第8話 宛先のずれ

白鷺荘の取り壊しは、もう止めようのない段階に入っていた。
前に来たときには残っていた二階の窓枠が、いくつか外されている。壁板も剥がされ、内部の柱がむき出しになっていた。白かったはずの木肌は雨を吸って黒ずみ、隙間から見える断熱材には、灰色の埃が薄く積もっている。建物は壊されているというより、外側から順番に記憶を抜き取られているようだった。
私は規制テープの前で足を止めた。
昨夜から雨が降ったり止んだりしていたせいで、地面は柔らかくぬかるんでいる。靴底が土を踏むたび、湿った音が返ってきた。古い木造家屋の匂いは、濡れると甘くなる。腐りかけた畳、黴の浮いた柱、土の中に沈んだ紙。鼻の奥に残る匂いが、十年前の時間をまだここに置き去りにしているようだった。
片岡しずえが、私の少し後ろで立ち止まった。
「中へ入るなら、足元を見て歩くんだよ」
「桑原さんは、もう来ていますか」
「たぶんね。取り壊し前の建物には、最後まで鍵を返せない人がいるものさ」
「鍵を返す先がないからですか」
「それもある。自分の手元から鍵を離したら、本当に終わってしまう気がするからね」
しずえは規制テープの隙間を見た。そこには新しい泥の跡がいくつか残っていた。作業員のものにしては小さい。誰かが、私たちより先に中へ入っている。
私はその跡を見たまま、ポケットの封書へ手を触れた。
「妙子さんは、ここを片づけているんでしょうか」
「片づけているのか、探しているのか。本人にも分からないかもしれないよ」
「何を?」
「十年前から、置き場所を変えただけで消えなかったものを」
しずえはそれ以上説明しなかった。
私たちは建物の脇に回った。仮設の扉には新しい南京錠がかかっていたが、鍵はすでに開いていた。扉を押すと、蝶番が低く鳴った。内部から湿った風が流れてくる。冷たいというより、長く閉じ込められていた空気が、外へ出る場所を見つけたときのような匂いだった。
玄関には靴がなかった。
それでも上がり框の端には、細かな砂が残っていた。砂は一か所にだけ集まり、誰かが立ち止まった形をしている。私はしゃがみ込み、指で触れた。濡れた土の粒が皮膚にまとわりつく。
「最近、誰かが入っています」
「作業員かもしれないね」
「靴跡がありません」
「脱いだのかもしれない」
「この砂は、外の地面のものではありません。建物の奥の床板に溜まっているものと同じです」
しずえは私を見た。
「見落とさないね」
「見えてしまうだけです」
「それが一番、疲れるんだよ」
管理人室には、桑原妙子がいた。
窓際に立ち、外の鉄板に溜まった雨水を見ている。背中を向けていたが、私たちが入ると、こちらを振り返る前に鍵束へ手を伸ばした。金属が触れ合い、乾いた音を立てる。
「あら、片岡さん」
妙子は柔らかく笑った。それから私の胸元へ視線を落とした。
「高瀬さんもご一緒でしたか」
「前の住人について、もう少し伺いたくて来ました」
「そうでしたか。立ったままでは何ですから、お茶を淹れましょうね」
「お気遣いなく」
「こういう話は、喉が乾くものです」
妙子は答えを待たず、部屋の隅に置かれた電気ポットへ水を入れた。ポットの底に溜まった水が、傾けるたびに小さく揺れる。彼女は棚の奥から湯呑みを二つ取り出した。白地に細い青い線が入った古いものだった。縁の一部が欠け、片方の底には黒い擦り傷がある。
「それは、白鷺荘に昔からあるものですか」
私が聞くと、妙子の手が止まった。
「ええ。建物ができた頃から、いくつか残っています」
「三枝さんも使っていた?」
「よくご存じですね」
「以前、そう伺いました」
「そうだったかしら」
妙子は一拍置き、湯呑みを布巾で拭いた。
「三枝さんは、この柄を好んでいました。高瀬さんは無地のものを使う人でしたね」
「二人が、よく会っていたことも覚えていますか」
