第6話 旧桜公園のベンチ三

名簿は、思っていたよりも重かった。
片岡しずえの古書店の奥、普段は客の目に触れない書棚の裏側から、彼女はそれを両手で抱えるようにして運んできた。表紙は灰色の布張りで、角がひしゃげ、綴じ糸の一部がほつれて飛び出している。私が受け取ると、紙の重みよりも先に、埃と黴の混じった匂いが鼻の奥まで届いた。古い米蔵か、開かずの物置か、そういう場所に長く置かれていたものの匂いだった。
「町内自治会名簿だよ」
しずえは私の向かいに座り、眼鏡を外して布で拭いた。
「十年分より前のものは、たいてい捨てられる。名簿というのは、新しいものに更新されるたびに、古いものが要らなくなる建前になっているからね。だが、要らないと決めるのは人で、紙自身が要らないと言うわけじゃない」
「これは、捨てられなかった」
「捨てる手間を惜しんだ人がいたか、捨ててはいけないと思った人がいたか。どちらかだろうね」
私は表紙をめくった。紙は湿気を吸って波打ち、ページの端には誰のものとも分からない指の脂が薄く染みている。何十年分もの人の手が、この紙を同じように撫でてきたのだと分かった。
旧桜公園の欄を見つけるまでに、少し時間がかかった。町の区割りは今と違う書き方をされていて、通りの名前も一部が読み替えを必要とした。しずえは私が指でなぞる場所を黙って見ていたが、目当ての行に辿り着くと、初めて小さく息を吐いた。
「ここだね」
住民名と転居年月が、細い万年筆の字で記されている。三枝透の名前は、この欄には直接現れなかった。だが、その数行上に、白鷺荘の部屋番号と並んで「転出」の二文字があり、日付だけが赤いインクで上書きされていた。赤いインクは、他の記載とあきらかに筆記具が違う。
「この赤字は、後から書き加えられたものですね」
「そうだね。しかも、日付の下二桁だけが直されている」
「なぜ下二桁だけ」
「下二桁だけ変えれば、月は変わらない。月が変わらなければ、その月の他の記録と照らし合わせても、大きな矛盾は生まれない。日にちだけを数日ずらす。それが、いちばん気づかれにくい嘘のつき方だよ」
しずえの声には、感心とも呆れともつかない響きがあった。
「三枝さんが失踪した本当の日付と、名簿に記された転出の日付が、数日違う。あなたはそう考えているんですか」
「私はまだ何も考えていないよ。あんたが、そう読んだだけだ」
私は封書を取り出した。中身はまだ開けていない。だが、文面のごく一部――封筒の外側からでも透けて見える程度に薄い紙の上に書かれた記述――は、何度も見返して、ほとんど覚えてしまっていた。数字と、短い記号の羅列。町の住所表記とも、電話番号とも違う並びだった。
「これを見てください」
しずえは老眼鏡をかけ直し、私が指した数字を見た。長い沈黙のあと、彼女は名簿の別のページを開いた。そこには、町内の公共施設や公園の維持管理を担当する班の名簿があり、旧桜公園の欄外に、ベンチの配置図らしき簡単な線画が添えられていた。線画の中には、ベンチの位置を示す番号がいくつか振られている。
「三、四、五とある。三枝さんの書いた数字は、この番号と並びが同じだね」
「住所じゃない」
私はそう呟いた。
「場所そのものを指している。位置と、たぶん時間も」
「そうかもしれない」
しずえは名簿を静かに閉じた。それから、私の顔を見て言った。
「行くのかい」
「行きます」
「暗くなる前に戻っておいで。あの公園は、夜になると誰も通らなくなる」
その言葉には、単なる助言以上の重みがあった。私は礼を言って古書店を出た。
旧桜公園は、新興住宅地の白いフェンスが途切れる場所からさらに歩いた先にあった。周囲の家々は古く、庭木が伸び放題になっているところも多い。公園そのものも、長く手入れされた様子がなかった。滑り台の色は褪せ、砂場は雑草に半分覆われている。夕方の光が、錆びたブランコの鎖に細く反射していた。

樹木の影は思ったより濃く、昼間だというのに公園の奥は薄暗い。人の気配はまったくなかった。子どもの声も、犬の散歩をする人の姿もない。この町の新しい区画が、絶えず誰かの生活の音で満ちているのとは対照的だった。ここだけ、時間の流れ方が違って感じられる。
