10話 封の内側

封を切ることにしたのは、翌日の朝だった。

夜のあいだ、私は何度も手帳の間から封書を取り出した。机の上へ置き、照明を消し、また点けた。封緘の浮いた部分には、薄い埃が入り込んでいる。紙の繊維が湿気を吸い、指先に触れるたび、わずかに柔らかくなっていた。

受け取らないという選択は、もう晴臣のものだった。

私が同じ選択をすれば、封書はまた誰かの沈黙の中へ戻る。

朝、片岡書房へ電話をかけると、しずえはすぐに出た。

「開けるんだね」

「はい」

「ひとりで?」

「できれば、片岡さんにも立ち会ってほしいです」

「牧野さんにも声をかけなさい。手紙は読むだけなら一人でできるけれど、読んだあとに残るものは、一人で抱えると形が変わる」

その言い方が気になったが、私は尋ねなかった。

牧野誠二は、古書店の奥にある小さな机で待っていた。机の上には白い紙が敷かれ、その中央に封書を置く場所だけが空けられている。牧野は私が入ると、まず封書ではなく私の手を見た。

「濡れてはいないな」

「はい」

「開封するなら、切り口を残せ」

「破らずに開ける方法はありますか」

「できるだけな。十年前のものなら、紙より糊の方が先に弱っている」

しずえが、細い金属のへらを持ってきた。古い本の補修に使うものらしい。先端は丸く磨かれ、黒ずんでいる。

「急がないことだよ」

「急いでいるつもりはありません」

「手紙の方が、急いでいることがある」

私は返事をせず、封書を白い紙の上へ置いた。

差出人の欄には、三枝透の名前がある。住所は白鷺荘ではなく、旧区画の別の町名だった。見覚えのない住所だった。宛名は高瀬晴臣。文字の線は細く、けれど角だけが妙に強い。封筒の表面に残った擦れのために、最後の「臣」の一画がほとんど消えている。

牧野が覗き込んだ。

「この宛名、三枝の字か」

「妙子さんは、そう言っていました」

「本人の筆跡なら、少なくとも封筒は三枝が書いた可能性が高い」

「可能性、ですか」

「筆跡だけで断定はしない」

牧野はそう言いながら、封筒の角を揃えた。

へらの先を封緘の隙間へ入れる。乾いた糊が、かすかに剥がれる音を立てた。紙の表面が持ち上がり、茶色い粉のようなものが落ちる。十年分の時間が、細かな屑になって机へ散った。

