第9話 受け取らなかった封書

高瀬晴臣の住所へ向かう日は、朝から空が低かった。
雨は降っていなかったが、雲の底に水を含んでいるのが分かる。新興住宅地を抜け、駅前の通りを渡り、しずえから受け取った古い索引カードの住所を頼りに、私は町の外れへ歩いた。駅から二つ先の町名。そこからさらに転居した先が、現在の晴臣の住まいだという。
住所は、古いカードの裏に赤鉛筆で書かれていた。文字の角は丸くなり、何度も指でなぞられた跡がある。私は歩きながら、カードを折り目に沿って開いたり閉じたりした。紙はもう、自分の手の形を覚えているようだった。
古い住所から現在の住所までの道は、地図で見るよりも長かった。新興住宅地の白いフェンスは途切れ、工場の裏手を通る細い道へ入る。雨を含んだ側溝から土の匂いが上がり、古いアパートの外階段には、昨夜の水滴がまだ残っていた。足元の水たまりに空が映り、そのたびに、封筒の黄ばんだ白さが浮かんだ。
晴臣が今どこで、どんなふうに暮らしているのか、私は知らない。
ただ、彼が住んでいた部屋に残された書類の束と、郵便受けを音もなく閉める癖だけが、私の中に一つの像を作っていた。物を捨てられず、けれど生活の表面からは何もはみ出させない人。過去を抱えているのに、それを抱えていることさえ整えてしまう人。
住所の最後にあったのは、二階建ての古い集合住宅だった。外壁は薄い灰色で、廊下の手すりには赤錆が浮いている。建物の脇にある集合郵便受けは、どれも新しいものへ交換されていたが、端の一台だけ、鍵穴の周囲に古い傷が残っていた。
私はその前で足を止めた。
郵便受けを開ける前に一拍置く。その癖を、晴臣も持っているのだろうかと思った。
階段を上がり、二〇三号室の前に立つ。表札には「高瀬」とだけあった。呼び鈴を押す前に、私は封書の角を指でなぞった。糊の乾いた感触。紙の毛羽立ち。仕分け印の黒い筋。
呼び鈴を押した。
中で、何かを引きずる音がした。続いて、机の上から物を一つずつ片づけるような、小さな音がいくつか続く。
「どちら様ですか」
声は低く、思っていたより若かった。
「高瀬悠真と申します。以前、白鷺町の住宅にお住まいだった高瀬晴臣さんで間違いないでしょうか」
扉の向こうで沈黙があった。
「その名前に、何かご用でしょう」
「郵便物をお預かりしています」
再び間があった。今度は短かった。
「差出人は?」
私は封筒を見た。
「三枝透さんです」
扉の向こうから、息を吸う音がした。
それは驚きの声ではなかった。驚くことをずっと前に終えていて、いまさら身体だけが反応したような音だった。
鍵が回った。
扉が開く。
男は、私の想像よりも背が高かった。四十代の半ばほどに見える。髪には白いものが混じり、顔立ちは穏やかだったが、こちらを見る前に、まず私の靴先、それから廊下の郵便受けへ視線を移した。
その順番を、私は見逃さなかった。
「高瀬晴臣です」
「突然すみません」
「いえ。ここまで来られたということは、突然では済まないものなのでしょう」
晴臣は扉を大きく開けた。
「中へどうぞ。立ち話をすると、近所の方に余計な想像をさせます」
部屋の中は、音が少なかった。ラジオは置かれているが、電源は入っていない。机の上には何もなく、壁際の棚には薄い箱がいくつも並んでいる。封筒の束、住所録、転居届の控え。どれも角が揃っていた。
晴臣は椅子を一つ引き、私に勧めた。自分は座らず、机の端を指先で二度なぞった。
「封書を見せていただけますか」
私は封筒を差し出した。
晴臣はすぐには受け取らなかった。両手を下げたまま、封筒の表と裏を見ている。差出人の名前に視線が触れ、仕分け印へ移り、最後に封緘の浮いた中央へ戻った。
「知っていたんですね」
私が言うと、晴臣は封筒から目を離さなかった。
「何をでしょう」
「この封書の存在です」
「似たものを、知っているだけです」
「似たもの?」
「同じとは言っていません」
「ですが、三枝透の名前を見て、何も尋ねない。どうして差出人を知っているのかとも、どこで見つけたのかとも聞かない」
「聞いても、答えが変わるわけではありません」
「答えを変えるために来たのではありません。確かめるために来ました」
晴臣は、ようやく封筒を受け取った。指先が紙に触れた瞬間、わずかに震えた。だが、握りつぶすことも、引き寄せることもしない。紙を扱う人間の手つきだった。