「ええ。二人とも、この建物に住んでいましたから」
「住んでいたから、だけですか」
妙子は湯を注いだ。白い湯気が二人の間に立ち上がる。
「高瀬さんは、三枝さんの部屋へ行くことがありました。三枝さんも、高瀬さんの部屋へ行っていました。住人同士が行き来することは、珍しくありません」
「紙を渡しているところを見たことは?」
「紙、といってもいろいろあります。郵便物かもしれないし、買い物のメモかもしれない。人が手にする紙を、全部意味のあるものとして見ていたら、暮らしはできませんよ」
「三枝さんは、紙の角を揃える人だったそうですね」
妙子の目が、湯呑みの青い線へ落ちた。
「誰から聞きました?」
「妙子さんからです」
「そうでしたか」
「三枝さんが失踪する少し前、何かを急いでいた。紙を揃える時間が短くなり、歩く速度も速くなった。そう言っていましたね」
妙子はすぐに答えなかった。布巾を折り、もう一度折り、端を揃えた。
「古いことですから」
「古いから、覚え違いが増える」
「そうです」
「でも、妙子さんは、湯呑みの柄を覚えている。誰がどちらを使ったかも覚えている。失踪当夜のことだけ、覚えていないと言う」
妙子の指が、布巾の上で止まった。
「覚えていないものは、覚えていないんです」
「三枝さんが九時過ぎに戻ったことは覚えている」
「そうだったと思います」
「高瀬さんが来たかどうかは、覚えていない」
「はい」
「湯呑みが二つ使われていたかどうかは?」
妙子は顔を上げた。
柔らかな表情のままだったが、その奥の温度が少し下がっていた。
「どうして、そんなことをお尋ねになるんですか」
「湯呑みを二つ出したからです」
「来客が二人なら、二つ出すでしょう」
「妙子さんは、飲んでいない」
「私はお茶を飲まないこともあります」
「では、誰と誰のために出したんですか」
返事はなかった。
窓の外で、鉄板に雨粒が落ちた。ひとつ、ふたつ。音はすぐに途切れ、部屋の中には冷えた湯気だけが残った。
私は机の上に、町内自治会名簿の写しを広げた。しずえから借りたものを、必要な箇所だけ複写してきた。旧桜公園の欄外に添えられた小さな配置図と、封筒の紙越しに見えた数字を並べてある。
「この数字は、住所ではありません」
私は言った。
「名簿にある旧桜公園の配置図と重ねると、ベンチの番号になる。三、四、五。封筒の中にある紙にも、同じ並びが見える」
妙子は紙面を見たが、手を伸ばそうとはしなかった。
「封筒を開けたんですか」
「開けていません。薄い紙なので、外から一部が透けているだけです」
「透けて見えたものを、読み取ったつもりになっているだけかもしれません」
「だから、照合しています」
「照合して、何が分かるんですか」
「この封書が、誰かに届くべきものだった可能性です」
妙子は笑った。だが、笑みは薄く、紙の表面に残った折り目のようだった。
「届くべきものは、必ず宛名の人のところへ届くとは限りませんよ」
「届かなかった場合、誰かが止めたことになります」
「郵便は、いろいろな理由で届かないものです。転居、宛名不明、受取人不在。誰かが止めたと決めるのは早いでしょう」
「決めつけてはいません。ただ、止められた可能性を確認したい」
「そのために、十年前の人間を疑うんですか」
「疑っているのではなく、確かめています」
「言葉を変えても、されたことは同じです。人の過去に入り、書類をめくり、黙っている理由まで求める。確かめるという言葉は、たいへん便利ですね」
妙子の声は穏やかだった。だからこそ、言葉の奥にある拒絶がはっきり伝わった。
私は一度、視線を落とした。
彼女の言うことにも一理あった。私はこの町に越してきたばかりで、三枝透の顔すら知らない。高瀬晴臣とは一度も会っていない。その二人の間にあったものを、古い紙と他人の記憶から勝手に並べ替えている。
それでも、封書を見なかったことにはできなかった。
