第4話 雨上がりのみどり郵便局

翌日の夕方、私は片岡しずえの古書店で待ち合わせた。
朝から雨が降ったり止んだりしていた。窓の外が暗くなるたびに、仕事の合間を縫って封筒のことを考えた。机の上に並べた書類の数字が、どうしても仕分け印の形に見えてしまう。角ばった外枠。中央の小さな数字。紙の上に押された、誰かの手の跡。
定時を少し過ぎて店に入ると、しずえは帳場の奥で古い封筒を一枚ずつ布で拭いていた。窓ガラスには雨粒が細く流れ、店内には濡れた木と古紙の匂いがこもっている。
「郵便局へ行くんでしょう」
挨拶より先に、しずえは言った。
「はい。みどり郵便局の古い転送票を見せてもらえるかどうかは分かりませんが」
「見せてもらえないと思って行くと、見せてもらえなかったときに帰ってしまう。見せてもらえると思って行くと、見せてもらえない理由ばかり気になる。どちらも同じことだね」
「では、どう思って行けばいいんですか」
「紙がそこにあると思って行けばいい。人間の返事は変わるけれど、紙の位置は、動かされたときに跡を残すから」
しずえは拭き終えた封筒を、他のものと同じ向きに揃えた。表も裏も見えないように、白い紙を伏せて置く。その手つきが、私の机の中にある封書を思い出させた。
私は胸ポケットの上から、封筒の輪郭を確かめた。
「この手紙を、まだ開けていないんですね」
「開ける必要があると思うかい」
「必要がないとは言い切れません。でも、宛名は私ではありません」
「宛名を尊重するのは大事だよ。けれどね、宛名が正しいかどうかを確かめることまで、宛名の人間に任せてしまうと、届かない手紙はいつまでも届かない」
しずえは眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。薄い布がガラスの上を往復する音だけが、店の奥に残った。
「昔、ここへ一通の手紙を持ってきた人がいた。亡くなった人の家族宛てだった。私は封を切らなかったし、家族にもすぐ渡さなかった。宛名の人が受け取れる状態ではないと思ったからね」
「渡さなかったんですか」
「しばらくして、その家族は引っ越した。手紙は私の机の引き出しに残った。正しい判断をしたつもりだったよ。余計な傷を増やさないために。でも、時間が経つと分かる。傷を増やさなかった代わりに、傷口を閉じる機会も奪っていたのかもしれない」
しずえは私を見なかった。窓の外を流れる雨の筋を見ていた。
「だから、今度は早く言うんですか」
「今度も、早くは言わない。早く言えばいいというものでもないからね。ただ、眠らせたままにするのはやめようと思っている」
その言葉を聞いて、私は返事をしなかった。しずえが何をどこまで知っているのか、まだ分からない。だが、彼女がこの手紙を単なる誤配として扱っていないことだけは、はっきりしていた。
雨脚が弱まった。
私たちは店を出て、旧区画の道をみどり郵便局へ向かった。舗装の継ぎ目には水が残り、通り過ぎる車のタイヤがそれを薄く跳ね上げている。雨に濡れたアスファルトは、空の色をそのまま抱え込んで、どこまでも黒かった。
新興住宅地へ戻る道と反対に進むと、家々の軒が低くなった。雨戸の閉まった空き家、軒先に積まれた植木鉢、古い自転車にかけられた透明なビニール。生活はまだ残っているのに、どの家も誰かに見られることを避けているように見えた。
「郵便局の人に、三枝さんの名前は出しますか」
「出す必要があるならね」
「必要かどうかは、どう判断するんですか」
「相手の顔を見ることさ。名前を出した瞬間に、目が書類のほうへ逃げる人がいる。そういう人には、名前より先に紙を見せる。逆に、紙を見せても名前しか見ない人もいる。どちらも、隠しているとは限らないけれど、触れたくない場所がある」
「私には、そこまで人の顔を読む余裕がありません」
「だから、あんたは紙を見るんだろう」
しずえはそう言った。からかっているようには聞こえなかった。
みどり郵便局は、古い商店街の角にあった。緑色の庇に白い文字で局名が書かれている。塗装はところどころ剥げ、雨に濡れた庇の端から、雫が一定の間隔で落ちていた。
