7話 保管棚の奥

牧野誠二と初めて顔を合わせたのは、片岡しずえの古書店だった。

紹介されたとき、私は正直なところ、元刑事という肩書きから受ける印象より、目の前の男の静けさに戸惑った。分厚い手帳を小脇に抱え、椅子に腰を下ろすときも、立ち上がるときも、無駄な動きが一切ない。しずえが事情を話す間、牧野はほとんど相槌を打たず、ただ私の持ってきた封書と、旧桜公園で見つけた紙片を、机の上に並べたまま黙って見つめていた。

「これを、十年前に見せてほしかったな」

牧野が最初に発した言葉は、それだけだった。皮肉でも非難でもない。ただ、事実を確認するような口調だった。

「当時、担当されていたんですよね」

「担当というより、途中で外された、と言うほうが正しい」

牧野は封書を指先で押さえ、仕分け印の部分をしばらく見つめた。

「三枝透の失踪は、当時から妙な扱いを受けていた。届け出はすぐに出ていた。聞き込みも、通り一遍にはやった。だが、上のほうから、あまり時間をかけるなという空気があった。若い女房子どもがいるわけでもない、身元不明の言いがかりでもない。ただの、ひとり暮らしの男の失踪だ、とね」

「それだけの理由で、打ち切られたんですか」

「理由なんて、後からいくらでも付けられる。人手が足りない、緊急性がない、家出の可能性がある。全部、嘘じゃない。だが、全部を並べたところで、なぜあれほど早く手を引かせたがったのか、俺にはずっと分からなかった」

牧野はそこで初めて、私の目をまっすぐに見た。

「あんたが今日、俺をここに呼んだのは、その理由の続きを見せるためだろう」

私は頷き、旧桜公園で見つけた紙片を差し出した。牧野はそれを両手で持ち、老眼鏡越しに何度も読み返した。読み終えると、しばらく何も言わずに、紙の端を指の腹でなぞっていた。

「これは、証拠として扱われるべきものだ」

牧野は低く言った。

「だが、証拠というのは、それだけでは動かない。誰が、いつ、どこで、何を書き換えたのか。その経路を裏付けるものがなければ、これは一枚の紙切れのままだ」

「だから、郵便局へ戻る必要がある」

私が言うと、牧野は初めて、わずかに口の端を動かした。笑ったのかどうかは、判断がつかなかった。

「あんたは、探偵ごっこが好きなたちか」

「好きというより、放っておけないだけです」

「それを、探偵ごっこと言うんだよ」

牧野は立ち上がり、コートを羽織った。しずえも黙って支度を始める。三人でみどり郵便局へ向かう道すがら、牧野はほとんど口を開かなかったが、その沈黙は、桑原妙子の沈黙とも、高瀬晴臣の沈黙とも違っていた。答えを避けるための沈黙ではなく、答えに至るまでの手順を、頭の中で一つずつ組み立てているような沈黙だった。

雨は上がっていたが、旧区画の路面にはまだ薄い湿り気が残っていた。局の入口に立つと、乾いた紙と古い木の匂いが混じって、鼻の奥に沈んだ。窓口の森下は、私たちの顔を見ると、一瞬だけ視線を彷徨わせたが、何も言わずに保管棚のある奥へ案内してくれた。前回よりも、その足取りにためらいが少なかった。

奥の保管棚は、前に来たときよりもずっと無口に見えた。しずえが指先で棚板の端をなぞる。牧野は右上に寄せられた箱の並びを見ただけで、眉をわずかに動かした。

「並びが違う」

彼はそれだけ言った。言葉は短かったが、私には十分だった。前回訪れたとき、この棚の並び順を、私は自分の手帳に写し取っていた。年度順、記号順。それが、いま目の前にある並びとは、微妙にずれている。

「誰かが、また触ったんですね」

「触ったというより、戻したんだろう」

牧野は箱の陰に手を入れ、慎重に一冊を引き出した。

「借りたものは、戻さなければならない。だが、戻し方が雑だと、こういう跡が残る。棚というのは、正直なものだ。人間よりずっと」

最下段の一角に、後から差し込まれたとしか思えない仕分け票が一枚だけ浮いていた。紙の黄ばみが周囲とわずかに違う。角の擦れも、隣の束と合っていない。私はそれを見た瞬間、喉の奥が乾くのを感じた。これまで何度も繰り返してきた感覚だったが、今回はそれが、今までよりずっと近くまで迫ってきているという確信を伴っていた。