「私は、誰かを裁きたいわけではありません」
「では、何がしたいんですか」
「届かなかったものが、なぜ届かなかったのか知りたい」
「知ったら、何かが戻ると思いますか」
「戻らないものがあることは分かっています」
「分かっている人の顔ではありませんね」
「そうかもしれません」
私は封筒へ手を添えた。
「それでも、知らないままにしておくと、戻らないものが最初から存在しなかったことにされる気がするんです。三枝さんが失踪した。高瀬さんは何も話さなかった。郵便の記録には空白がある。名簿の日付は直されている。全部、別々のこととして扱えば、どれも小さな違和感です。でも、同じ人間の不在に向かって並んでいる」
妙子は黙って聞いていた。
「記録は、誰かを救うとは限りません。けれど、記録が消えれば、救われなかった人がいたことさえ分からなくなる。私はそこだけを確かめたいんです」
「三枝さんは、そういう人でした」
妙子が、初めて自分からその名を口にした。
「小さなずれを放っておけない人でした。誰かの住所が違っている。郵便の束が一つ多い。名簿の名前が、前の頁と違う。そういうものを見つけると、すぐには誰にも言わない。まず、自分の目で何度も確かめる。それから、相手が逃げられるような聞き方をする人でした」
「穏やかな人だったんですね」
「穏やかでした。ただ、穏やかな人ほど、引かないことがあります」
妙子は湯呑みを持ち上げた。自分の分ではない器を、両手で包むようにしている。
「三枝さんは、町の郵便が一度別の手を通っていると言っていました。白鷺荘の住人宛ての郵便だけ、配達に回る前に選別されている。誰が何を受け取ったかを、誰かが見ている。そう言っていました」
「誰かに相談したんですか」
「高瀬さんに」
「なぜ高瀬さんへ?」
「高瀬さんは、転居や郵便の手続きに詳しかったからでしょう。それに、紙を捨てない。三枝さんは、そういうところを見ていたんだと思います」
「高瀬さんは、何と答えたんですか」
「何も。少なくとも、私の前では」
「妙子さんの前では、ですか」
「二人きりで話すこともありましたから」
「失踪の前夜も?」
妙子は湯呑みを置いた。
陶器が机に触れ、乾いた音を立てる。
「その夜のことは、もう話したくありません」
「話したくないのと、覚えていないのは違います」
「違うでしょうね」
「では、覚えている」
「覚えていても、話さないことはあります」
「その沈黙で、誰かが困るとしても?」
妙子の顔から、ほとんど表情が消えた。
「あなたは、若いから分からないのかもしれませんね。人は、正しいことをすれば必ず誰かを救えるわけではないんです。三枝さんの話を警察へ届ければ、高瀬さんは疑われる。高瀬さんが何も知らなければ、ただ巻き込まれる。もし何か知っていたとしても、彼が話せば、その言葉を受け取った人たちが次々に傷つく。家族、仕事、住む場所。町の人間は、誰か一人の告発だけで生活の形を変えられてしまう」
「だから、黙った」
「そうです」
「それで、何が守られたんですか」
妙子は答えなかった。
「白鷺荘の暮らしですか。高瀬さんですか。自分が管理人として何も知らなかったことですか」
「片岡さん」
妙子がしずえを見た。
しずえは机の上の名簿写しを見つめたまま、眼鏡を外していた。布でレンズを拭きながら、低い声で言う。
「妙子さん。あんたが守ろうとしたものを、今ここで決める必要はないよ。ただ、守ったつもりで残した傷があるなら、その傷まで沈黙で覆ってはいけない」
「私は、誰も守っていません」
「それなら、なぜ十年も覚えているんだい」
妙子の手が震えた。わずかな震えだったが、湯呑みの中の液面が揺れた。
「忘れられなかったからです」
「忘れなかったのではなく、忘れられなかった」
「同じでしょう」
「違うよ。自分で残すのと、残ってしまうのは違う」