閉局間際の窓口には、客が一人だけいた。高齢の男が、濡れた封筒を両手で包むようにして差し出している。局員は封筒を受け取ると、濡れた角をタオルで押さえた。
「このまま機械に通すと、紙が裂けますので。乾いてから処理します」
「明日でも構わんよ」
「いえ、こちらで預かります。乾いたら、今日の受付として処理しますから」
局員はそう言って、封筒を透明な袋に入れた。男が帰ると、しずえは窓口へ近づいた。
「以前の転送記録を確認したいんですが」
応対したのは、四十代くらいの女性だった。胸元の名札には、森下とあった。彼女はしずえの顔を見てから、私へ視線を移した。
「どの時期の記録でしょうか」
「十年ほど前です。白鷺荘に関する転送票を」
森下の指が、カウンターの上で止まった。
「個人情報を含む記録については、閲覧に制限があります」
「承知しています。特定の住所の郵便経路について、確認したいだけです」
私は封筒を取り出した。いきなり手渡さず、表面が見えるようにカウンターの上へ置いた。
森下は宛名を読んだ。それから裏返された差出人欄を見る。三枝透の名前に触れた瞬間、彼女の視線が一度だけ右手奥へ逃げた。そこには窓口から見えない保管棚があるらしく、灰色の扉だけが壁の向こうに続いていた。
「この手紙は、いつ届いたものですか」
「消印は判別しにくいですが、十年前のものだと思われます」
「なぜ、そう思われるんでしょう」
「紙の状態、消印、仕分け印。それから、差出人が十年前に失踪した人物だからです」
森下は封筒を見たまま、しばらく黙った。
「お客様は、宛名の方のご家族ですか」
「違います。前の入居者です。私はその家に最近入居しただけです」
「そうですか」
「前の入居者宛ての古い郵便物が、今になって郵便受けに入っていた。誤配として返すべきなのか、保管されていたものが何らかの経路で戻ってきたのか、それを知りたいんです」
「郵便局で保管していたものが、十年後に配達されるということは通常ありません」
「通常ではないことが起きているから、確認をお願いしています」
森下は困ったように口元を結んだ。
「当時の記録が残っているかどうか、まず確認が必要です。郵便物の個別の経路については、記録がすべて保存されているとは限りません」
「保存されていない場合、破棄された日付は分かりますか」
「保存期間を過ぎたものは、順次処分されます」
「順次、というのは、個別の日付が残る処理ですか」
私が尋ねると、森下は一度、私の顔を見た。
「……記録の種類によります」
「では、記録の種類を確認していただけますか。私が知りたいのは、手紙が存在したかどうかだけではありません。どこで、誰の手を経て、どの住所へ向かったのかです。もし途中で処理が止まっているなら、止まった場所が分かれば、誤配と隠されたものを区別できます」
「隠された、とおっしゃいましたか」
「まだ、そう断定しているわけではありません」
「ですが、そう疑っている」
「疑っているから、確認したいんです。疑ったまま人を責めたいわけではありません」
森下は返事をしなかった。窓口の隅で、先ほどの男のために乾かされている封筒が、透明な袋の中で少しずつ水分を失っていた。紙の表面が、蛍光灯をぼんやり返している。
しずえが口を開いた。
「森下さん。この局には、昔の保管簿がまだありますね」
「保管簿ですか」
「棚の奥にある、転送票と返還郵便の控えです。表の窓口で扱う記録ではないから、存在していることを知らない人も多いけれど」
森下の表情が、ほんの少し硬くなった。
「よくご存じですね」
「昔からこの町にいるものですから。郵便局の棚も、町内の名簿も、建物が変わるたびに置き場所が変わる。置き場所が変わると、記録は残っていても、見つからなくなるんです」
「古い記録は、閲覧できるものではありません」
「承知しています。ただ、今回の封筒に残った仕分け印と、当時の転送票が同じものかどうかだけでも確認できないでしょうか。もし違うなら、ここで話は終わります。もし同じなら、少なくとも、この封筒がこの局を通った可能性は残る」
