5話 白鷺荘の湯呑み

白鷺荘へ向かう途中、私は何度も足を止めそうになった。

旧区画の道は、みどり郵便局からさらに奥へ続いている。雨上がりの舗装はまだ乾ききらず、靴底が地面を踏むたび、薄い水の膜がきしむような音を立てた。商店街の軒先には、閉じたシャッターが並んでいる。店名の文字が剥げ落ちた看板、色の抜けた自動販売機、誰も使っていない傘立て。新興住宅地の白いフェンスが、生活を新しく見せるために整えられたものだとすれば、こちらに残るものは、生活が終わったあとも撤去されずにいるものだった。

しずえは私の少し前を歩いていた。

古い帳面を抱えているわけでもないのに、彼女の歩き方には紙束を運ぶ人間の慎重さがあった。水たまりを避けるときも、足元だけでなく、両脇の塀や軒先まで見ている。何かを探しているのかもしれない。あるいは、何かを見つけないようにしているのかもしれなかった。

「桑原さんは、今も白鷺荘に住んでいるんですか」

「住んではいないよ。取り壊しが決まってから、管理の名目だけで通っている。鍵を返す先がなくなった人は、建物がなくなるまで鍵を持ち続けるものなんだ」

「管理人だったのは、失踪当時ですか」

しずえはすぐに答えなかった。横断歩道の信号が青になり、私たちは濡れた白線を渡った。対向車が一台、道路脇の水を跳ね上げていく。泥水は歩道まで届かなかったが、風に混じった湿った匂いが一瞬だけこちらへ流れてきた。

「そうだね。三枝さんがいなくなった頃も、妙子さんは白鷺荘の管理人だった」

「それなら、当時の出入りをかなり知っているはずです」

「管理人だからといって、住人のすべてを知っているわけじゃない。知っていても、知ったことにしてはいけない場合もある」

「それは、管理人の義務ですか」

「義務というより、暮らしの間に立つ者の習慣だろうね。隣の部屋から夜中に咳が聞こえても、すぐに扉を叩く人ばかりではない。何日も郵便が溜まっていても、事情があるのだろうと考えて、見なかったことにする。そういう小さな遠慮が、家を家らしく保つこともある」

「でも、見なかったことにした結果、誰かが消えることもある」

しずえは歩みを緩めた。

「そうだね」

それだけ言った。

しずえの横顔には、郵便局で見たときとは違う硬さがあった。町の過去を語るときの彼女は、言葉を選ぶというより、言葉が触れてはいけない場所を確かめてから口にしている。

白鷺荘は、旧区画のさらに奥にあった。

前に柵の外から見たときより、建物は小さく見えた。解体の準備が進み、二階の窓枠がいくつか外されていた。壁板の一部も剥がされ、内部の柱がむき出しになっている。雨を含んだ木は黒く、ところどころ白いカビが浮いていた。

規制テープの隙間から、桑原妙子が出てきた。

薄い灰色の上着を羽織り、片手に鍵束を持っている。鍵は十本以上あり、歩くたびに小さく触れ合った。その音は鈴のように明るくはなく、乾いた金属が互いの輪郭を確かめ合う音だった。

「あら、片岡さん」

妙子はしずえに気づくと、わずかに笑った。それから私へ視線を移し、私の靴先と胸ポケットのあたりを順番に見た。

「こちらの方は?」

「高瀬悠真さん。今度、こちらの町に越してきた人だよ」

「高瀬……」

妙子の声が、ほんの少しだけ遅れた。

「高瀬晴臣さんとは、ご親戚かしら」

「いいえ。前の入居者です」

「そう」

妙子はそれ以上言わなかった。鍵束を握る指が、一本の鍵の頭を撫でている。私はその鍵だけが、他のものより新しいことに気づいた。金属の角がまだ丸くなっていない。使われていないのか、最近になって作られたものなのかは分からない。

「中へ入っても大丈夫ですか」

「解体前だから、足元には気をつけてくださいね。床が抜けるほどではないと思いますけれど、何かあっても責任は持てませんから」

「三枝透さんのことを伺いたくて来ました」

妙子の笑みが薄くなった。

「そういうお話でしたら、立ち話ではなんですから」

彼女は建物の脇にある仮設の扉を開けた。鍵が回るまでに二度、金属の内部で引っかかった。妙子は急がず、鍵を少し戻してから、もう一度回した。扉が開くと、湿った木の匂いと、古い畳が腐りかけた匂いが流れてきた。