しずえは眼鏡をかけ直した。
「記録も同じだ。残したものと、残ってしまったものは違う。名簿の空欄も、郵便の保留も、誰かが意図して残したのか、消しきれずに残ったのか。そこを見分けないと、また別の嘘を作ることになる」
妙子は長い間、黙っていた。
やがて、机の脇に置かれた古い管理台帳へ手を伸ばした。表紙は灰色に変色し、角が擦れて丸くなっている。彼女は開かず、表紙の端だけを指で揃えた。
「三枝さんは、失踪する二日前に、鍵を一つ返しました」
「部屋の鍵ですか」
「予備の鍵です。けれど、三枝さんの部屋のものではありませんでした」
「どの部屋の鍵ですか」
「高瀬さんの部屋に似ていました」
「似ていた?」
「同じ建物の鍵は、形がほとんど同じです。ただ、山が一つ違っていた。三枝さんは、これは高瀬さんの部屋には合わないと言っていました」
「では、何の鍵だったんですか」
「分かりません」
「その鍵は、今もありますか」
妙子は鍵束を見た。
たくさんの鍵の中から、錆びた短い一本を抜き取る。頭には白い札が付いていたが、何も書かれていない。
「これです」
私は手を伸ばしかけた。
妙子は渡さず、掌の中で鍵を包んだ。
「共用部か、物置か、郵便受けの裏側か。古い建物には、住人が知らない扉がいくつもあります。管理人でも、全部を把握しているわけではありません」

「三枝さんは、知っていた」
「知っていたのでしょうね」
「高瀬さんも?」
「さあ」
「妙子さんは、失踪当夜にその鍵を使った人を見ていませんか」
「見ていません」
「鍵が戻される音は?」
妙子は顔を上げた。
「音?」
「鍵束を持つ人なら、歩けば音がする。失踪当夜、誰かが裏口から入った、あるいは出た。金属の触れ合う音を聞いていませんか」
妙子はすぐには答えなかった。
その沈黙の中で、外の鉄板に雨が落ちる。湿った木の隙間を風が抜け、どこか遠くでラジオの音がした。古い歌の旋律が一節だけ聞こえ、すぐに途切れる。
「聞きました」
妙子は言った。
「鍵の音は、聞きました」
「誰のものか分かりますか」
「分かりません」
「でも、聞いた」
「はい」
「何時頃ですか」
「夜の十時前だったと思います」
「三枝さんが九時過ぎに戻ってきたあと」
「そうです」
「その後、誰かが出て行った」
「そうかもしれません」
「妙子さん」
「私は、音しか聞いていません。人の姿は見ていない。だから、誰が出て行ったかは知りません」
「それでも、三枝さんはその夜から戻らなかった」
「そうです」
私は、封筒の中で薄い紙が動く音を聞いた気がした。
「その夜、高瀬さんはいましたか」
妙子は目を伏せた。
「覚えていません」
また同じ答えだった。
けれど、今度はその言葉の前に、妙子の指が机を二度叩いた。忘れている人間の動きではない。記憶の中にあるものを、口に出してよいか迷っている動きだった。
「では、質問を変えます」
私は声を落とした。
「高瀬さんは、三枝さんから封書を受け取ったことがありますか」
妙子の指が止まった。
湯呑みから立っていた湯気は、もう消えていた。
「あります」
妙子は言った。
「三枝さんが、失踪する少し前に、高瀬さんへ封書を渡しました」
「差出人は三枝透」
「そうだったと思います」
「宛名は高瀬晴臣」
「はい」
「その封書を、高瀬さんは部屋へ持っていった」
「ええ」
「中身を見たかどうかは?」
「分かりません」
「妙子さんは、見ていたんですね」
「見ていました。見ていたけれど、見なかったことにしました」
「なぜですか」
「高瀬さんに頼まれたからです」
私は息を吸った。
「何を?」
「封書のことを、誰にも話さないでほしいと」
「高瀬さんが?」
「いえ」
妙子は、私を見た。
「三枝さんが、そう言いました」
その声は小さかったが、部屋の隅まで届いた。
「三枝さんは、私に言ったんです。『もし誰かに聞かれても、まだ渡っていないと言ってください』と」