森下は封筒に目を落とした。
「差出人の方は、亡くなったと確定しているわけではないんですね」
「行方不明のままです」
「それなら、なおさら個人情報の扱いには慎重になります」
「慎重であることに反対はしていません」
私は封筒の角に指を置いた。森下の視線がそこへ移る。
「私が知りたいのは、三枝さんが生きているかどうかではありません。この手紙が、十年間どこにいたのかです。差出人が誰であれ、紙はどこかを通っている。通った場所には、仕分け印か、保管簿の記載か、誰かが触れた痕跡が残るはずです」
自分で言いながら、声が少し硬くなっているのが分かった。
森下は、すぐには答えなかった。やがて、カウンターの下から鍵束を取り出した。細い金属の輪に、古い鍵がいくつか通されている。彼女はそのうちの一つを指で撫で、しずえを見た。
「確認だけです。記録を持ち出すことも、撮影することもできません。該当するものがなければ、それまでです」
「それで構いません」
「お二人とも、こちらへ」
案内された先は、窓口の奥にある狭い通路だった。蛍光灯が一本だけ点いていて、壁の白さが湿気を含んで青く見える。森下が鍵を差し込むと、扉の内部で古い金属が擦れた。
保管棚の空気は、窓口より冷たかった。
棚板はくすみ、段ボール箱の角には埃が溜まっている。私は手を近づけるだけで、金属の冷えが指先へ移ってくるのを感じた。しずえは最初に棚の全体を見渡し、それから右上の箱の並びを確認した。
「ここ、何年も開けていない顔をしていますね」
「実際、十年以上開けていない箱もあります」
森下はそう答えたが、声に確信がなかった。
「開けても、戻す手が雑だと意味がないんですよ」
しずえは箱の背に貼られたラベルを見た。年度と記号が、黒いペンで整然と書かれている。だが、一番右端の箱だけ、他よりわずかに奥へ引っ込んでいた。
「この箱は、いつ動かしましたか」
「え?」
「埃の線が切れています。棚板には箱の底の跡があるのに、今の位置には埃がありません。最近、誰かが引き出したはずです」
森下は箱を見た。私はしずえの指先を追った。確かに、箱の下には薄い長方形の跡が残っている。そこだけ金属の色が明るかった。
「清掃のときに動かしたのかもしれません」
「清掃の人は、箱のラベルを正面に揃えるところまでしますか」
しずえの問いに、森下は答えなかった。
私は別の棚へ目を移した。古い保管簿が年度順に並んでいる。その中で、十年前のものだけ背表紙の高さが違った。隣の簿冊より薄い。薄いのに、背表紙だけは同じ幅の紙で補われている。
私は指で触れず、目だけで確認した。
「こちらを見てもいいですか」
森下が頷いた。
保管簿を机へ移し、しずえが右上から順にページを開いた。紙が擦れるたび、乾いた音がする。古い帳面の紙は、指に触れる前から崩れそうな脆さを持っていた。しずえはページをめくる前に、指先を一度だけ拭った。湿気や皮脂を嫌うというより、紙に自分の時間を混ぜないための所作に見えた。
転送の欄を追っていく。
白鷺荘の住所が見つかった。三枝透の名も、高瀬晴臣の名も、すぐには現れなかった。だが、住所欄のいくつかに、同じ黒い印が押されている。見慣れた仕分け印と同じ、角ばった外枠だった。
「これです」
私は封筒を取り出し、仕分け印の部分だけを見せた。
しずえは封筒を手に取らず、帳面と見比べた。
「押し方が同じだね」
「同じ局の印でしょうか」
森下が身を寄せた。
「十年前のものなら、現在の印とは違う可能性があります。ただ、仕分け印は局ごとに完全に同じではありません。担当者や機械の癖が残ることもあります」
「この数字は何ですか」
私は帳面の欄外に押された小さな数字を指した。
「仕分けの区分です。配達順や区域を示す番号だったと思います」
「思います、というのは」
「現在は運用が変わっています。昔のことですから、私も詳しくは」
森下の声が小さくなった。
私はページを見た。白鷺荘の住所に続く行に、転送先の欄がある。そこには高瀬晴臣の名前が書かれていた。だが、転送先住所の欄は空白だった。