「この印は、まだ残っていたんですね」
「仕分け印ですか」
「ええ。白鷺荘の区域で使われていたものです。正規の印ではありませんでした」
「みどり郵便局の記録を見たんですか」
「見ました。あなたは、郵便の経路に詳しい」
「詳しいわけではありません。必要だったから覚えただけです」
「三枝さんも、そう言っていました」
晴臣の目が、初めて私の顔へ向いた。
「三枝さんは、郵便がどこを通ったかを、誰より気にしていた。宛名が違う、日付がずれる、転送先が空欄になる。普通なら事務処理の誤りで済ませるようなことを、あの人は一つずつ拾った」
「あなたも、その調査に関わっていた」
「関わった、という言い方は正確ではありません」
「では、何をしていたんですか」
晴臣は封筒を机の上へ置いた。裏返し、表へ戻し、角を揃える。
「話を聞いていました」
「それだけですか」
「聞くことは、何もしないことと同じではありません」
「でも、三枝さんが失踪したあと、あなたは誰にも話していない」
「話していません」
「なぜですか」
晴臣はすぐに答えなかった。窓の外で、細い雨が降り始めた。ガラスに当たる雨粒の音が、部屋の静けさを少しずつ細かくしていく。
「三枝さんから、封書を預かったことがあります」
「この封書ですか」
「分かりません」
「分からない?」
「中身を見ていないからです」
「見ていないのに、預かったことだけは分かる」
「封筒の表に、私の名前がありました。三枝さんは、私に渡すと言いました。でも、私は受け取らなかった」
私は封筒を見た。
「いま、あなたは受け取っています」
「いまは、あなたが持ってきたからです」
「十年前は?」
晴臣は、机の端を指で二度なぞった。
「受け取れば、戻らないものがある。そう思っていました」
「何が戻らないんですか」
「封を切れば、書かれていることが事実になります。読まなければ、まだ可能性のままでいられる。三枝さんが見間違えた可能性、記録を読み違えた可能性、誰かを疑う必要がなかった可能性。封を切らなければ、そういう逃げ道が残る」
「あなたは、逃げ道を残したかった」
「誰に対してでしょう」
「三枝さんに。あなた自身に。あるいは、記録を書き換えた人間に」
晴臣は私を見たまま、黙っていた。
私は声を荒らげていなかった。それでも、自分の言葉が部屋の中で硬くなっていくのを感じた。ここまで来る間、私は何度も、彼を疑うことへの後ろめたさを覚えていた。前の住人というだけで、彼の部屋に残った紙や鍵の跡を勝手に読み取っている。彼には、彼の沈黙を守る理由があるかもしれない。
それでも、三枝透の不在は、沈黙で守られたものの陰に残っている。
「あなたは、三枝さんから何を聞いたんですか」
晴臣は封筒を指で押さえた。
「白鷺荘の郵便が、配達前に選別されていること。住民の転居記録が、実際の移動と合わないこと。町内の名簿に、後から書き直された箇所があること。三枝さんは、そういう話をしていました」
「誰がやっていたのか、見当はついていた」
「本人は、ついていると言っていました」
「あなたは?」
「私は、聞いただけです」
「聞いただけの人が、どうして十年もその話を覚えているんですか」
「覚えていたくなくても、覚えてしまうことがあります」
「では、なぜ警察に話さなかったんですか」
晴臣は窓の外を見た。
雨は少し強くなっていた。向かいの建物の屋根から水が落ち、排水口のあたりで細い音を立てている。
「三枝さんは、自分がいなくなったあと、私が何も知らない人間として扱われることを望んでいた」
「そんなことを、本人が言ったんですか」
「正確には、何も言いませんでした。ただ、封書を渡すときに、こう言ったんです。『受け取らなければ、まだ誰のものでもない』と」
「意味が分かりません」
「私にも分かりませんでした」
「それで、受け取らなかった?」
「受け取れなかった」
晴臣の声に、初めて明確な痛みが混じった。
「受け取らなかったのではなく、受け取れなかった。言葉の違いに意味がありますか」
「あります。受け取らなかったなら、選んだことになる。受け取れなかったなら、選ぶところまで行けなかった」
「何が怖かったんですか」
「三枝さんの言葉を、私の言葉にしてしまうことです」
晴臣は長く息を吐いた。
