第3話 ポケットの中の罪悪感
青い蝶の万年筆を拾ってから数日が過ぎた。それは僕の学生ズボンの右ポケットに収まり、まるでそこに根を生やしたかのように鎮座していた。初めのうちはただの冷たい金属の感触だったものが、日を追うごとに奇妙な熱と重みを帯びていく。それは物理的な質量ではなく、僕の臆病さと罪悪感が凝縮してできた、小さな墓石のような重さだった。
授業中、僕はいつものように窓の外と、そして水瀬詩織を交互に眺める。彼女は僕の世界の太陽であり、同時に決して手の届かない恒星でもあった。彼女の周りには、いつも見えない引力が働いている。休み時間になれば、快活な女子グループが彼女を中心に笑い声を上げ、移動教室の際には、バスケットボール部のエースである佐伯蓮が、まるでそれが当然の権利であるかのように彼女の隣を歩く。彼らは、彼女という光を浴びて輝く惑星のようだ。そして僕は、その引力圏の外側から、ただ軌道を眺めているだけの、名もなき小惑星に過ぎない。
ポケットの中の万年筆が、ずしりと重みを主張する。これを彼女に返さなければならない。それだけのことだ。ごく単純な、高校生として当たり前の行為。しかし、僕にとってそれは、国境線を越えるのと同じくらい困難なミッションだった。彼女を取り巻く空気は、僕のような人間が呼吸をするには、あまりにも密度が濃すぎる。彼女に話しかけることは、僕が僕でなくなることを意味するような気がした。観測者という安全な立場を放棄し、観測対象であった世界に、無防備な肉体を晒す行為。その恐怖が、僕の足を縫い付けていた。
「おい、樹。また魂抜けてんぞ」 放課後、机に突っ伏してそんな思考の海を漂っていた僕の頭上から、呆れたような声が降ってきた。高橋健太だ。彼はスマホの画面から顔も上げずに、しかし的確に僕の状態を指摘する。 「昨日リリースの新しいタワーディフェンスゲーム、やったか? クラスの半分はもうハマってるぜ。お前もどうせ暇だろ、招待送っとくから」 「……ああ、ありがとう」 「それにしても、だ。最近のお前、ちょっと変だぞ。いつにも増して上の空っていうか、世界の終わりでも待ってるみたいな顔してる。まさかとは思うけど、水瀬詩織のことで悩んでるとか、そういうんじゃないだろうな?」 健太の言葉は、いつも軽やかで、核心を絶妙に逸らしているようで、それでいて時々、ナイフのように鋭く突き刺さる。僕はどきりとして顔を上げた。 「……なんで、そう思うんだ」 「そりゃわかるさ。お前の視線、あいつに固定されてるからな。まあ、気持ちはわかるけど、やめとけって。住む世界が違うんだよ、俺たちとは。あっちがプロ野球なら、こっちは草野球。いや、公園でやる三角ベースみたいなもんだ。ルールも道具も、そもそも観客の数からして違う。俺たちは俺たちで、コンビニの新商品に一喜一憂したり、ソシャゲのガチャに命を懸けたり、そういうささやかな日常を大事にするのが分相応なんだよ。高望みは、しんどくなるだけだぜ」 彼はそう言うと、ようやくスマホから顔を上げ、僕の机にコンビニの袋から取り出したシュークリームを置いた。転校続きだった彼が誰よりも執着する、「変わらない日常」の象徴。その甘い香りが、僕を現実へと引き戻そうとする。だが、僕のポケットの中には、その日常とは明らかに異質な、非日常への扉の鍵が眠っている。この重たい罪悪感を、健太に説明することはできないだろう。彼はきっと、オカルトだと笑い飛ばすに違いない。 「……別に、そういうんじゃない」 僕は、僕を日常に繋ぎ止めてくれる唯一の友人に、そう嘘をついた。ポケットの中の万年筆が、また少しだけ重くなった気がした。
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