封を開けると、中には便箋が一枚と、小さく折られた紙片が入っていた。

便箋は三つ折りにされている。紙の内側には、古いインクの匂いが残っていた。薄い苦味のある匂いだった。しずえが紙片を拾い上げ、裏返す。

「これは、切符の半券だね」

私も覗き込んだ。日付は十年前のものだった。駅名の印字は擦れていたが、片方には見覚えのある文字が残っていた。

みどり。

牧野が、半券を指で押さえた。

「みどり駅。白鷺荘から一番近い駅だ」

「三枝さんは、電車でどこかへ行くつもりだったんでしょうか」

「切符だけでは分からない」

「でも、封書の中に入っている」

「入っている理由を、先に決めるな」

牧野の声は冷たかった。だが、手紙を急いで見ないようにしているのは、彼自身も同じだった。

私は便箋を開いた。

最初の行には、晴臣の名前があった。

高瀬さんへ。

その下には、短い文章が続いていた。

封筒の中身を、あなたが読む必要はありません。

私はそこで、指を止めた。

「どういうことだ」

牧野が尋ねる。

「最初から、読むなと書いてあります」

「続けろ」

私は息を整え、読み進めた。

この手紙をあなたに渡すのは、内容を伝えるためではありません。受け取ったという事実だけを、残してほしいからです。

三枝透は、そう書いていた。

窓の外を車が通り過ぎた。濡れた道路の音が、店の壁を薄く震わせる。

あなたがこれを受け取ったと証明できれば、私が何を言ったかは必要ありません。受け取らなかったことにされるのが、一番困ります。

その一文の下に、少し間を空けて、別の文字が続いていた。

もし私が戻らなければ、封書は片岡さんへ。片岡さんが受け取らなければ、牧野さんへ。二人とも受け取れないなら、旧桜公園のベンチ三の裏へ。

私は顔を上げた。

しずえは、目を伏せていた。

牧野は、便箋ではなく彼女を見ている。

「片岡さん」

「読むんだよ」

「あなたは、この手紙のことを知っていたんですか」

「知らなかった」

「でも、名前が書かれている」

「名前を書かれたことも、今初めて知った」

しずえの声は静かだった。けれど、いつものように相手へ逃げ道を残す調子ではなかった。

便箋の下半分には、さらに文章があった。

ただし、封書が高瀬さんの手元に届かなかった場合は、受け取った人が次の宛先を選んでください。誰かに渡すのではなく、誰かが受け取ったことを残せる場所へ。

その後に、三つの数字が書かれていた。

三、四、五。

旧桜公園のベンチ番号と同じだった。

私は紙面を見つめたまま、声に出した。

「ベンチ三は、手紙を隠す場所ではなかった」

「では、何だ」

「受け取れなかった人が、次へ回す場所です」

牧野は、便箋を取り上げた。紙を傾け、光に透かす。裏面には何もない。だが、下端に薄い黒ずみがあった。文字の跡のようにも、単なる擦れのようにも見える。

「この住所を見ろ」

牧野が封筒の差出人欄を指した。

「白鷺荘ではない。旧桜公園の近くだ。三枝はここから投函した」

「失踪する前に?」

「日付を確認しろ」

消印は、失踪の二日前だった。

私は便箋の文面へ視線を戻した。

そして、最後の行を読んだ。

高瀬さん。あなたがこれを受け取らなかったことは、責めません。ただ、次に渡す人を間違えないでください。名前を知っている人ではなく、受け取った事実を残せる人へ。

署名は、三枝透。

その下に、もう一つだけ、別の筆跡があった。

小さな文字で、鉛筆によって書かれている。

渡した。受け取らなかった。

私はその文字を見た瞬間、喉の奥が乾いた。

「誰の字ですか」

牧野が尋ねた。

しずえは答えなかった。

紙片を持つ指が、わずかに震えている。鉛筆の線は薄く、文字の角が丸い。私はその筆跡を知っていた。

白鷺荘で見た、妙子の管理日誌。欄外に残っていた、短い書き込み。

日付の横に、同じような二度の点。

「桑原さんの字です」

牧野が顔を上げた。

「断定するな」

「でも――」

「筆跡が似ているだけでは足りない」

そう言いながら、牧野は紙片を白い紙の中央へ置いた。鉛筆の文字を、何度も見直している。

しずえが、ようやく口を開いた。

「妙子さんは、三枝さんから手紙を受け取ったんだね」

「受け取ったのに、誰にも渡さなかった」

「渡さなかったのではないよ」

しずえは、便箋の最後の行を見た。

「渡した。でも、受け取られなかった」

「誰に?」

私は尋ねた。

しずえは、すぐには答えなかった。

店の奥で、古い時計が一度だけ鳴った。時刻は正午を過ぎていた。外の郵便受けに、何かが落ちる音がする。紙が金属の底に触れ、軽く滑った。

しずえは立ち上がった。

「妙子さんのところへ行こう」

「今からですか」

「今でなければ、また誰かが受け取らない」

牧野が便箋を封筒へ戻した。

「この手紙は預かる」

「返してください」

「証拠としてだ」

「まだ、私が受け取ったものです」

牧野は私を見た。

「なら、受け取った事実を残せ」

その言葉が、便箋に書かれていた一文と重なった。

私は封筒を手帳の隣へ置いた。紙の角を揃える。今までなら、それだけで少し落ち着いたはずだった。

けれど、今日は違った。

封を開けたことで、手紙は軽くならなかった。むしろ、誰が何を受け取らなかったのか、その順番だけがはっきりした。

店を出る前、私は入口脇の郵便受けを見た。

中には、白い封筒が一通入っていた。

宛名は、片岡しずえ。

差出人の欄には、何も書かれていなかった。

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