玄関には靴がなかった。

それなのに、上がり框の端には細かな砂が残っていた。誰かが最近ここへ入ったのだろう。妙子はその砂を見ても、掃こうとはしなかった。

「こちらです」

通されたのは、かつて管理人室として使われていた小さな部屋だった。壁際には空になった棚があり、床には段ボール箱が二つ置かれている。窓の外には、解体業者が置いた鉄板が見えた。雨水が溜まり、空の色を鈍く映している。

妙子は部屋の隅にあった小さな電気ポットへ水を入れた。

「お茶でよろしいですか」

「お気遣いなく」

「こういう話は、喉が乾きますから」

断る理由がなく、私は頷いた。

妙子は湯呑みを二つ、棚の奥から取り出した。どちらも白地に細い青い線が入っている。古いものらしく、縁の一部が欠けていた。彼女は布巾で内側を拭き、私としずえの前に一つずつ置いた。自分の分は出さなかった。

湯が沸くまでの間、妙子は机の上を片づけ始めた。そこには何も置かれていなかったのに、布巾で何度も表面を撫でる。角を揃え、埃のない場所をさらに整える。その動きは、晴臣の部屋に残っていた書類の束を思い出させた。

「高瀬さんは、こちらによく来ていました」

妙子は、湯を注ぎながら言った。

「晴臣さんのことですね」

「ええ。三枝さんも、よく来ていました。二人は、仲がよかったのかしらね。少なくとも、顔を合わせることを嫌がっているようには見えませんでした」

「どちらが、どちらを訪ねていたんですか」

「両方です。高瀬さんが三枝さんの部屋へ行くこともあったし、三枝さんが高瀬さんの部屋へ行くこともあった。時間帯はまちまちでしたけれど」

「何を話していたか、聞こえましたか」

「木造ですから、声はよく通りました。でも、話の内容までは聞いていません。聞こえても、聞かなかったことにしていました」

「それでも、何か覚えていることはありませんか」

妙子は湯呑みを私の前へ押し出した。

湯気が細く立ち上がり、部屋の冷えた空気に溶けていく。茶の匂いは薄かった。出がらしに近い味なのかもしれない。私は口をつけず、湯呑みの縁に指を添えた。陶器は思ったより熱く、指先にじんと熱が移った。

「三枝さんは、紙をよく持っていました」

妙子が言った。

「封筒や、名簿の写しのようなものです。部屋へ戻るときも、出てくるときも、必ず何かを揃えて持っていた。角が折れていると、指で直してから歩く人でした」

「記録を調べていたんでしょうか」

「さあ。私は管理人ですから、住人の趣味に口を出す立場ではありません」

「晴臣さんも、同じような紙を?」

「高瀬さんは、紙を持っているというより、紙を受け取る人でした」

「受け取る?」

「三枝さんが何かを渡し、高瀬さんが受け取る。そういう場面は何度か見ました。手紙だったか、帳面の切れ端だったか、そこまでは覚えていません。封筒のように見えることもあったし、折った紙のように見えることもあった」

「その紙を、高瀬さんはどうしていましたか」

妙子は一度、私の顔を見た。それから湯呑みを持ち替えた。自分の分を用意していないのに、空の手を何度も茶碗のように動かしている。

「しまっていたと思います」

「どこへ?」

「それは……」

妙子の声が、そこで止まった。

窓の外から、鉄板の上へ水滴が落ちる音がした。ひとつ、ふたつ。間隔は不規則だったが、妙子の沈黙に合わせているようにも聞こえた。

「古いことですから」

「古いから、ですか」

私が返すと、妙子は顔を上げた。

「古いから、覚え違いも増えます」

「覚え違いではなく、話す順番を選んでいるように見えます」

言ったあと、少し踏み込みすぎたと思った。私は普段、人に直接そういう言い方をしない。問い詰めるより、記録に戻るほうが性に合っている。だが、妙子が湯呑みの縁を何度もなぞる指を見ていると、曖昧さの奥にあるものを放置できなくなった。

「申し訳ありません。疑っているわけでは」

「いいえ。疑われるのは、慣れています」

妙子は穏やかに笑った。

「長く管理人をしていると、何かが起きたときに最初に思い出されるのは、管理人の顔ですから。誰が鍵を持っていたか。誰が出入りを見ていたか。誰が、見ていたのに言わなかったか」

