を満たした。しんと静まり返った館内。高い天井から吊るされた裸電球が、埃の粒子をきらきらと照らし出している。ここが、僕がこれから足を踏み入れる世界の入り口だった。

僕はノートに拙くスケッチした「青い蝶の万年筆」のページを開き、カウンターへと向かった。そこにいたのが、司書の古賀宗介さんだった。彼は分厚い本から顔を上げると、僕の姿を認めても何の感情も示さず、ただ静かにこちらを見つめていた。その無表情さが、かえって全てを見透かされているような居心地の悪さを僕に与える。

「……あの、すみません。こういうものを探しているんですが」

震える声でノートを差し出すと、彼は僕のスケッチを一瞥し、それから僕の顔をじっと見た。まるで最初から僕がここへ来ること、そしてこの万年筆の絵を見せることすら知っていたかのような、不思議な沈黙が流れた。

やがて彼は、予言を紡ぐように、静かに口を開いた。 「物には記憶が宿る。特に、人の想いが強く込められたものにはね。君が探しているのは、この万年筆そのものかね。それとも、この万年筆が記憶している『何か』のことだろうか。物は時として、持ち主よりも雄弁だ。ただ、その声を聞くには、聞く側の耳と……そして、真実と向き合う覚悟が必要になる。君は、その覚悟を持ってここに来たのかね?」

その言葉は、単なる問いかけではなかった。僕の孤独な憧れや、感傷的なもどかしさを根こそぎ見抜いた上で、僕自身の存在意義を問う、鋭い刃のような響きを持っていた。僕は息を呑み、彼の深く、静かな瞳から目を逸らせなかった。僕がただの傍観者であることを、この人は許さないだろう。そんな確信があった。

「……覚悟が、あるのかは分かりません。でも、知らなければならないんです。彼女がなぜあんな表情をするのか。僕が『天使』だと思っていた彼女の、本当の姿を」

彼は僕の答えに小さく頷くと、黙ってカウンターの内側から出て、僕の横を通り過ぎた。そして、薄暗い書架の迷路の奥を指差した。

「郷土史の棚だ。この霧ヶ崎という土地の記憶が、そこで君を待っている。君が探す蝶も、あるいはそこにいるかもしれん」

彼が僕の背中を見送る視線を感じながら、僕は足を踏み出した。窓の外では、霧ヶ崎の港が乳白色の霧に完全に飲み込まれ、現実と非現実の境界線を消し去っていた。ここが、僕の探求の、本当の始まりになる。そんな予感が、心臓の鼓動と共に僕の全身を駆け巡っていた。

← 横にスクロールして読み進められます

物記の司書 - 霧の天使 - 誰でも作家life