3話 旧区画の端で

会社を出たのは、いつもより少し早い時間だった。

デスクの上で書類の不整合を追っていたはずが、気づけば頭の中で違う紙を追っていた。角のやわらかい封筒。古びた仕分け印。前の住人の名。差出人の名。仕事にならないなら、いっそ現場に立ってみるべきだ、と自分に言い聞かせて、私は定時を待たずに席を立った。

駅からの道は、地図で見るよりも長く感じられた。新興住宅地の道路はどこまでも直線的で、白いフェンスと低い植え込みが等間隔に続く。歩道の縁石は真新しく、角が丸められた面取りまで几帳面だった。この町の新しい区画は、まるで誰かが定規で引いたように整っている。だがその直線が途切れる場所があると、文具店の店主が言っていた。旧区画。白鷺荘のある一角。

歩くうちに、足元の感触が変わった。

歩道の幅が急に狭くなり、舗装の継ぎ目が目立つようになる。電柱には古い広告がまだ貼られたままで、色褪せた文字の一部が雨と陽射しに炙られて剥がれかけていた。「クリーニング」「本日開店」という文言が、誰にも読まれないまま風化していく。新興住宅地の匂いが糊とペンキだとすれば、こちらの匂いは違った。湿った木材と、乾ききらない土、それから、どこか甘ったるい紙の匂いが混じっている。古い商店街に近づくほど、その匂いは濃くなった。

白鷺荘は、思っていたよりもあっけなく見つかった。

木造二階建て。かつては白かったのだろう外壁は、いまは灰色にくすみ、ところどころ下地の木肌がのぞいている。窓枠の一枚は外れかけ、開口部から中の暗さがそのまま見えていた。屋根の下、雨樋の一部が外れて垂れ下がり、その先端から雨水がしたたった跡が、壁を黒く縦に染めている。敷地を囲む柵にはビニールの規制テープが張られ、「立入禁止・解体工事予定」の看板が、風にわずかに軋みながら傾いていた。

私は柵の外に立ったまま、しばらくその建物を見上げていた。

人がいなくなった建物というのは、静かというより、音を失っているのだと思う。生活していたときには、床の軋み、水道の音、誰かの咳払い、そういう小さな音が絶えず建物の内側を満たしていたはずだ。それが一つ残らず抜け落ちて、木の骨組みだけが立っている。十年前、ここで三枝透という男が姿を消した。町の誰もがその名を知りながら、誰もその先を語らない。沈黙が、壁の木目の奥にまで染み込んでいるように見えた。

私はポケットの封筒に、無意識に手を当てた。紙の輪郭が、指の腹にはっきりと感じられる。ここまで来て、何をすればいいのか、自分でもよく分かっていなかった。ただ、この建物を自分の目で見ておかなければ、封筒の重さに見合う理由を持てない気がしていた。

「その建物、眺めていても中には入れないよ」

声をかけられたのは、柵から半歩下がったときだった。

振り返ると、古書店の前で見た小柄な老婦人が立っていた。片岡しずえ。名札のかかった看板の脇で、箒を片手に持ったまま、私の胸ポケットのあたりを見ている。挨拶よりも先に、彼女の視線はそこに落ちた。まるで、私が何を持っているかを、聞かなくても分かっているというように。

「見かけたので、少し寄り道をしてしまいました」

「寄り道、ね」

しずえは箒を壁に立てかけ、柵の錆びた支柱に手をかけた。細い指が、金属の冷たさを確かめるようにゆっくりと動く。

「あんたがここに来る理由は、大体分かるよ。あの封筒を持ったまま、この建物を見に来る人間なんて、そういるもんじゃないからね」

「見えていたんですね、やっぱり」

「見えるものは見える。隠したつもりでも、持ち歩いているものは、体の動きに出るのさ。あんたは歩きながら、何度も胸元に手をやっていた。大事なものを持っている人間の癖だよ」

私は自分の癖を、他人の目を通して初めて知らされた気がした。指摘されて初めて、確かに自分がそうしていたことに思い当たる。だが、それを恥じるより先に、この老婦人がどこまで見抜いているのか、そちらのほうが気になった。

「三枝透という人のことを、ご存じなんですか」

しずえはすぐには答えなかった。柵の向こうの白鷺荘へ、視線をゆっくりと移す。

「知っているかどうかを聞かれると、困る。この町で長く暮らしていれば、名前くらいは自然と耳に入るものだよ。だけど、名前を知っていることと、その人のことを知っていることは、別の話だ」

「別の話、というのは」

「名前は記録にも残るし、噂にも残る。だが、その人がどんな顔で笑って、どんなときに黙り込んで、何を大事にしていたか。そういうことは、誰かがきちんと見ていなければ、名前が残ってもすぐに消えてしまう」

彼女の言葉は、遠回しでありながら、どこか一つの芯を持っていた。私はその芯に触れたくて、もう一歩踏み込んだ。

「片岡さんは、その人を見ていた側の人間ですか」

しずえは私を見た。柔らかな笑みを浮かべたまま、しかしその目の奥には、何かをはかるような静かな光があった。

「若い人は、すぐに白黒をつけたがる。知っているか、知らないか。味方か、そうでないか。だがね、この町で十年以上経った出来事というのは、そんなに単純に切り分けられるものじゃないよ。知っていることもあれば、知らないふりをしていることもある。忘れたふりをして、実は覚えていることもある。人間の記憶というのは、そのくらい始末に負えない」