「失踪当夜のことを覚えていますか」

妙子は、今度は答えるまでに長い時間を置いた。

「三枝さんが帰ってきたのは、夜の九時を少し過ぎた頃だったと思います」

「帰ってきた?」

「ええ。白鷺荘の外から、建物の中へ入るところを見ました」

「そのあと、誰かが訪ねてきましたか」

「分かりません」

「高瀬さんは?」

「高瀬さんが来たかどうかは、覚えていません」

答えが早すぎた。

それまで妙子は、曖昧な言葉を選ぶときにも、必ず一拍置いていた。だが高瀬の名前だけは、まるで用意していた返事を取り出したように滑らかだった。

「高瀬さんは、夜遅くに郵便受けを見ていたそうです」

「誰から聞きましたか」

「近所の方から」

「その近所の方は、三枝さんの失踪について何か言っていましたか」

「いいえ。近所の人は、余計なことを言いません」

「妙子さんも、そう考えているんですか」

「管理人は、住人の恥を外へ出す役ではありません」

声が少しだけ低くなった。

「誰かが夜中に出て行った。誰かが誰かの部屋を訪ねた。どこかの部屋で、何かが壊れた音がした。そういうものを全部、外へ向かって話していたら、人はここで暮らせなくなります。暮らしには、知らないふりをすることで保たれるものもあるんです」

「その知らないふりの中で、三枝さんがいなくなったとしても?」

妙子の手が止まった。

「三枝さんが、誰かに連れ去られたとお考えですか」

「まだ何も断定していません。ただ、郵便の記録には空白があり、三枝さんの名前は町の記録から少しずつ抜けている。あなたはその時期、白鷺荘の管理人だった。知っていることを伺いたいだけです」

「知っていることを話すだけなら、簡単です。けれど、知っているつもりだったことまで話し始めると、話はどこまでも膨らんでしまう。あの人はこうだった、あの人は怪しかった、あの夜はこう見えた。そうやって、後から作った形が記憶の上にかぶさっていくんです」

「だから、何も話さないんですか」

「何も話さないとは言っていません」

「では、何を話してくれるんですか」

妙子は湯呑みを両手で包んだ。自分の分ではない、空の湯呑みを。

「三枝さんは、失踪する少し前から、何かを急いでいました。いつものように紙を揃えていましたが、角を直す時間が短くなっていた。歩く速度も少し速かった。高瀬さんが来ると、二人は声を落として話していました。私は聞かなかった。でも、聞かなくても、話がよくないものだということは分かるときがあります」

「よくないもの、とは」

「誰かの生活を壊す話です」

「告発ですか」

妙子は答えなかった。

私は机の上に、白鷺荘の管理台帳の写しを置いた。しずえから借りたものではなく、郵便局へ行く前に自分で作ったメモをもとに、管理会社の資料から拾った住所と日付を並べたものだった。三枝透と高瀬晴臣の部屋番号、転居の時期、郵便の空白が重なる部分に線を引いている。

「ここを見てください。三枝さんが失踪する直前、高瀬さんの部屋へ転送されるはずだった郵便が止まっています。記録では、転送先が空欄になっている。その後、三枝さんの名前が自治会名簿から消えている」

「私は、自治会の名簿を扱っていません」

「でも、白鷺荘の住人台帳は持っていた」

「持っていました」

「では、この欄の訂正を見覚えていますか」

妙子は台帳の写しを見た。

視線が、紙の上をゆっくり移動する。三枝の名前の横に引かれた細い線。訂正印の滲み。転居日として書かれた数字。その数字だけ、他の文字より濃かった。

妙子は、指先で机を二度叩いた。

「これは、私の字ではありません」

「誰の字か分かりますか」

「字を見ただけで、誰が書いたか断定することはできません」

「分かる範囲で構いません」

「……高瀬さんは、数字を書くとき、最後の線を少し長く引く癖がありました。三枝さんは、日付の斜線を細く書く人でした。この訂正は、どちらにも似ていません」

「それなら、誰か別の人が書いた?」

「そういうことになりますね」

妙子は紙から目を離した。

「ただ、記録というものは、誰かが書いたから正しいとは限りません。書かれたものを見た人が、正しいと信じて扱うことで、初めて町の中を動くんです」

「つまり、間違った記録でも、周囲が信じれば事実になる」

「ええ。人がいなくなったあとなら、なおさらです。本人が訂正しに戻ってこられないから」

妙子の声に、初めてはっきりした疲れが混じった。

私は湯呑みに口をつけた。茶は冷めかけていて、舌の奥に薄い苦味が残った。湯呑みの青い線は、一周しているように見えて、よく見ると途中で切れていた。細い線の端と端が、ほんのわずかにずれている。