「誰かに聞かれても、というのは」
「名前は言いませんでした。ただ、見られている気がすると。自分の部屋に届く郵便が、配達される前に一度、別の手を通っている。転送先も、記録も、誰かが見ている。そう言っていました」
「それを高瀬さんに託した」
「高瀬さんなら、紙を処分しないと思ったのでしょう」
「だから、高瀬さんは黙った」
「分かりません」
「妙子さんは、そう思っている」
「思うことと、知っていることは違います」
「では、知っていることを教えてください」
妙子は鍵束を握り直した。錆びた鍵が掌の中で擦れる。
「三枝さんは、自分がいなくなる可能性を考えていました」
「自分で消えるつもりだった?」
「そうは言っていません」
「誰かに消されると思っていた?」
妙子は答えなかった。
「失踪した夜、白鷺荘の裏口が開いていました。旧桜公園へ抜ける道が一番近い。三枝さんは、そこをよく使っていた」
「誰かと一緒でしたか」
「一人に見えました」
「見えた、ということは」
「雨が降っていました。街灯も切れていた。人影の形しか分かりません」
「それでも、三枝さんだと思った」
「歩き方で分かりました。紙を持っているときの歩き方でした」
私は、旧桜公園のベンチ三を思い出した。
そこに残されていた紙片。住民台帳の書き換え。白鷺荘の郵便の選別。そして、末尾に書かれた「遅れた」の二文字。
「三枝さんは、公園に紙を隠したんでしょうか」
妙子は私を見なかった。
「知りません」
「でも、よく使っていた」
「ベンチに座って、人の流れを見ていました」
「誰かを待っていた?」
「待っていたのか、待たせていたのか。三枝さんは、そういうことをすぐには決めない人でした」
「決めないまま、失踪した」
「そうです」
その短い返事が、妙子の中に残った十年を一気に覗かせた。
私は立ち上がった。
「今日は、ありがとうございました」
「もう帰るんですか」
「これ以上、聞いても同じところを回るだけだと思います」
「高瀬さんの転居先を知りたいなら、片岡さんに尋ねるといいでしょう」
「妙子さんは知っているんですね」
妙子は答える前に、一度だけ目を閉じた。
「知っているかもしれません」
それだけ言った。
白鷺荘を出ると、風が建物の骨組みを通り抜けてきた。背中を押す風ではなかった。中に残った空気を、隅々まで持ち去ろうとする風だった。濡れた木の匂いが薄まり、代わりに鉄板の錆びた匂いが鼻につく。
しずえと並んで歩き出す。
「妙子さんは、封書を見たと言いました」
「そうだね」
「私の手元にあるものと、同じ可能性があります」
「可能性はある」
「それなら、三枝さんは失踪前に、同じ手紙を高瀬さんへ渡した」
「そうかもしれない」
「では、なぜ十年後に私の郵便受けへ入ったんでしょう」
しずえはすぐには答えなかった。
旧区画の道は、雨水を含んで暗く光っていた。路地の端には古い植木鉢が積まれ、空き家の軒下では、誰も使わない傘が濡れたまま立てかけられている。新興住宅地へ向かうにつれて、建物は新しくなり、フェンスは白くなった。それでも靴底には、旧区画の泥が残っている。
「宛先が、ずれたんだよ」
しずえが言った。
「郵便局で、住所がずれた?」
「住所だけではない。受け取るべき人と、受け取らなかった人の間でね」
「それは、どういう意味ですか」
「手紙は高瀬さんへ渡った。けれど、高瀬さんは受け取ったことを誰にも言わなかった。三枝さんは消えた。妙子さんも黙った。そのあと、手紙は本来の宛先を失ったまま、記録の空白へ入った。誰かが隠したのか、誰かが保管したのか、それはまだ分からない」
「でも、最終的に私の家へ届いた」
「高瀬さんが住んでいた場所へ、もう一度戻った」
「戻った?」
「同じ家ではないけれど、住所の流れは続いている。転居しても、郵便は前の住所を覚えていることがある。人間より長くね」