ベンチは三つ、等間隔に並んでいた。塗装はどれも剥がれ、木部がむき出しになっている。私は名簿の線画を思い出しながら、番号順に近づいた。一、二、三。三番目のベンチは、最も奥の、樹の影がいちばん濃い場所にあった。
しゃがみ込み、座面の裏側に手を差し入れる。木材の粗い感触が、指の腹に引っかかった。何もない。念のため、脚の付け根の部分まで探る。
指先に、何かが触れた。
紙だった。湿って柔らかくなった紙が、木材の裏に押し込まれるように貼りついている。粘着テープの跡が、周囲に薄く残っていた。誰かが意図して、そこに隠したのだと分かった。偶然そこに紙が挟まるような場所ではない。
私は息を止めて、それを爪の先で慎重に剥がした。
紙は思ったより薄く、湿気で端がふやけていた。開くときに破れそうになり、私は両手の指先だけを使って、できるだけそっと広げた。
文字が、そこにあった。
万年筆の細い線。角ばった筆致。何度も見返した封書の文面と、同じ手だと分かった。
三枝透の字だった。
短い文章だった。だが、短いからこそ、そこには言い訳の入り込む余地がなかった。
――白鷺荘の転出記録、七月分の一部が書き換えられている。郵便の転送先も同様。誰の手によるものかは分かっているが、まだ確証がない。もし私の身に何かあれば、この場所を見た者が続きを追ってほしい。
それだけだった。日付はない。宛名もない。ただ、確信と、確信を裏付ける証拠がまだ揃っていないという、もどかしさだけが行間に滲んでいた。
私はしばらく、その紙を見つめたまま動けなかった。
ベンチの木目が、急に生々しく目に映った。ここは誰かと落ち合うための場所ではなかった。誰かに、渡すはずだったものを渡せなかった場所だ。三枝透は、この紙を書いた。そして、この場所に隠した。おそらく、直接誰かに手渡すことが、当時はもう危険だったからだ。
紙を守るように隠すという行為そのものが、彼が何かを恐れていたことの証だった。恐れながらも、消すことは選ばなかった。消せば楽になれたはずなのに、彼はそれをしなかった。
その執着が、十年の間、木材の裏でじっと湿気に耐え続けていたのだと思うと、喉の奥が乾いた。
振り返ると、少し離れた場所にしずえが立っていた。いつからそこにいたのか、私は気づかなかった。彼女は近づいてこず、私が紙をポケットにしまうのを、ただ黙って見ていた。
「見つけたんだね」
「はい」
「読んだのかい」
「読みました」
しずえは頷いた。それ以上、何も尋ねなかった。名簿の赤い訂正について問い詰めたときのような追及の色は、その顔になかった。ただ、長い時間をかけて誰かの沈黙に付き合ってきた人間だけが持つ、静かな重さがあった。
「言わなくていいことは、言わないでいい」
しずえはそう言った。
「だが、見なかったことにはしないでおくれ」
その言葉の意味を、私はすぐには言葉にできなかった。ただ、ポケットの中の紙の湿り気が、まだ指先に残っているような気がした。三枝透が最後に隠した言葉は、十年もの間、誰にも読まれないまま、この公園の片隅で待ち続けていた。
夕陽が、錆びたベンチの塗装の剥がれた部分だけを、赤く照らしていた。樹の影が伸び、やがて公園全体を覆っていく。私たちはそれ以上そこに留まらず、来た道を戻った。
帰り道、しずえは一度だけ振り返り、公園の奥にある三番目のベンチを見た。何も言わなかったが、その横顔には、十年前に取り戻せなかった何かへの、静かな痛みが浮かんでいるように見えた。
私は、胸ポケットの封書と、今しがた見つけた紙片の両方を確かめた。二つの紙は、まだ互いの意味を完全には結びつけていない。だが、確実に同じ一本の糸で繋がっている。その糸の先に、高瀬晴臣がいる。
家路につく道すがら、私は何度も、指先に残った紙の湿り気を思い返していた。それは、十年前のある夜の湿度そのもののように、私の皮膚の記憶に、いつまでも残り続けそうだった。
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