「三枝さんが何かを告発しようとしていたとしても、それを私が受け取って、警察へ持っていけば、私は証人になります。三枝さんの話を私の記憶で説明することになる。そうなれば、三枝さんが見たものではなく、私が見たことに変わる。私は、それが怖かった」
「それでも、何もしなければ、三枝さんの言葉は消える」
「はい」
「実際に、消えた」
「消えたのではありません」
晴臣は、封筒の角を揃えた。
「届かなかっただけです」
「同じことです」
「違います」
その言葉だけは、はっきりしていた。

「消えたものは、誰の手にも戻りません。届かなかったものは、どこかで止まっている。止まっているなら、いつか誰かが見つける可能性がある。私は、そう思っていました」
「十年も?」
「十年経っても、そう思うしかなかった」
私は部屋を見渡した。
棚の箱には、何も書かれていないものと、日付だけが書かれたものがある。机の引き出しを晴臣が開けた。中には古い封筒の束が入っていた。差出人名と日付だけを切り取った紙片が、封筒とは別に小箱へ収められている。
「全部、残していたんですね」
「捨てられなかっただけです」
「捨てないことは、残すことと違います」
「分かっています」
「あなたは、三枝さんの封書を残した。それなのに、警察には話さなかった。記録を守ったつもりで、誰にも届かない場所へしまった」
「その通りです」
晴臣は否定しなかった。
「私は、三枝さんを守ったつもりでした。封書を受け取らなければ、内容を知らずに済む。知らなければ、誰かに問い詰められても、何も答えなくていい。私が黙っていれば、三枝さんの名前は、少なくとも私の口からは出ない。そう考えた」
「でも、彼は失踪した」
「はい」
「あなたは、彼が戻ると思っていたんですか」
「戻ると思っていたのではありません。戻ってこられる場所を、残しておきたかった」
「場所?」
「白鷺荘の部屋です。郵便受けです。名簿の名前です。何も変えずにおけば、帰ってきたときに、三枝さんはまだ三枝さんでいられる。そう思っていました」
「記録は変えられた」
「私が見ている前で、変えられました」
晴臣は、初めて視線を落とした。
「白鷺荘の住人台帳が書き換えられたとき、私はその場にいました。誰かが、三枝さんの転出日を変えた。郵便の転送先も消した。私は見ていました。でも、その人が誰かを言わなかった」
「なぜですか」
「その人を告発すれば、別の人間が傷つくと思ったからです」
「その別の人間とは?」
晴臣は答えなかった。
部屋の中に、雨の音が広がっていた。沈黙が雨粒のように細かく積もり、私たちの間に薄い膜を作っている。
「三枝さんは、誰かを守ろうとしていたんでしょうか」
「三枝さんは、誰かを守るために記録を残そうとしていました。でも、その誰かが守られることを望んでいたかどうかは、分かりません」
「あなたは?」
「私は、誰も守れませんでした」
晴臣の声は低かった。
「ただ、壊れる順番を遅らせただけです。封書を受け取らず、警察にも話さず、転居して、住所を変えて、過去が追いつけないようにした。そうすれば、三枝さんのことを知る人間が増えずに済む。そう考えた。けれど、沈黙は人を守る壁ではなく、記録を腐らせる箱だった」
私は封書を見た。
「この手紙は、あなたのものです」
「いいえ」
「宛名は高瀬晴臣です」
「宛名が私だからといって、私のものとは限りません。三枝さんが書いた時点では、私に届くはずだった。でも、届かなかった。届かなかったものを、いまさら所有することはできません」
「では、誰のものなんですか」
「三枝さんが、誰かに届くように残した言葉です」
「その誰かは、もういないかもしれない」
「だから、あなたが持ってきた」
晴臣は封筒を私へ返した。
紙が私の掌に戻る。晴臣の体温は残っていなかった。長く触れていたはずなのに、封筒は冷たいままだった。
「読んでください」
「あなたが?」
「私は、受け取れません」
「内容を知りたくないんですか」
「知りたくないのではありません。知ってしまえば、また誰かの代わりに話すことになる。三枝さんの言葉を、私の記憶で包んでしまう。私はもう、それをしたくない」
「では、私に読ませる理由は?」
「あなたは、まだこの町の人間ではないからです」
その言葉に、私は胸の奥を刺された。
「よそ者だから、ですか」
「そういう意味ではありません。あなたは、誰かの沈黙を約束していない。誰かを守るために、何も知らないふりをする理由もない。だから、あなたが読んだものは、あなたの責任で扱える」