完全な空白ではない。上から何かを書き込んだあと、紙を削ったような薄い毛羽立ちがある。そこへ別の印が押され、さらにその上から細い線が引かれていた。
私は喉の奥の乾きを感じた。
「この欄は、最初から空欄だったんでしょうか」
「分かりません」
「紙が削られています」
「古い帳面ですから、擦れた可能性もあります」
「擦れなら、周囲の文字も同じように薄くなるはずです。ここだけ、住所欄の幅に沿って削られている。しかも、その上に別の印が重なっている」
言葉が止まった。
私は人を責めたいわけではなかった。ただ、目の前にあるものが、そう見える。見えるものを見えないことにするには、私の観察癖はあまりに正直だった。
しずえが、空欄の右端を見つめていた。
「ここには、何か書かれていたんだね」

「断定はできません」
森下はそう言った。
「断定するには、削られた紙の繊維を調べる必要があります。ですが、少なくとも、単なる未記入には見えません」
しずえの声は穏やかだったが、言葉の置き方に逃げ道がなかった。
私は次のページへ進んだ。
同じ時期の記録だけ、転送処理の行が二つ続けて抜けている。前後の欄には受付日、仕分け区分、返還の有無が記載されているのに、その二行だけが空白だった。紙そのものが切り取られたわけではない。ただ、書かれるべきものが、書かれないまま残されている。
「この空白は、転送されなかったという意味ですか」
「そうとは限りません。処理が別の簿冊に移された可能性もあります」
「別の簿冊は、どこにありますか」
森下は棚の反対側を見た。
そこには、同じ年度の薄い束が並んでいた。だが背表紙のラベルは途中で途切れている。十年前の保管簿は、厚いものと薄いものに分けられ、その薄いほうだけが、後から差し込まれたように見えた。
「確認してもいいですか」
森下は迷った。
「それは、局内の整理資料です。個別の郵便物とは関係ありません」
「関係がないなら、見ても問題はないはずです」
「そういう言い方をされると困ります」
「すみません。ただ、私はこの封筒を持ってから、何度も同じことを言われています。関係がない、古いことだ、分からない。けれど、分からないものを分からないままにするために、記録があるわけではないと思っています」
「記録は、すべてを明らかにするために作られているわけではありません」
森下の声に、初めて硬さが混じった。
「郵便局の記録は、郵便物を正しく届けるためのものです。誰かの過去を掘り返すためのものではありません。十年前の失踪者の名前が書かれていたとしても、私たちが勝手にその人生へ踏み込んでいいことにはならない」
「その通りだと思います」
私は封筒を見た。
「だから、私は中身を開けていません。差出人の人生を知りたいわけでもない。誰が悪いのか決めたいわけでもない。ただ、この手紙が届けられなかった理由を知りたいんです。届ける仕組みの中で、どこかに止められたのなら、その理由だけは、仕組みに関わった人間が確かめるべきではないでしょうか」
「届かなかった理由が、必ず誰かの悪意だとは限りません」
「分かっています。だから、私はまだ悪意とは言っていません」
森下は黙った。
棚の奥で、紙の束がわずかに沈む音がした。湿気を含んだ段ボールが、重みに耐えかねて形を変えたのかもしれない。けれどその音は、何かが時間の底で身じろぎしたようにも聞こえた。
しずえが、ゆっくりと口を開いた。
「森下さん。見せたくないなら、見せなくてもいい。ただ、見せない理由を、記録のせいにしないでください。記録は黙っています。黙らせるのは、いつも人です」
「……責めているんですか」
「責めてはいません。私も、昔は同じことをしましたから」
森下はしずえを見た。
「知っていたことを、知らないふりをしたんですか」
「知らないふりをしたというより、知っていることを知っている順番のまま語らなかった。そうすれば、誰も傷つかないと思った。けれど、人は傷つかないのではなく、傷ついたまま止まるだけなんですよ」
