第11話 受益者の告白
海風図書館の重い扉を押し開けた僕の目に映る世界は、まるで色褪せたセピア色の写真のようだった。水瀬詩織が「生贄」であるという、あまりに荒唐無稽な事実。僕が焦がれ、遠くから見つめることで僕自身の世界の均衡を保っていたあの完璧な「天使」は、この退屈で平和な日常を維持するための、ただの装置だった。僕が享受していた陽だまりは、彼女の影から生まれていた。そう理解した瞬間、僕はただの観測者ですらなかったのだと悟った。彼女の不幸を養分にして咲く花を、何も知らずにただ美しいと愛でていた、無知で無力な受益者。その一人に過ぎなかった。
自室に戻り、いつものようにヘッドホンを被っても、ビル・エヴァンスのピアノは鼓膜を通り過ぎていくだけで、少しも心に届かなかった。外界を遮断するための壁は、今や僕の内側で鳴り響く耳鳴りを閉じ込める檻でしかなかった。
不意にドアがノックされ、返事も待たずに高橋健太が顔を覗かせた。 「よお、樹。どうしたんだよ、顔色悪いぞ。また夜更かしして変なドキュメンタリーでも観てたのか?」 彼は僕の誕生日プレゼントにしたキーホルダーを指でいじりながら、コンビニの袋を差し出す。中には新作のスイーツか何か、甘ったるい匂いがした。転校を繰り返し、「変わらない日常」の価値を知る彼は、僕が普通から逸脱しかけているのを、その鋭いアンテナで察知しているのだ。 「…お前には関係ない」 僕の口から出たのは、自分でも驚くほど冷たく、乾いた声だった。それは健太を傷つけるための言葉ではなかった。僕が足を踏み入れた非日常の沼に、彼のような人間を引きずり込んではいけないという、ほとんど本能的な拒絶だった。 「…そうかよ」 健太は一瞬だけ傷ついたような顔をしたが、すぐにいつもの皮肉めいた笑顔に戻った。彼はそれ以上何も言わず、ドアの前にコンビニの袋をそっと置くと、静かに部屋を去っていった。ドアが閉まる音の後、訪れた沈黙の中で、床に置かれたビニール袋の存在が、ナイフのように僕の胸に突き刺さった。彼が守ろうとしてくれた日常。僕が突き放した友情。その全てが、甘いお菓子の形で僕を責め立てているようだった。
僕は再び海風図書館へと向かった。霧ヶ崎の街は深い霧に沈み、街灯の光がぼんやりと滲んでいる。カウンターの奥で、古賀宗介さんは僕が戻ってくるのを予期していたかのように、静かに本を閉じた。 「君は、答えを見つけてしまったようだね」 彼の声には何の抑揚もなかった。僕は彼の前に立ち、言葉を探したが見つからない。彼が口を開いた。 「私も、かつては観測者だった。いや、君と同じ受益者だったと言うべきだろうな。この図書館で、ある女性に出会った。彼女も水瀬家の人間で…聡明で、儚げで、そしていつも諦めたような目をしていた。私は彼女に惹かれたが、彼女が背負う運命を知った時、何もできなかった。何も言えず、ただ彼女が人々の不運をその身に引き受けていくのを、この書架の陰から見ていることしかできなかったんだ」 古賀さんの目は、遠い過去の、取り返しのつかない一点を見つめていた。 「傍観は、静かな肯定だ。行動しないということは、そのシステムを、その運命を、是とする選択に他ならない。私はその過ちを犯した。だから、君には同じ道を歩んでほしくない。君はまだ、選択できる場所にいる」 そう言って彼は、一枚の古地図と気象データを僕の前に広げた。 「近日中に、霧ヶ崎の裏山で大規模な土砂災害が起きるという予兆がある。そして詩織くんは、その全ての『不運』を引き受けるための儀式に臨むだろう。それを止める方法は、おそらく一つしかない。彼女が持つ『青い蝶の万年筆』を、君が、強い意志を持って破壊することだ」 彼の言葉は、僕に一つの役割を、一つの物語を、そして一つの重い選択を突きつけた。観測者であることの安逸を捨て、僕自身の物語を始めるための、最初の選択を。霧に煙る窓の外を見ながら、僕はポケットの中の万年筆を、強く握りしめた。
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