「この湯呑み、古いものですか」

「ええ。白鷺荘が建った頃からあるものです。正確には、同じ柄のものがいくつかありました」

「三枝さんも使っていた?」

「よく使っていました」

妙子は湯呑みを見た。

「三枝さんは、来ると必ずこの柄を選びました。高瀬さんは別のものを使う人でした。白い無地の湯呑みです。三枝さんが青い線のものを持ち、高瀬さんが無地のものを持つ。そういう組み合わせを、私は何度も見ています」

「失踪当夜も?」

妙子の指が、湯呑みの縁で止まった。

「当夜のことは、よく覚えていません」

「三枝さんが九時過ぎに帰ってきたことは覚えているのに、高瀬さんが来たかどうかは覚えていない。湯呑みの組み合わせも、覚えていない」

「そうです」

「どうしてですか」

「覚えていないからです」

「覚えていない人は、湯呑みの柄を何度も覚えているとは言わないと思います」

部屋の空気が、急に冷えた。

外で風が鳴り、外された窓枠の隙間から土の匂いが入り込んでくる。妙子は私を見なかった。湯呑みを持ち上げ、底を布巾で拭った。そこには何も付いていないのに、何度も、何度も。

「高瀬さんは、封書を受け取りました」

妙子が言った。

声が小さく、私は聞き返しそうになった。

「何を、ですか」

「三枝さんが高瀬さんに渡した封書です。失踪する前の日だったか、その少し前だったか……日付ははっきりしません。ただ、封筒の表に高瀬さんの名前が書かれていた。差出人の欄には、三枝さんの名前があったと思います」

胸ポケットの中で、私の封筒の角が肋骨に触れた。

「その封書を、晴臣さんは受け取った」

「ええ」

「その後、どうしたんですか」

「部屋へ持っていきました」

「開けたんでしょうか」

「それは分かりません」

「妙子さんは見ていたんですか」

「見ていました。見ていたけれど、見なかったことにしました」

その言葉は、これまでの曖昧な返答よりもはっきりしていた。

「なぜですか」

「高瀬さんに、頼まれたからです」

妙子はやっと私を見た。

「何を頼まれたんですか」

「封書のことを、誰にも話さないでほしいと」

「理由は?」

「三枝さんが、そうしてほしいと言ったからです」

私は息を吸った。白鷺荘の湿った空気が、肺の奥まで冷たく入ってきた。

「三枝さんが?」

「ええ。高瀬さんではなく、三枝さんが」

「どういう意味ですか」

「三枝さんは、私に言いました。『もし、誰かに聞かれても、まだ渡っていないと言ってください』と」

妙子の声は、まるで十年前の言葉をそのまま取り出そうとしているようだった。一語ごとに、古い紙の折り目を開くような慎重さがある。

「誰かに聞かれても、というのは、誰のことですか」

「分かりません。三枝さんは、相手の名前を言いませんでした。ただ、見られている気がする、と言っていました。郵便の流れを誰かが見ている。自分の部屋に届くものが、届く前に一度別の手を通っている。そういう話でした」

「それを、晴臣さんに託した?」

「そうです。高瀬さんなら、手紙を処分しないと思ったのでしょう。あの人は、紙を捨てられない人でしたから」

「では、晴臣さんは封書を受け取ったあと、誰にも見せなかった」

「少なくとも、私には見せませんでした」

「なぜ、三枝さんはそんなことを?」

妙子は湯呑みを机へ戻した。陶器が木の表面に触れ、乾いた音がした。

「自分がいなくなったときに、すぐ見つかると困るものだったのかもしれません」

「いなくなったとき?」

「三枝さんは、自分がいなくなる可能性を考えていたようでした」

「自分で消えるつもりだったんですか」

「そうは言っていません」

「では、誰かに消されると思っていた?」

妙子は黙った。

この町の沈黙は、言葉がないのではなく、言葉の形を保てない状態なのだと思った。誰かが口にしないよう押さえている間に、言葉は少しずつ崩れていく。最後には、空白だけが残る。

