第12話 決別と慟哭
今でも時折、あの日の潮風の匂いを思い出す。海風図書館で知ってしまった真実の、インクと古い紙の匂いを洗い流すかのように、僕は水瀬詩織を港へ呼び出した。僕たちの、決定的な決裂の舞台となった、あの場所へ。
霧ヶ崎の港を見下ろす、錆びれたベンチが一つだけある古い公園。手入れもされず、雑草がアスファルトの亀裂から顔を出している。そこは、僕たちが幼い頃、深い霧の中ではぐれた僕に、彼女が蝶の飾りがついた木のお守りをくれた場所の、すぐ近くだった。もちろん、今の彼女にその記憶はないだろう。僕自身、つい最近まで忘却の霧の中に沈めていたのだから。約束の時間より少し早く着いた僕は、ベンチに腰掛けることもできず、手すりに凭れて、灰色に煙る海をただ眺めていた。ポケットの中の万年筆が、僕の罪悪感みたいに重かった。
やがて、彼女は現れた。いつも教室で見る、光の中心にいるような華やかさはない。白いブラウスの襟が、心なしか頼りなげに見える。彼女は僕の前で立ち止まり、何も言わずに僕の言葉を待っていた。その静けさが、これから僕が口にする言葉の残酷さを、より一層際立たせるようだった。
「…調べたんだ。君のこと、そして、あの万年筆のことを」
僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「君の家…水瀬家は、この町に古くから伝わる『身代わりの蝶』の役目を負っている。町の災厄や人々の不運を、その身に引き受けるための、生贄の一族だ。君は…君が『天使』のように見えたのは、そういうことだったんだ」
僕は一息に、図書館の埃っぽい静寂の中で見つけ出した、呪いのような事実をぶちまけた。
「だから、もうやめるべきだ。君は天使なんかじゃない。ただの、水瀬詩織のはずだ。君の人生は、君だけのものなんだ。誰かの犠牲になるためにあるんじゃない。君自身が、君の意志で、選ぶべきだ」
僕の言葉に、詩織はゆっくりと顔を上げた。その顔から血の気は失せ、唇は白く乾いていた。だが、彼女は静かに首を振った。その瞳の奥に宿っていたのは、絶望ではなく、不思議なほどに静謐な光だった。諦めと、そして僕には理解しがたい、奇妙な誇りのような色が浮かんでいた。
「…それは、私の役目なの。私が、私たちの一族が、ずっと受け継いできたこと」
「役目だって?そんなもの、誰が決めたんだ!」
「誰も決めていないわ。ただ、そうであり続けただけ。この役目があるから、私はここにいられる。この役目を果たすから、この町の誰もが、何気ない日常を送れる。みんなが笑っていられる。あなただって、その一人じゃないの」
彼女の言葉は、静かなナイフのように僕の胸に突き刺さった。僕が享受してきた、退屈で平和な日常。ヘッドホンで外界を遮断し、安全なガラスケースの中から彼女を「観測」していた穏やかな時間。そのすべてが、彼女という存在を縛り付ける鎖であり、同時に彼女の存在理由そのものだったのだ。
「君の運命は、君が決めるべきだ!」
僕は、ほとんど叫んでいた。その叫びに、彼女は初めて、完璧な仮面をかなぐり捨て、感情を露わにした。その瞳が潤み、絞り出すような声が、潮風に震えた。
「あなたに何がわかるの!何も知らないくせに!いつも遠くから、本を読んだり音楽を聴いたりして、私をただ見てただけのあなたに!私がどんな想いで、この『役目』と向き合ってきたか。どれだけの孤独を、誇りに変えようとしてきたか。そんなことも知らないで、勝手な正義で私を憐れまないで!私の世界に、土足で踏み込んでこないで!」
それは、僕がただの無責任な観測者でしかなかったことへの、痛烈な拒絶だった。彼女の慟哭は、僕が築き上げてきた彼女への憧れも、彼女を救いたいという傲慢な願いも、すべてを粉々に打ち砕いた。彼女は僕に背を向け、逃げるようにその場を走り去った。
一人残された公園に、遠くで鳴る船の汽笛が、まるで誰かの嗚咽のように響き渡っていた。僕は、自分が「観測者」ですらなかったことを、この瞬間、はっきりと理解した。僕は、彼女の犠牲の上に咲く花を、何も知らずにただ愛でていただけの、愚かな「受益者」だったのだ。
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