第1話 宛名のずれ

郵便受けを開ける前に、私はいつも一拍置く。
理由は自分でもよく分からない。前の部屋に住んでいた頃からの癖だった。鍵を差し込み、金属の擦れる感触を指先で確かめ、それからすぐには蓋を開けない。中に何が入っているかを想像するためではない。開けるという動作が、外のものを自分の生活へ招き入れる行為に思えるからだ。
その日は、段ボールを潰す手を止めたところだった。
玄関脇には、まだ三箱ほど残っていた。底のガムテープを剥がすと、粘ついた糊の匂いが立つ。新居に越して三日目だというのに、部屋の中には荷解きの途中でしか生まれない、仮住まいの空気が残っていた。カーテンは新しいが、窓辺には前の住人が置いていった細い傷がある。床には家具の脚で押された跡があり、壁紙の一隅だけ、陽の当たり方が違って見えた。
窓の外では、夕立が上がったばかりだった。
新興住宅地の道路は、雨に洗われて黒く沈んでいる。向かいの家々はどれも似た形をしていて、白い外壁と低い植え込みの間に、同じような郵便受けが並んでいた。街路樹の葉先から落ちる雫が、一定の間隔で舗道を叩いている。その音だけが、整いすぎた町の静けさに細い傷をつけていた。
私は古い郵便受けの鍵を回した。
転居を機に自分で選んだ、無骨な形の鍵だった。新品の住宅に似合わない、と不動産会社の担当者には笑われたが、握ったときの重さが気に入っていた。鍵は二度、内部で引っかかってから回った。誰かが長い間、同じ手つきで使っていたのだろう。蓋を開けると、薄い紙が金属の底に触れて、かすかに擦れた。
中には、広告と電力会社の案内、それから一通の封筒があった。
最初に違和感を覚えたのは、封筒の重さだった。
新しい郵便物は、紙の張りが指に返ってくる。これは違った。薄く、角がやわらかい。何度も持ち運ばれ、どこかで長く押しつぶされていた紙の感触がある。私は一拍置いてから、それを取り出した。
封筒の端を爪でなぞる。糊はすでに乾ききっていた。封緘の中央だけがわずかに浮いている。湿気を吸って剥がれたのか、それとも一度開けられたものを閉じ直したのか。指先に、紙の毛羽立ちがひっかかった。
表には、私の知らない名前が書かれていた。
高瀬晴臣。
前の住人の名だ。入居の手続きのとき、管理会社から渡された書類にその名前があった。室内に残された小さな管理メモにも、古い表札の裏にも、同じ姓が残っていた。
私は封筒を裏返した。
差出人欄に書かれていた名前を見て、最初は意味を受け取れなかった。
三枝透。
読める文字なのに、名前として頭に入ってこない。漢字の形だけが、蛍光灯の白い下で浮いている。次の瞬間、喉の奥が乾いた。
三枝透。
旧区画の端にある白鷺荘。十年前、そこで暮らしていた男が失踪した。町の案内板に貼られた古い記事の切り抜きで、私はその名前を一度見ていた。記事は日焼けして、肝心の本文の一部が剥がれていたが、見出しには「白鷺荘の住人、行方不明」とあった。
私は封筒を持ったまま、玄関先から動けなくなった。
外で、どこかの家の郵便受けが閉じる音がした。ぱたん、と軽い音だった。私の手の中の封筒は、それよりもずっと重く感じられた。
部屋へ戻り、台所の蛍光灯を点けた。照明が一度だけ明滅した。私はスイッチを切り、もう一度点け直した。白い光の下に封筒を置く。
消印は薄く、日付の数字はほとんど読めない。ただ、現在の郵便局で使われている印とは形が違っていた。角ばった外枠。中央に押された小さな数字。封筒の端には、黒ずんだ仕分け印が残っている。インクは滲み、指で触れれば崩れそうなのに、そこだけは妙に鮮明だった。
私は会社で書類の不整合を調べる仕事をしている。何か大きな問題を見つけるわけではない。日付が一日ずれている、控えの宛名と一覧表の表記が違う、添付されたはずの書類が一枚だけ別の順番になっている。そういう、誰もわざわざ問題にしない程度のずれを拾い上げる仕事だ。
ずれは、単独では何も語らない。
だが一つ見つかると、別のずれが近くにある。
封筒の古さ。失踪者の名前。前住人の住所。仕分け印の形。どれも一つずつなら、偶然で片づけられる。けれど、同じ机の上に並べてしまうと、偶然という言葉のほうが不自然になった。