「三枝さんは、失踪した夜に、ここで誰かと会いましたか」

妙子は返事をしなかった。

私は机の上の湯呑みを見た。青い線の端は、やはり少しだけずれている。つながっているように見えて、つながっていない。線を一周させることに失敗したのか、最初から切れた柄として作られたのか、私には分からない。

「妙子さん」

私は声を落とした。

「私は、あなたを犯人だと決めつけたいわけではありません。三枝さんが何を見ていたのか、晴臣さんが何を受け取ったのか、それを知りたいだけです。でも、あなたが知っていることを話さないまま、白鷺荘が取り壊されれば、建物の中に残っている記憶まで消えます」

「記憶は、建物に残るものではありません」

「では、どこに残るんですか」

「残った人間の中に」

「残った人間が話さなければ?」

妙子は目を伏せた。

「それでも、残ります」

「残るだけでは、誰にも届きません」

自分の言葉が、三枝透の封書へ向かっているように感じられた。宛名を持たないまま、部屋の中をさまよう言葉。その行き先を、誰かが選ばなければならない。

妙子は長く黙っていた。

やがて、机の脇に置かれていた古い管理台帳へ手を伸ばした。表紙は灰色に変色し、角が何度も擦られて丸くなっている。彼女は台帳を開かなかった。ただ、表紙の端を指で揃えた。

「三枝さんは、失踪する二日前に、部屋の鍵を一つ返しました」

「管理人室へ?」

「ええ。予備の鍵です。けれど、返した鍵の中に、彼の部屋のものはありませんでした」

「では、何の鍵ですか」

「高瀬さんの部屋の鍵に似ていました」

「似ていた?」

「同じ建物の鍵は、形がほとんど同じです。ただ、鍵の山が一つ違っていた。三枝さんは、これは高瀬さんの部屋には合わないと言っていました」

「それなのに、どうして返したんですか」

「合わない鍵だから、返したのかもしれません」

「妙子さんは、その鍵を今も持っていますか」

妙子は鍵束を見た。

その中から、先ほど私が気づいた新しい鍵ではなく、錆びた短い鍵を一本抜き取った。鍵の頭には、小さな白い札がついている。札には何も書かれていなかった。

「これです」

私は手を伸ばしかけた。

妙子は渡さず、掌の中で鍵を包んだ。

「ただし、これが何を開ける鍵だったのかは、もう分かりません」

「白鷺荘のどこかでは?」

「部屋の鍵ではありません。共用部か、物置か、郵便受けの裏側か。古い建物には、住人が知らない扉がいくつもありますから」

「それを、三枝さんは知っていた」

「知っていたのでしょうね」

「晴臣さんも?」

「さあ」

妙子は鍵をしまった。

「高瀬さんの転居先を、知りたいんですか」

「確認したいだけです」

「なぜ?」

「封書を届けるためです」

「手紙を、まだ開けていないのに?」

「宛名は高瀬さんですから」

「高瀬さんに渡せば、すべて終わると思いますか」

妙子の問いは穏やかだった。だが、その穏やかさには、私の考えを先回りして塞ぐような硬さがあった。

「終わるとは思っていません」

「では、何が始まるんでしょう」

「分かりません。分からないから、本人に渡す必要があります」

「受け取ることで、戻らないものもあります」

「受け取らないことで、戻れなくなるものもある」

言い終えると、妙子の顔から笑みが消えた。

しずえは、それまで黙って湯呑みを見ていた。やがて、静かに口を開いた。

「妙子さん。あのとき、あなたは何を守ろうとしたんだい」

妙子は答えなかった。

「白鷺荘の住人かい。それとも、高瀬さんかい。あるいは、自分が管理人として何も知らなかったことにするためかい」

「片岡さん」

「責めているんじゃないよ。私も同じように、順番を選び続けた。誰かが壊れないように、誰かの名前を口にしないように。そうしているうちに、守っているものと隠しているものの区別がつかなくなっただけだ」

「私は、誰も守っていません」

妙子の声が震えた。

「ただ、あの人がそう言ったから、そうしただけです。三枝さんは、封書を見せながら、これを今すぐ誰かに渡したら、高瀬さんだけでは済まないと言いました。高瀬さんの家族も、仕事も、ここで暮らす人たちも、全部巻き込まれる。だから、しばらく預かってほしいと。私には、預かることしかできなかった」