しずえの声は、いつもより低かった。
「手紙も同じです。届かないまま止まっている言葉は、消えた言葉ではない。誰かのところへ届くまで、紙の中で時間を持ち続ける。十年経っても、宛名が残っていれば、まだ終わっていない」
森下は視線を落とした。
やがて、保管簿の薄い束へ手を伸ばした。取り出した紙の端に、他の記録とは違う黄ばみがあった。背表紙のラベルは一度剥がされ、上から別の紙が貼られている。新しい紙のほうが、わずかに白かった。
「こちらは、旧式の返還・保留処理の控えです」
森下は言った。
「通常の転送簿とは別に、配達できなかった郵便を一時的に置いた記録があります。ただし、個別の封筒ではなく、束単位の処理です」
「束単位、というのは」
「同じ区域、同じ理由でまとめて扱う。宛名不明、転居先不明、受取人不在。そうした分類です」
彼女はページを開いた。
そこには、日付と区分番号だけが並んでいた。白鷺荘に関わる区域番号の行で、十年前のある月だけ、記載が不自然に途切れている。前後には同じ番号が続いているのに、そこだけ空白だった。
私は封筒の仕分け印を見た。
中央の数字は、その区域番号と一致していた。
「この番号の束は、どこへ行ったんですか」
森下は答えなかった。
しずえも、すぐには口を開かなかった。
私はページの端に残る小さな折り目を見つめた。何度も開かれたわけではない。むしろ、特定の一箇所だけを避けるように折られている。紙の折り目は、誰かが見た場所だけでなく、見なかった場所にも残る。
「保管簿には、処理済みと書かれていません」
私が言うと、森下はようやく顔を上げた。
「はい」
「返還とも、廃棄とも書かれていない」
「はい」
「では、止め置かれた可能性がある」
「可能性はあります」
「どこに」
「それは、今の記録だけでは分かりません」
森下の言葉は淡々としていた。だが、目線はもう棚から逃げていなかった。
しずえが薄い束を指した。
「この紙、後から差し込まれていますね」
「どうして分かるんですか」
「綴じ糸の穴が合っていない。もともとの束にあった紙なら、同じ位置に穴が残るはずです。これは別の時期に綴じ直されている。しかも、穴を合わせるために端を少し折っている」
私は紙の端を見た。確かに、束のほかの頁より数ミリだけ内側へ折れている。
「つまり、記録の順番が入れ替えられた」
「順番が変わっただけかもしれません」
「ですが、変える理由はあります」
「理由があったから変えた。そこまでは言えるでしょうね」
しずえは、誰に向けたものでもないように言った。
森下は帳面を閉じた。表紙が机に触れ、乾いた音を立てた。
「今日は、ここまでにしてください。これ以上は、私一人の判断では扱えません」
「分かりました」
私は素直に答えた。
森下が少し驚いたように目を瞬いた。
「納得されたんですか」
「納得はしていません。ただ、ここで無理に続けても、記録を読むのではなく、あなたを追及することになる。私はそれをしたいわけではありません」
「……そうですか」
「ただ、次に来るときまでに、今日見たものが処理済みになると困ります」
森下の表情がわずかに動いた。
「どういう意味ですか」
「古い記録だからこそ、今さら整理される可能性がある。もし誰かが今日の帳面を見て、空欄や差し替えを整えたら、私はもう一度、同じものを確認できません」
「私が記録を改ざんすると?」
「そうは言っていません。誰が触れるか分からないという意味です」
森下はしばらく私を見ていた。やがて、視線を下げ、保管簿の角を揃えた。
「記録を守ることは、記録を疑うことでもあるんですね」
「私の仕事では、そうです」
「郵便局では、少し違います。ここでは、記録を信じなければ仕事になりません」
「だからこそ、壊れているときに気づける人が必要なんだと思います」
言ってから、私は自分の言葉が思ったより重いことに気づいた。森下に対してではなく、十年前の誰かに向かって話しているようだった。
保管棚を出ると、窓口の時計は閉局時刻を過ぎていた。表の照明だけが消え、局内には蛍光灯の低い唸りが残っている。
