2話 部屋の整い方

朝、目が覚めてまず視界に入ったのは、天井の隅にある小さな染みだった。

雨漏りの跡だろうか。染みの縁は茶色く滲み、中心へ向かうほど色が薄くなっている。前の住人はこれを知っていたのだろうか、それとも気づかないまま暮らしていたのだろうか。私はしばらく布団の中でそれを見上げていた。

起き上がって台所へ向かう途中、廊下の床板が一枚だけ、他より微かに沈む場所があった。裸足の裏でその沈みを感じるたび、私は前の住人――高瀬晴臣という、まだ顔も知らない男の生活の輪郭を、少しずつなぞっているような気になった。

昨夜、封筒を机に置いたまま眠りについた。今朝もう一度机を見ると、封筒は昨日と同じ位置に、同じ向きで横たわっていた。当たり前のことだ。誰も動かしていないのだから。それでも私は、その封筒が夜のあいだに何かを企んでいたのではないかと、埒もないことを考えてしまう。

朝食を済ませたあと、私は前住人の痕跡をたどってみることにした。理由は自分でもうまく説明できない。ただ、封筒の宛名になっている人間がどういう暮らし方をしていたのか、それを知れば、封筒そのものの意味も少しは輪郭を持つのではないかと思ったのだ。

まず郵便受けを開けてみた。蓋は昨日と同じく、ほとんど音を立てずに開いた。金属同士が擦れる感触の代わりに、ごく微かな抵抗のあとに、すっと開く滑らかさがある。新品のはずのない古い郵便受けが、これほど滑らかに動くのは、誰かが定期的に油を差していたからだろう。前の住人だとしたら、彼は自分の生活道具に対して、随分と丁寧な人間だったことになる。

鍵も同じだった。差し込むと、二度の引っかかりのあとに滑らかに回る。昨日感じたその感触を、私はもう一度確かめた。手入れを欠かさない人間の手つきが、鍵山の摩耗の仕方にまで残っている。

玄関脇の表札を見た。「高瀬」という姓の一部、「瀬」の字のつくりの端が、微かに欠けていた。プラスチックの表札には珍しい欠け方だ。だが、その欠け方があまりに自然で、まるで最初からそういう形で作られたもののように見える。誰かがわざと削ったのか、それとも経年で欠けたのか、私には判断がつかなかった。

部屋の中に戻り、私は改めて室内を見渡した。

引っ越し三日目の部屋は、本来ならもっと雑然としているはずだ。段ボールが積まれ、荷物の置き場所が定まらず、生活の輪郭がまだぼやけている時期のはずだった。実際、玄関脇の段ボールはまだ潰されないまま残っている。

けれど台所の引き出しだけは違った。

昨日、何気なく開けたその引き出しの中身を、私はもう一度確かめた。古い転送届の控えが、無造作にではなく、日付順にきちんと束ねられている。輪ゴムで留められたその束は、几帳面という言葉がそのまま形になったようだった。捨てればいいものを、わざわざしまう。隠せばいいものを、わざわざ整える。そんな手つきが、紙の束のわずかな傾き加減にまで表れていた。

晴臣という人間の顔を、私はまだ知らない。年齢も、声も、笑い方も知らない。それなのに、この部屋の細部だけを見ていると、会ったことのない相手の癖のようなものが、輪郭を持ち始める気がした。

捨てるより、しまう。 隠すより、整える。

その二つの言葉が、私の頭の中で奇妙に響き合っていた。

昼前、私はもう一度管理会社へ足を運んだ。

前日と同じ受付の男が座っていた。歳は私と同じくらいだろうか。パソコンの画面から顔を上げたとき、彼の表情には昨日よりも僅かに緊張の色があった。

「昨日の件、また何か」

「はい。前の入居者の方について、もう少し伺いたくて」

私は封筒をテーブルの上に置いた。差出人の名までは見せなかった。宛名だけを見せるつもりだった。

男は封筒を一瞥し、それから椅子の背に体を預けた。その動きは、答えを考えるための時間を稼ぐ動きに見えた。

「高瀬晴臣様、ですね」

「そうです。差出人が、少し気になる方でして」

「差出人まではこちらでは分かりかねます。郵便物の中身については、我々には関知する立場にありませんので」

「立場の話をしているわけではないんです。ただ、高瀬さんがどんな方だったのか、少しでもご存じでしたら」

男は少し黙った。指先で机の端を軽く二度叩く。それから、ようやく口を開いた。

「私も先方とは、直接お話しした記憶があまりないんです。契約は本社の方で進んでいたようで。ただ――」

そこで言葉が途切れた。

「ただ、何でしょうか」

「いえ。前の入居者に、そういうつながりがあったとは……失礼、私の口からは何とも申し上げられません」

「つながり、というのは」

「いえ、特に意味はありません。忘れてください」

その言い方が、かえって意味を持ってしまうことに、男自身も気づいているはずだった。言葉を消そうとすればするほど、消えない染みのようにそこに残る。私はそれ以上追わなかった。追えば追うほど、相手は口を閉ざす。それより、今この瞬間に相手が見せた小さな反応のほうを、私は覚えておくことにした。