「その封書は、どこにありますか」

妙子は口を閉じた。

その沈黙は、これまでのものとは違っていた。答えを探している沈黙ではない。答えを出せば、今まで保ってきた形が崩れることを知っている人の沈黙だった。

「失くしました」

やがて、彼女は言った。

「失くしたんです」

「どこで」

「分かりません。管理人室の机に置いたことは覚えています。でも、翌朝にはありませんでした」

「誰かが持ち去った?」

「そうかもしれません」

「高瀬さんが?」

「分かりません」

「三枝さんが?」

「三枝さんは、その夜から戻りませんでした」

「では、誰かが管理人室へ入った」

「私は鍵をかけていました」

「鍵を持っている人は?」

妙子は、掌の中の鍵束を見下ろした。

「私と、大家さんと……」

そこで言葉が切れた。

「それから?」

「高瀬さんが、以前、合鍵を持っていました」

室内の空気が止まったように感じた。

だが、妙子はすぐに言葉を継いだ。

「ただし、あの鍵は管理人室のものではありません。高瀬さんの部屋に合わない鍵を、三枝さんが持ってきたと言ったでしょう。何の鍵だったのかは分かりません」

「それでも、合鍵を持っていた」

「そうです」

「なぜですか」

「知りません」

「妙子さん」

「本当に知りません」

初めて、彼女の声が大きくなった。大声というほどではない。けれど、それまで張られていた薄い膜が一瞬だけ裂けた。

「知りません。高瀬さんが何を持っていたのか、三枝さんが何を見ていたのか、私は全部知っていたわけではないんです。管理人だから、住人の出入りを覚えていた。郵便受けの音を聞き分けていた。夜中に誰かが階段を上る音も、部屋の扉が閉まる音も。でも、それは人の人生を知ることとは違うでしょう」

妙子は一度息を吸った。

「私は、見ていました。見ていたけれど、見なかったことにしました。そうしないと、ここで暮らしている人たちの顔を、翌朝から見られなくなると思ったからです。あの人たちは、誰かに知られたくないことを抱えて、それでも毎朝ごみを出し、仕事へ行き、帰ってきて、湯を沸かしていました。私はその暮らしを壊したくなかった。壊したくなかったのに、壊れたあとで、何も言わなかった自分だけが残った」

部屋の中で、湯気が消えた。

「それは、守ったことになるんでしょうか」

私が尋ねると、妙子は目を伏せた。

「分かりません」

今度の返事には、逃げるための曖昧さがなかった。

「だから、今も分からないんです。守ったのか、隠したのか。あの封書を預かったことが、誰かを生かしたのか、誰かを消したのか」

妙子は湯呑みを一つ取り上げた。青い線の入った器を両手で包む。中身はもう冷めているはずなのに、彼女は熱さを確かめるように指を添えた。

私は、その湯呑みの底に小さな傷があることに気づいた。青い線の切れた場所から、白い釉薬が薄く剥がれている。誰かが長い間、同じ指の位置で持ち続けたことでできた傷のように見えた。

「三枝さんは、最後にどこへ行きましたか」

妙子は窓の外を見た。

「旧桜公園のほうだと思います」

「思います?」

「その夜、白鷺荘の裏口が開いていました。裏口から出ると、公園へ抜ける道が一番近い。三枝さんは、そこをよく使っていました」

「誰かと一緒でしたか」

「一人に見えました」

「見えた、ということは」

「雨が降っていました。街灯も切れていた。人影の形しか分かりません」

「それでも、三枝さんだと思った」

「歩き方で分かりました。紙を持っているときの歩き方でした」

その言葉が、妙に胸に残った。

三枝透は、紙の角を揃えてから歩く人だった。封筒を持って、記録を抱えて、誰かに届くまでの経路を考えながら歩く。そういう姿だけが、十年後の町に残っている。

私は立ち上がった。

「今日は、ありがとうございました」

妙子は驚いたように私を見た。

「もう、お帰りになるんですか」

「これ以上聞いても、今は同じところを回るだけだと思います」

「高瀬さんの転居先は、片岡さんに聞けば分かるかもしれません」

帰り際、妙子はそう言った。

その声は、初めてこちらへ情報を渡そうとするものに聞こえた。けれど同時に、私がどこまで知っているのかを測る響きも残っていた。

「なぜ、急に教えてくれる気になったんですか」

「教えるとは言っていません。ただ、片岡さんなら、古い住所録の扱いに慣れていますから」

「妙子さんは、晴臣さんの転居先を知っているんですか」

彼女は答える前に、一度だけ目を閉じた。

「知っているかもしれません」

それだけだった。

白鷺荘を出ると、夕方の風が建物の骨組みを通り抜けてきた。背中を押すのではなく、内側に残った空気をすべて持ち去ろうとする風だった。濡れた木の匂いが薄まり、代わりに鉄板の錆びた匂いが鼻につく。