外へ出ると、雨は止んでいた。
濡れた路面から立ち上る匂いが、古い家屋の湿気と混じって、鼻の奥に残った。私は封筒を胸ポケットから取り出した。明るい場所で見ると、仕分け印の端に、細い黒い筋がある。先ほど帳面で見た印にも、同じ位置に筋が入っていた。
「同じですね」
私が言うと、しずえは頷いた。
「同じ印を押したというだけでは、まだ何も分からないよ」
「でも、同じ場所を通った可能性は高くなった」
「そうだね」
「そして、転送の欄には空白がある。処理済みの印もない。白鷺荘の区域だけ、ある時期の記録が抜けている」
「そうだね」
「手紙は、届かなかったんじゃない。届く経路から外された」
しずえは歩みを止めた。
古い郵便局の緑の庇から、最後の雫が落ちた。路面に小さな輪が広がり、すぐに暗い水へ溶けていく。
「それは、まだ推測だよ」
「分かっています」
「推測は、事実の代わりにはならない」
「だから、次は名簿を見ます。郵便の記録と、住民の記録が同じところで途切れているか確かめたい」
しずえは私の顔を見た。夕暮れの薄明かりの中で、その目だけがはっきりしていた。
「少しは、記録を扱う人間らしい顔になってきたね」
「最初からそうだったつもりですが」
「最初は、手紙に扱われていた」
返す言葉が見つからなかった。
旧区画から新興住宅地へ戻る道は、来たときより長く感じられた。濡れたアスファルトが街灯を細く映し、足を進めるたびに、靴底から水の音が返ってくる。私は何度も、胸ポケットの封筒へ手をやりかけた。そのたびに、途中で指を止めた。
封筒は、まだ開けていない。
けれど、開けないことと、何もしないことは、もう同じではなかった。
みどり郵便局の保管簿に残った空欄は、言葉ではなかった。誰かが書かなかっただけの、白い場所だった。それなのに、その白さは、三枝透の名よりも強く私の目に残った。
帰宅すると、玄関脇の郵便受けを見た。
鍵を回す前に、いつものように一拍置く。
蓋を開けると、広告が二通入っていた。新しい紙の張りがあり、印刷された文字にはまだ湿り気がない。私はそれらを取り出し、郵便受けの底を指でなぞった。
何もない。
何もないはずなのに、指先には古い紙のざらつきが残っている気がした。
部屋へ入り、机の引き出しから封筒を出す。蛍光灯を点けると、照明が一度だけ明滅した。私はスイッチを切り、もう一度点け直した。
封筒の裏に残る仕分け印を、手帳に写した図と見比べる。
同じ印。 同じ区域番号。 途切れた転送欄。 差し替えられた可能性のある記録。
私は新しいページに、今日見たことを順番に書いた。推測と事実を分けるため、線を引いて欄を二つにした。
事実。 十年前の転送記録に、白鷺荘の区域だけ空白がある。 封筒の仕分け印は、帳簿に残る区域印と一致する。 転送先の欄には、削られたような痕跡がある。 処理済み、返還、廃棄の記載はない。
推測。 封筒は途中で止め置かれた。 宛先が別のものに置き換えられた。 その経路には、前住人の高瀬晴臣が関わっている。
最後の一行を書いたところで、私はペンを止めた。
高瀬晴臣が関わっている、と書くのは簡単だった。彼は前の住人で、封筒の宛名になっている。夜の郵便受けを見ていたという証言もある。けれど、封筒が私の家に届くまでのどこかに彼がいたとしても、それが隠すためだったのか、待ち続けるためだったのかは、まだ分からない。
私は「関わっている」の文字を二重線で消した。
代わりに、こう書いた。
高瀬晴臣の沈黙は、郵便の空白と同じ場所にある。
窓の外で、どこかの家の蓋が閉じる音がした。
ぱたん。
私は封筒の角を指でなぞった。紙の毛羽立ちは、昨日よりもはっきりしていた。届かなかった言葉は、誰かの手を離れたあとも、行き先を失ったまま残り続ける。
そして、残ったものは、いつか別の人間の生活へ入り込む。
私は手帳を閉じた。
明日は、名簿を見る。
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