「転居先について、何か手がかりだけでも」

「申し訳ありません。個人情報になりますので」

「では、高瀬さんが引っ越された理由について、社内で何か記録は残っていますか。急な転居だったのか、それとも予定通りのものだったのか」

男はまた黙った。今度の沈黙は、先ほどより長かった。

「……特に急いでいた様子はなかったと、記録には残っています。ただ、退去の立ち会いの際、荷物が非常に少なかったという担当者の申し送りは見ました」

「少なかった、というのは」

「普通のご家庭より、明らかに少なかったそうです。まるで、必要なものだけを持って出て行かれたような」

その言葉を最後に、男は話を切り上げるように立ち上がった。私は礼を言って店を出た。

外に出ると、昼の陽射しが眩しかった。整った街路樹の影が、白い歩道の上に規則正しく落ちている。必要なものだけを持って出て行った男。その像が、私の頭の中で、几帳面に束ねられた転送届の控えと重なった。

隣家の老婦人には、夕方近くにもう一度声をかけた。

洗濯物を取り込んでいる最中だった。私が近づくと、彼女は手を止めずに顔だけこちらへ向けた。

「また何か聞きたいことがあるのね」

「すみません、何度も」

「いいのよ。それより、あの封筒のこと、まだ気にしているの」

彼女の口ぶりには、責めるでも、面白がるでもない、ただ静かな観察の色があった。

「高瀬さんは、どんな方だったんでしょうか」

「きちんとした人だったわよ」

洗濯物を畳む手は止まらない。皺の寄ったシャツの袖を伸ばし、丁寧に折り込みながら、彼女は続けた。

「ごみの日も間違えないし、玄関先もいつもきれいにしていたし。挨拶も欠かさなかった。ただ――」

「ただ、何でしょう」

「自分のことは、あまり話さない人だったわね。世間話はするのよ。天気のこと、庭の花のこと。でも、自分がどこから来て、どこへ行くのか、そういうことになると、いつのまにか話が別のほうへ逸れているの」

「話を逸らす、というのは意図的にですか」

「さあ。意図的だったのか、それとも本人にとって当たり前のことだったのか、私には分からない。ただ、気がつくと違う話をしているのよ。まるで、そういう風に生まれついた人みたいに」

彼女はシャツを畳み終え、次の一枚に手をかけた。

「夜遅くに、郵便受けを見ていたことがあったわ」

「郵便受けを、ですか」

「ええ。郵便が来る時間ではないのに、外へ出て、蓋を開けていた。何も入っていないと、しばらくそのまま立っていることもあった」

「何かを待っていたように見えましたか」

老婦人は畳んだシャツを籠に入れ、初めて手を止めて私を見た。

「人は、待っているものがあるときほど、待っているようには見えないものよ」

その言葉は、昨日聞いたものと同じだった。同じ言葉を、彼女はもう一度、確かめるように口にした。まるで、その言葉だけが、彼女の中で唯一形の定まった真実であるかのように。

「昔の話は、みんな少しずつ形が違う。私が今話したことも、本当にそうだったのか、それとも後から私がそう思い込んだだけなのか、もう自分でも分からないところがあるの。だから、あまり真に受けないでちょうだい」

そう言って、彼女は籠を抱えて家の中へ戻っていった。

私は門の前にしばらく立っていた。老婦人の言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。人は、待っているものがあるときほど、待っているようには見えない。それが本当なら、晴臣は何を待って、夜の郵便受けを見ていたのだろうか。

家へ戻り、私は机の上の封筒を手に取った。

封緘の浮きを、もう一度指で確かめる。昨日よりも、その浮きがわずかに大きくなっているように感じた。紙が呼吸でもしているかのように。もちろん、そんなはずはない。湿度の変化か、私の指の力加減の違いか、理由はいくらでも考えられる。それでも、封筒がこの部屋の空気に馴染んでいくにつれて、何かを主張し始めているような気がしてならなかった。

封筒の中央を指の腹で押してみる。紙一枚の硬さの向こうに、もう一段階違う硬さがあった。折り畳まれた紙片か、もっと小さな何かか。それが何であるにせよ、宛名は高瀬晴臣であり、私ではない。

台所の引き出しにしまわれた転送届の控えの束を思い出す。日付順に、きちんと。捨てるより、しまう人間。その人間が、この封筒の中身を知ったとき、どんな顔をするのだろうか。

夜になって、私は机の脇に手帳を広げた。今日聞いた言葉を、そのまま書き写す。管理会社の男の言い淀み。老婦人の繰り返した言葉。荷物が少なかったという申し送り。

書き終えて手帳を閉じたとき、窓の外を宅配の車がゆっくりと通り過ぎていった。ヘッドライトの光が、カーテンの隙間から一瞬だけ壁を撫でる。

私は封筒を、もう一度机の引き出しにしまった。切るのは、まだ早い。そう自分に言い聞かせながら、指先に残る紙のざらつきだけを、しばらく意識していた。

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