しずえは眼鏡を外して拭き、もう一度それを見た。

「これは、棚に眠っていたんじゃないね」

そう呟いた声には、誰かを責める響きではなく、古い帳面を撫でるような慎重さだけがあった。

「眠っていたんじゃないというのは」

私が聞くと、しずえは票の端を指先で示した。

「眠っていた紙は、周りの紙と同じ速さで年を取る。これは、途中で目を覚まされて、また寝かしつけられたような黄ばみ方をしている。誰かが一度これを外へ持ち出して、また戻した。持ち出していた間だけ、この紙は違う場所の空気を吸っていたんだよ」

牧野は票の脇に残る押印を見て、黙ったまま息を止めた。十年前、捜査資料をまとめ直したときの手触りが、まだ指に残っているのだとでもいうように、彼の指先はしばらくその場所から動かなかった。

「この押印、覚えがある」

牧野が、ようやく口を開いた。

「当時、区域担当が変わる直前に、こういう形の印を見た記憶がある。一時的に使われて、すぐに廃止された印だ。理由は聞かされなかった。ただ、上から『古い印は処分するように』という通達が来ただけだ」

「処分するように、というのは」

「使うのをやめろ、ということだよ。だが、廃止された印が、後になってまた同じ場所に押されている。これは、正規の手続きで押されたものじゃない」

私はその言葉の重みを、しばらく飲み込めずにいた。廃止されたはずの印が、後から使われている。それはつまり、誰かが正規の手順の外側で、この紙に触れたということだ。

私はその沈黙の重さが、正しい記録を守れなかった側の痛みに近いことを、初めてはっきりと感じた。牧野の横顔には、責任を取り損ねた者だけが持つ、乾いた疲労が浮かんでいた。彼は今、十年前の自分の判断が、正しかったかどうかを、もう一度確かめようとしている。

票の束を一枚ずつめくると、同じ時期に処理されたはずの紙だけが、どういうわけか一段薄い。そこにあったはずの転送の流れが、途中で滑らかに消えていた。まるで、川の水が急に地中へ潜り込むように、痕跡だけを残して姿を消している。

「止めたんじゃない」

私は、仕分け票の端を見つめたまま言った。

「途中で、別の流れに乗せ替えたんだと思います」

牧野は返事をしなかった。だが、その沈黙は否定ではなかった。彼は帳面を持ったまま、もう一度棚の並びを見直し、廃止された印の押された票を、他の記録と並べ直した。その手つきには、十年前にはできなかった何かを、今ようやく行っているという静かな気迫があった。

局内の蛍光灯が微かに鳴っている。棚の背後で、古い紙が擦れる音がした気がしたが、振り向いても誰もいない。しずえはただ、紙面の端の薄れ方を見ていた。

「悠真さん」

牧野が、初めて私の名を呼んだ。

「あんたが最初に見つけたこの封書と、この仕分け票が同じ経路を通ったものだとしたら、次にすべきことは分かるか」

「押印を使った人間を、当時の担当区域から絞り込む」

「それだけじゃない」

牧野は首を振った。

「押印は道具に過ぎない。道具を使った人間が、なぜそれを使う権限を持っていたのか。誰が、その人間にその権限を与えていたのか。そこまで辿らなければ、この紙は、また眠らされるだけだ」

私は封書を取り出し、仕分け印の位置を、廃止された印のそれと重ねてみた。角度も、大きさも、寸分違わず一致していた。同じ手が、同じ道具を使って、同じ時期に、二つの紙に触れている。

窓の外では、雨上がりの旧区画の空が、少しずつ暮れていくところだった。局の緑の庇から、最後の雫がひとつ落ちる音がした。私たちはまだ、犯人の名前にたどり着いてはいなかった。だが、記録という冷たい紙の重なりの奥に、確かに人の手が動いた跡が残っている。それだけは、もう疑いようがなかった。

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