5話 観測者の終わり

あの夜のことを、僕は今でも時折思い出す。僕の日常が、その均衡を保っていた最後の夜だ。自室の机に向かいながら、僕は生まれて初めてと言っていいほど長い時間、ヘッドホンを外していた。いつもならビル・エヴァンスのピアノが、僕と世界の間に静かで心地よい膜を一枚張ってくれる。だがその夜、僕の耳に届くのは、窓の外を走り去る車の乾いたロードノイズや、遠くで誰かが甲高く笑う声、どこの家からか聞こえてくる犬の苛立ったような鳴き声といった、ざらついた現実の音だけだった。そして僕は、それらの音を拒絶することなく、まるで初めて聴く音楽のように、ただ漫然と受け入れていた。

窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく頼りなく、見慣れない表情をしていた。その向こう側には、僕が生まれ育った霧ヶ崎の夜景が、巨大なジオラマのように広がっている。港のナトリウム灯が、この町特有の深い霧に滲んで、ぼんやりとしたオレンジ色の光の粒子となり、街全体を幻想的なドームで静かに覆っているかのようだった。

僕は数時間前の出来事を、何度も、それこそ擦り切れたフィルムのように繰り返し再生していた。放課後の昇降口。友人たちと談笑していた水瀬詩織。僕がポケットの中で冷たい万年筆を握りしめ、震える声で彼女の名前を呼んだ、あの瞬間を。

「……水瀬さん」

彼女が振り向いた。その顔には、いつも浮かべている、誰に対しても平等で、だからこそ誰のものでもない、完璧な微笑があった。だが、僕がポケットから青い蝶の蒔絵が施された万年筆を取り出した瞬間、その微笑は、まるで薄いガラスにひびが入るように、音もなく崩れ去ったのだ。

そこに現れたのは、僕の知らない顔だった。それは悲しみという一言では到底言い表せない。もっと深く、暗く、長い時間をかけて魂の井戸の底に沈殿した澱のようなものだった。まるで、この世のすべての諦めを凝縮して、ひとつの表情に固めたかのような。それはほんの一瞬のことで、彼女はすぐにいつもの仮面を貼り付け直し、「ありがとう、探してたの」と囁いた。しかし、僕の網膜には、あの刹那の素顔が、強烈なストロボ写真のように焼き付いて離れなかった。

僕が「天使」と呼び、遠くから崇めていた彼女は、一体どこにいるのだろう。あれは全て、僕が作り上げた都合のいい偶像だったのか。それとも、あの悲しみの表情こそが、彼女の本当の姿なのだろうか。僕は机の引き出しから、万年筆の拙いスケッチを取り出す。ぎこちない線で描かれた青い蝶。これに触れた時に僕の頭をよぎった、あの奇妙な既視感。真夏のむせ返るような緑の匂いと、耳鳴りのように脳髄に響いた蝉の声。それは、僕の失われた幼い頃の記憶と、何か関係があるのだろうか。

僕は観測者だった。自覚はあった。教室の窓際の席という名の安全なコクピットから、水瀬詩織という完璧な作品を、決して傷つくことのないガラスケース越しにただ眺めていた。彼女がみんなの「天使」でいることを受け入れ、その神聖さを汚すまいと、自ら距離を置くことで自分の存在を規定していた。それは崇拝であり、同時に僕自身の臆病さと無力さに対する、巧妙な言い訳でもあったのだ。観測者でいることは、ひどく楽だった。傷つくことも、何かを選ぶ責任を負うこともない。

だが、もう違う。あの表情を知ってしまった今、僕はもう同じ場所にはいられない。

彼女は天使なんかじゃない。

その確信は、失望ではなく、むしろ静かな衝動を伴って僕の内側から湧き上がってきた。あの深い悲しみの奥で、たった一人で何かに耐えている、血の通った一人の人間だ。僕の知らない、本当の彼女がいる。僕はもう、ただ見ているだけではいられない。

僕は立ち上がり、固く閉ざしていた窓を、少しだけ開けた。港から吹いてくる湿った夜風が、生温かい手のように僕の頬を撫でる。それは、僕の世界が静かに、しかし決定的に変わり始めたことを告げる合図のようだった。僕自身の物語を始めるための、最初の選択。霧の向こう側へ、僕は歩き出さなければならない。そう、強く思った。

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観測者の終わり - 霧の天使 - 誰でも作家life