「では、あなたご自身は、どちらなんですか」

「私は、記録を扱う人間だよ」

しずえはそう言って、箒を再び手に取った。だが歩き出そうとはせず、その場に立ったまま続けた。

「本を売る仕事をしていると、いろんなものが店に流れ込んでくる。古い帳面、名簿、誰かが処分に困った手紙の束。この町の人たちは、自分の記憶を捨てるとき、たいてい紙に残った記録ごと私のところへ持ってくる。捨てるのは忍びないが、家には置いておきたくない。そういうものを、私は預かる立場になった」

「その中に、三枝さんに関わるものも」

「あるかもしれないし、ないかもしれない」

「はぐらかしているんですか」

しずえは初めて、はっきりと私の目を見た。

「はぐらかしてはいないよ。ただ、順番があるというだけの話だ。あんたは今、封筒を一つ持って、この建物を見に来た。それだけでは、まだ何も分かっていない。分かっていない人間に、いきなり全部を渡すのは、親切じゃなくて、乱暴というものだ」

「では、何から始めればいいんでしょうか」

「名簿は残っているよ」

その一言だけが、ようやく明確な形を持って返ってきた。

「町内自治会の名簿。十年前のものも、欠けたページはあるが、まだ処分せずに残っている。それから、みどり郵便局。あそこの奥の棚には、古い転送票の控えが眠っている。誰も見に行かないだけで、捨てられてはいない」

「見に行けば、何か分かるんですか」

「分かるかどうかは、あんた次第だよ。記録は、見る人間の目がなければ、ただの紙の束のままだ」

私たちは連れ立って、しずえの店へ向かった。

店の中は、外の湿った空気とは違う、乾いた古紙の匂いで満ちていた。壁際の棚には、背表紙が茶色く焼けた帳面が、年代の順に並んでいる。しずえは迷わず一冊を選び出し、指先で表紙の埃を軽く払った。それから、開かずにその背表紙を、親指の腹でゆっくりと撫でた。

「失踪した人の名前というのは、たいてい別の紙にだけ残るものなんだよ」

「別の紙、というのは」

「本人の生活が刻まれた場所――住民票や、家賃の受け取りや、電気やガスの契約――そういうものからは、いなくなった瞬間にすっと消えていく。手続き上、消さなければならないからね。だが、誰かがふと書き留めた覚え書きや、待ち合わせのための走り書きや、そういう、本来なら残るはずのなかった紙にだけ、名前がそのまま留まっていることがある」

「三枝さんの名前も、そういう紙に」

しずえは答えなかった。その代わりに、帳面をそっと棚に戻した。

「今日はここまでにしておこう。あんたはまだ、何も見ていない。何も知らない状態で急ぐと、見えるはずのものを見落とす」

沈黙が落ちた。だが、その沈黙は拒絶の響きを持っていなかった。むしろ、私にはそれが、次に来るべき順番を示す道しるべのように感じられた。

店を出るとき、しずえは最後にもう一言だけ付け加えた。

「宛名の違う手紙を持ったまま歩き回るのは、あんたが思っているより、疲れることだよ。無理はしないで、少しずつでいい」

その声には、これまでのやりとりにはなかった柔らかさがあった。世話焼きだが、押しつけがましくない。片岡しずえという人物の輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。

家へ戻る道すがら、日はすでに落ちていた。新興住宅地の白いフェンスが、街灯の白い光の下でぼんやりと浮かんでいる。旧区画で嗅いだ湿った木の匂いは、もうどこにもなかった。かわりに、整えられた芝生と、消毒液のようにかすかな匂いのする夜気が、私を包んでいた。

部屋に戻り、封筒を机の上に置いた。

外を宅配車が一台、ゆっくりと通り過ぎていく音がした。蛍光灯の下で、封筒はやはり薄く黄ばんで見える。私はしばらく、それを立ったまま見下ろしていた。

この町に越してきただけのはずだった。新しい生活を始めるために、無骨な鍵のついた郵便受けを選び、荷物を運び入れ、段ボールを一つずつ潰していくはずだった。それなのに、一枚の紙が、部屋の重心をわずかにずらしている。暮らし始めたばかりの場所に、暮らし終えたはずの十年分の時間が、静かに入り込んでくる。

私は机の引き出しを開け、古い封筒の切れ端が挟まった手帳を取り出した。宛名のない紙。誰にも渡されないまま、私が捨てられずに持ち続けているものだ。それを一度指でなぞってから、隣に今日のことを書き留めた。

白鷺荘。片岡しずえ。名簿。みどり郵便局。

書き終えて手帳を閉じたとき、窓の外で誰かの家の郵便受けが閉じる音がした。

ぱたん、と軽い音だった。

私はその音を聞きながら、自分がもう、ただの誤配の受取人ではいられなくなっていることを、はっきりと自覚していた。

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