「責任を押しつけている」
「そうかもしれません」
晴臣は、初めてほんの少しだけ笑った。疲れた笑みだった。
「私は、誰かに押しつけられる前に、受け取らないことを選びました。そのせいで、十年経っても、何も終わっていない。あなたには、同じことをしてほしくない」
私は封書を持ったまま立ち上がった。
「三枝さんは、どこへ行ったんですか」
晴臣は答えなかった。
「あなたは、失踪当夜に彼を見ている」
「見ていません」
「妙子さんは、裏口から出て行く人影を見た。鍵の音も聞いている。あなたは、その夜に白鷺荘へ行った」
「証拠がありますか」
「ありません。だから、あなたに聞いている」
晴臣は、机の端を二度なぞった。
「私は、白鷺荘へ行きました」
「何時に?」
「九時半頃です」
「三枝さんと会った?」
「会いました」
「何を話したんですか」
「封書を渡されました」
「そのあと、彼はどこへ行った」
晴臣は窓の外を見た。
「旧桜公園へ行くと言っていました」
「一人で?」
「そうです」
「あなたは後を追わなかった」
「追えませんでした」
「なぜ」
「追えば、三枝さんが誰かを守ろうとしていることを、壊してしまうと思った」
「それは、あなたの判断です」
「はい」
「その判断で、彼は戻らなかった」
「はい」
「それでも、何も話さなかった」
「はい」
短い返事が続いた。
けれど、その一つ一つは、十年間、口の中で何度も擦られてきた石のように重かった。
私は玄関へ向かった。晴臣は見送るために立ち上がったが、何も言わなかった。靴を履き、扉を開ける。廊下には雨の匂いが流れ込んでいた。
「高瀬さん」
背後から呼ばれた。
振り返ると、晴臣は机の上に残った封筒の束を見ていた。
「三枝さんは、封書を投函する前に、必ず宛名を何度も確認していました」
「あなたも?」
「私は、投函したあとに、何度も裏返します」
「なぜですか」
「間違えたまま届くのが怖いからです」
晴臣は、郵便受けの蓋へ目をやった。
「でも、宛名が正しくても、届かないことがある。人間が途中で止めるからです」
外へ出ると、雨は細く降り続いていた。
階段を下りる間、私は封書を胸の内側へしまった。紙の角が服越しに触れる。雨に濡らさないように、手で覆った。
建物の前にある集合郵便受けを通り過ぎる。どの蓋も閉じられ、鍵穴の周囲には無数の擦り傷が残っている。誰かが何度も開け、何度も閉めた跡だった。
私は足を止め、振り返った。
二階の廊下に、晴臣が立っていた。こちらを見ているのか、郵便受けを見ているのかは分からない。やがて彼は、音を立てないように扉を閉めた。
ぱたん、と軽い音がした。
その音を聞いたとき、私はようやく理解した。
晴臣は、封書を受け取らなかったのではない。受け取ってしまったものを、自分の手の中にあると認めなかったのだ。認めれば、三枝透の不在を自分の生活の中へ引き受けることになる。だから彼は、封書を受け取らず、三枝の言葉も受け取らず、ただ宛名だけを残して歩き続けた。
けれど、紙は彼の沈黙より長く生き残った。
雨に濡れた道路を、新興住宅地の方向へ歩く。白いフェンスは水滴をまとい、街灯の光を細く返していた。旧区画から持ち帰った湿った木の匂いが、まだ靴底や袖口に残っている。
私は封筒を取り出した。
封緘の中央は、以前より浮いていた。指先を差し込めば、すぐに開く。中には三枝透が十年前に書いた言葉がある。高瀬晴臣へ向けられ、誰にも受け取られなかった言葉。
私はその場では、封を切らなかった。
宛名は、まだ晴臣のものだった。
けれど、これまでのように、ただ閉じたまま守るつもりもなかった。封筒を手帳の間へ挟み、濡れないように胸元へしまう。
家に着く頃には、雨は止んでいた。
郵便受けの前で、私は一拍置いた。
鍵を回す。
中には、広告が一通だけ入っていた。新しい紙の匂いがした。私はそれを取り出し、蓋を閉めた。古い郵便受けは、晴臣のものと同じように、ほとんど音を立てなかった。
けれど、閉じたあとも、手の中には封書の重さが残っていた。
受け取らなかった言葉は、消えない。
ただ、誰かが受け取るまで、宛名の下で静かに待ち続ける。
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