私は返事をしなかった。
しずえは歩きながら、店の前の古いポストを見た。塗装が剥がれ、投入口の周囲だけが指の脂で黒ずんでいる。
「手紙は、届いた場所で終わるんじゃない。受け取られなかった場所から、次の誰かへ移ることがある」
「それは、正しい届き方ではありません」
「そうだね。だから、あんたは困っている」
「困っているというより、落ち着かないんです」
「同じことだよ」
しずえは鍵を開け、古書店の扉を押した。
店内は暗く、外から差し込む夕暮れの光だけが棚の背表紙を細く照らしていた。彼女は照明を点けず、帳場の引き出しから索引カードを取り出した。表紙を上にして、私の前へ置く。
カードには、高瀬晴臣の名前と、十年前の転居先が記されていた。さらにその先の住所が、別のカードに残っている。日付は、三枝透の失踪から一年後だった。
「高瀬さんは、二度引っ越している」
「逃げたんでしょうか」
「それだけでは言えないね。守ろうとしたのかもしれない。逃げたのかもしれない。人は、同じ動きで両方をすることがある」
カードの角には、赤鉛筆で小さな印が付いていた。仕分け印に似た形だが、中央の数字は違う。
「この印は?」
「高瀬さんが自分で付けたものだよ」
「何のために」
「郵便の経路を追うためだろうね。どこへ送ったか、いつ届いたか。あの人は、三枝さんと同じで、経路を気にする人だった」
私は封書を取り出した。
「妙子さんが見た封書と、これが同じものか確かめたい」
「封を切れば分かる」
「でも、宛名は私ではありません」
「だから、まだ切らないんだね」
「はい」
「その慎重さは正しいよ。ただ、正しさは時間を待ってくれないこともある」
私は封筒の裏を見た。黒ずんだ仕分け印。中央の数字。端に残る細い筋。十年前、誰かの手から別の手へ移された紙。その途中で、経路が切れている。
「明日、高瀬さんに会います」
「会えると思うかい」
「分かりません。でも、行きます」
「封書を渡すために?」
「それだけではありません。あの人が何を受け取らなかったのか、確かめるためです」
しずえは、索引カードを私のほうへ押し出した。
「住所は持っていきなさい。古いものだけれど、何もないよりはいい」
「返さなくていいんですか」
「記録は、しまっておくためだけにあるんじゃない。必要な人のところへ移ることで、次の記録になる」
私はカードを手帳に挟んだ。封書も、その隣へ置く。紙と紙が重なり、指先に異なる厚みが伝わった。
外で、郵便受けの蓋が閉じる音がした。
ぱたん、と軽く、乾いた音だった。
私はその音を聞きながら、妙子の言葉を反芻した。
二つの湯呑み。 返されなかった鍵。 裏口から出て行った人影。 そして、宛名を持ったまま、十年もの間、受け取られなかった封書。
店を出ると、空はすっかり暗くなっていた。新興住宅地の白いフェンスの向こうでは、夕食の支度をする家々の明かりが点いている。どの家にも誰かがいて、誰かの帰りを待っている。郵便受けには、明日も新しい紙が届く。広告、請求書、通知、名前の書かれた封筒。
その当たり前の流れの中で、一通だけが、十年間、場所を失っていた。
私は胸ポケットの上から、手紙の硬さを確かめた。
まだ開けていない。
けれど、もう手紙の外側だけを見ているわけではなかった。封書の向こうには、誰かが待った時間と、誰かが閉じた口と、誰かが整えた記録がある。そのすべてが、紙の薄さの中に折り畳まれている。
家へ着くと、私は郵便受けの前で一拍置いた。
蓋を開ける。
中には、何も入っていなかった。
それでも、蓋を閉じる音は、昨日までとは違って聞こえた。
誰かが何かを受け取らなかったあとにも、郵便受けは同じように閉じる。音だけは、何も知らない顔で。
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