しずえと並んで歩き出す。

私は胸ポケットの封書に手を当てた。中の紙片は、歩くたびにわずかに動いている。硬いものが封筒の内側を擦り、その音が衣服越しに伝わってきた。

「妙子さんは、封書を失くしたと言いました」

「そうだね」

「でも、私の手元にある封書は、十年前のものです。三枝さんが高瀬さんに渡したものなら、妙子さんが預かった封書と同じ可能性がある」

「可能性はあるね」

「そして、妙子さんは、誰かが管理人室へ入ったと言い切らなかった。鍵を持つ人間の中に、高瀬さんがいた。彼女は晴臣さんを疑っているんでしょうか」

「疑っているのは、あんたじゃないのかい」

「私は、事実を整理しているだけです」

「整理するというのは、ときどき疑うことより厄介だよ。疑いなら、間違いだと分かれば手放せる。整理したものは、形がついてしまうからね」

「でも、整理しなければ、何が分からないのかも分かりません」

「そうだね。だから、あんたは止まれない」

しずえはそう言って、少しだけ笑った。

笑いはすぐ消えた。

「ただし、妙子さんの話をそのまま信じてはいけないよ」

「彼女は嘘をついている?」

「嘘をついている人は、もっと話しやすい。嘘は順番を決めてから口にするものだからね。妙子さんは、言うべきでないことと、言わなければならないことの間で、まだ迷っている」

「では、何を信じればいいんですか」

「湯呑みを」

「湯呑み?」

「妙子さんは、三枝さんと高瀬さんがどちらの湯呑みを使うか、十年経っても覚えていた。けれど、失踪当夜にどちらがそこにいたかは覚えていないと言った。あれは、記憶違いではないよ」

「何を意味するんですか」

「その夜、湯呑みが二つ使われた。けれど、そこにいた人間は三人だったのかもしれない」

私は足を止めた。

しずえは先へ歩いていた。数歩進んでから、私が来ないことに気づき、振り返る。

「どうして、三人だと思うんですか」

「私はそう言っていないよ」

「でも、今――」

「湯呑みは二つしかなかった。誰か一人は、飲まなかった。あるいは、飲むふりをしなかった。そういうこともある」

彼女は歩き出した。

旧区画の夕暮れは、日が落ちるにつれて濃くなっていた。屋根の向こうに見える空だけがまだ赤く、路地には早くも街灯が点き始めている。濡れたアスファルトに光が細く伸び、私たちの影を長く引き延ばしていた。

「しずえさん」

「何だい」

「三枝さんは、失踪する前に誰かを告発しようとしていたんでしょうか」

しずえはすぐに返事をしなかった。

「三枝さんは、誰かを告発するというより、記録の順番を戻そうとしていたんだと思う」

「順番を?」

「誰がいつ住んでいたか。どの郵便がどこへ行ったか。誰が何を受け取ったか。そういうものは、順番が一つずれるだけで、別の話になる。町の人間は、出来事そのものより、出来事が並んでいる順番を信じるからね」

「だから、記録を変えれば、失踪も別の形にできる」

「そうだね」

「三枝さんは、それに気づいていた」

「気づいていたから、怖がられたのかもしれない」

しずえの声は低かった。

「記録を改める人間は、誰かの嘘を暴く。でも、嘘をついた人間だけが困るとは限らない。嘘の上に暮らしを建ててしまった人たちまで、足場を失う。高瀬さんが黙った理由も、妙子さんが話さない理由も、そこにあるのかもしれない」

「それでも、黙っていたら三枝さんの不在だけが残る」

「その通りだよ」

「だったら、どうして十年も」

「十年という時間は、人を臆病にする。最初の一年なら、まだやり直せると思える。三年経つと、今さら蒸し返すのかと思う。五年経つと、もう誰も覚えていないと思う。十年経つと、覚えている自分のほうが間違っている気がしてくる」

私は、濡れた縁石に視線を落とした。

自分の過去にも、似たような時間があった。前の住まいで、隣人の異変に気づきながら、忙しさを理由に見過ごした。大したことではないと思った。翌週、その人は引っ越していた。誰にも確認しなかった。確認しないまま、自分の生活だけを先へ進めた。

