第4話 天使の仮面、刹那の素顔
青い蝶の万年筆は、僕の学生ズボンのポケットの中で、まるで小さな鎮魂のための石のように、日ごとにその重みを増していった。それは物理的な質量ではなく、僕自身の臆病さと、日に日に濃くなる罪悪感が結晶化したものだったのかもしれない。万年筆を拾ってから、数日が過ぎていた。
「だからさ、普通に返せばいいじゃん。『これ、落としただろ?』って」
昼休み、高橋健太はコンビニで買ってきた新作のスイーツをスプーンで突きながら、事もなげに言った。彼の世界では、物事は常にシンプルで、解答は一つしかない。転校続きだった彼が身につけた、過剰な摩擦を避けて「普通」の軌道上を走り続けるための知恵だ。だが、僕にとって水瀬詩織は「普通」の範疇に収まる存在ではなかった。
彼女はいつも誰かの中心にいた。教室でも、廊下でも、彼女の周りには自然と人の輪ができる。その輪郭は、僕のような人間には決して越えることのできない透明な壁で守られているように見えた。壁の向こう側で、彼女は完璧な微笑みを浮かべている。僕が幼い日に出会った、僕だけの「天使」は、今や「みんなの」マドンナになってしまった。その事実に、僕はどうしようもないもどかしさと、ほとんど諦めに近い感情を抱いていた。それでも、彼女は天使なのだから仕方がないのだ、と。
しかし、ポケットの中の万年筆は、その諦観を静かに、だが執拗に揺さぶった。あの霧の夕暮れに見た、彼女の思い詰めたような横顔。完璧な仮面の下に隠された、ほんの一瞬の綻び。それを知ってしまった以上、僕はもうただの観測者ではいられないのかもしれない。
そして、その日の放課後、僕はついに意を決した。
ざわめきと、様々な運動靴の匂いが混じり合う昇降口。西日が床の埃を金色に照らし出し、まるでスローモーションの映画のように生徒たちの影が伸びては消えていく。その光と影が交錯する空間の中心に、水瀬詩織はいた。数人の快活そうな女子生徒たちと、そしてバスケットボール部のエース、佐伯蓮に囲まれて。
佐伯が何か冗談を言うと、彼女の周りに明るい笑い声が弾ける。詩織も、唇の端を上げて小さく笑っている。だが、僕には分かった。その瞳は、ほんの少しだけ、この場所ではないどこか遠くを見ている。まるで、自分の魂だけが、この喧騒から数センチ浮遊しているかのように。
「じゃあな、詩織。部活で」
佐伯蓮が、僕とは正反対の、何のてらいもない仕草で彼女に手を振る。周囲の女子たちも「また明日ね」と言い合いながら散っていく。チャンスは、今しかない。彼女が一人になる、ほんのわずかな時間。世界から色が消え、音という音が遠ざかっていく。僕の耳に聞こえるのは、自分の心臓が刻む、不規則でけたたましいリズムだけだ。
ポケットの中で、冷たい万年筆の感触を確かめる。これを返してしまえば、僕と彼女を繋ぐこの細く、非日常的な糸は切れてしまう。僕はまた、分厚いガラスの向こう側から彼女を「観測」するだけの日々に戻るのだ。それでいいのか? いや、良くない。あの表情の理由を知るまでは。
一歩、踏み出す。空気をかき分ける足が、鉛のように重い。彼女が僕の存在に気づく。その大きな瞳が、意外そうに僕を捉えた。
僕は震える喉から、ほとんど空気の塊のような声を絞り出した。
「……水瀬さん」
その声は、騒がしい放課後の空気に吸い込まれて消えてしまいそうなほど、か細く、不確かだった。
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