十年経てば、見なかったことは記憶ではなく、性格になる。

私はその考えを、口にはしなかった。

古書店の前に戻ると、しずえは店の鍵を開けた。店内は暗く、外から入る夕暮れの光だけが棚の背表紙を細く照らしている。しずえは照明を点けず、帳場の引き出しから一枚の索引カードを取り出した。

表紙を上にして、私の前へ置く。

カードには、いくつかの名前と住所が書かれていた。古い住所録の切り抜きらしい。その中に、高瀬晴臣の名前があった。現在の住所ではない。町の外れにある、駅から二つ先の町名が記されている。

「これが転居先ですか」

「十年前の記録ではね」

「今も住んでいるかは分からない」

「分からない。ただ、転居届の控えには、その先の住所がもう一つある」

しずえは別のカードを出した。

私はそれを見た。住所はさらに遠く、県境に近い町だった。日付は、三枝透の失踪から一年後になっている。

「高瀬さんは、二度引っ越している」

「それだけでは、逃げたとは言えないね」

「分かっています」

「でも、逃げなかったとも言えない」

カードの角には、赤鉛筆で小さな印がついていた。仕分け印の形に似ているが、中央の数字は違う。

「この印は?」

「高瀬さんが、自分で付けたものだよ」

「何のために」

「郵便を追うためだろうね。どこへ転送したか、いつ届いたか。あの人は、三枝さんと同じで、経路を気にする人だった」

私は封書を取り出した。

しずえの視線が、封緘の浮きへ落ちる。

「妙子さんが見た封書と、これが同じものか確かめたい」

「封を切れば、中身は分かる」

「でも、宛名は私ではない」

「だから、まだ切らないんだね」

「はい」

「その慎重さは、正しいと思うよ。ただし、正しさは時間を待ってくれないこともある」

私は封筒の裏を見た。黒ずんだ仕分け印。中央の数字。端に残る細い筋。十年前、誰かの手から別の手へ移された紙。その途中で、経路が切れた。

「明日、高瀬さんに会います」

私が言うと、しずえは頷いた。

「会えると思うかい」

「会えるかどうかは分かりません。でも、行きます」

「封書を渡すために?」

「それだけではありません。あの人が何を受け取らなかったのか、確かめるためです」

しずえは、索引カードを私のほうへ押し出した。

「住所は持っていきなさい。古いものだけれど、何もないよりはいい」

「借りても?」

「返さなくていいよ」

「大切な記録では?」

「記録は、しまっておくためだけにあるんじゃない。必要な人のところへ移ることで、初めて次の記録になる」

外で、郵便受けの蓋が閉じる音がした。

古書店の向かいの家だろう。ぱたん、と軽く、乾いた音だった。

私は封書を手帳の間へ挟んだ。索引カードの住所を折り畳み、同じページにしまう。紙と紙が重なり、指先に違う厚みが伝わった。

白鷺荘を出るとき、妙子は最後まで私に封書を見せなかった。だが彼女の言葉の中には、十年前に届かなかった手紙の輪郭があった。

二つの湯呑み。  三人分の沈黙。  返されなかった鍵。  そして、誰かの手から離れたまま、宛名だけを残した封書。

私は店を出て、新興住宅地へ続く道を歩き始めた。

街灯の光が、濡れた路面に一つずつ落ちている。白いフェンスの向こうでは、夕食の支度をする家々の明かりが点き始めていた。どの家にも、誰かがいて、誰かの帰りを待っている。郵便受けには、明日も新しい紙が届く。広告、請求書、通知、名前の書かれた封筒。

その当たり前の流れの中で、一通だけが十年間、場所を失っていた。

私は胸ポケットの上から、手紙の硬さを確かめた。

まだ開けていない。

けれど、もう手紙の外側だけを見ているわけではなかった。封書の向こうに、誰かが待った時間と、誰かが閉じた口と、誰かが整えた記録がある。その全部が、紙の薄さの中に折り畳まれている。

家へ着く頃には、空はすっかり暗くなっていた。

郵便受けを開ける前に、私は一拍置いた。

中には、何も入っていなかった。

それでも、蓋を閉じるときの音は、昨日までとは違って聞こえた。誰かが何かを受け取らなかったあとにも、郵便受けは同じように閉じる。音だけは、何も知らない顔で。

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白鷺荘の湯呑み - 宛なき声 - 誰でも作家life