封を切るべきか迷った。
宛名は晴臣であり、私は彼ではない。勝手に開ければ、ただの誤配では済まない。封筒の中身が何であれ、私には知る権利がない。
その一方で、差出人は十年前に失踪した人物だった。
死んだとは書かれていない。行方不明、としか書かれていない。けれど、十年も姿を見せない人間の名前が、なぜ今、前の住人宛ての郵便物として私の郵便受けに入っているのか。
私は封筒の中央を指で押した。内側に、紙一枚とは違う硬さがあった。薄い紙片か、折り畳まれた何かが入っているようにも思える。
開けるのをやめ、スマートフォンを手に取った。
まず管理会社に電話をかけた。
「お世話になっております。先日入居した高瀬です。郵便物について確認したいことがありまして」
応対した女性は、落ち着いた声で名乗った。私は封筒に書かれた宛名と、前の住人の名前を伝えた。差出人の名までは、すぐには口にしなかった。
「高瀬晴臣様宛て、ということですね」
「はい。前の入居者の方に転送したいのですが、現在のご住所は分かりますか」
「少々お待ちください」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
一枚、二枚ではない。書類の束を探している音だった。紙を持ち上げ、戻し、別の束へ移る。私はその間、封筒の角を指でなぞっていた。乾いた紙のざらつきが、皮膚の内側に残る。
「……確認いたします」
「お願いします」
「高瀬晴臣様が、以前こちらの住宅にお住まいだった記録はございます」
「以前、というのは、どのくらい前でしょうか」
「入居記録上は……申し訳ありません。個人情報に関わりますので、詳しい期間まではお伝えできません」
「転居先だけでも、郵便物を送るために必要なのですが」
「転送の手続きにつきましては、郵便局へご相談いただく形になります。弊社から転居先をお伝えすることはできません」
声は丁寧だった。拒絶する響きはない。だからこそ、どこまでが規則で、どこからがためらいなのか分からなかった。
「高瀬さんが、この町にいた頃のことをご存じの方はいらっしゃいますか」
「申し訳ありませんが、担当者も変わっておりますので」
「そうですか」
「ただ、以前の資料には、特に問題のある入居者だったという記録はございません」
私はその言葉に引っかかった。
「問題があるかどうかを尋ねたつもりはありません」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「……失礼いたしました」
「こちらこそ、すみません。封筒の差出人が、少し気になっただけです」
言ってから、三枝透の名を伝えるべきか迷った。結局、口にはしなかった。相手の反応を確かめるには、まだ材料が足りない。私は礼を言って電話を切った。
画面が暗くなったあとも、耳の奥に紙をめくる音が残っていた。
翌日、私は隣家の老婦人に声をかけた。
洗濯物を取り込んでいるところだった。雨上がりの風に、白いシャツの裾がまだ湿った音を立てている。私は門の前で立ち止まり、前の住人について少し伺いたいのですが、と切り出した。
「ああ、高瀬さんねえ」
婦人はシャツを外しながら答えた。
「きちんとした人だったわよ。ごみの日も間違えないし、玄関先もいつもきれいにしていたし。ここらの人は、そういうところをよく見ているからね」
「長く住んでいたんですか」
「さあねえ。私がここへ来たときには、もういたような気がするけれど。そういうのは、記憶が重なってしまうのよ」
「三枝透という人をご存じですか」
シャツを畳む手が止まった。
止まったのは一秒にも満たなかった。だが私は、その一秒を見逃せなかった。
「……どこでその名前を?」
「封筒の差出人に書かれていました。前の住人宛てのものです」
婦人はシャツの襟を整えた。すでに整っている襟を、もう一度指先で押さえる。
「そう。届いたの」
「ご存じだったんですね」
「名前だけよ。ずっと前に、何かあった人でしょう。白鷺荘の……」
「失踪した人ですか」
彼女はすぐには答えなかった。隣家の軒先から、雨水が一滴落ちた。
「昔の話は、みんな少しずつ形が違うのよ」
「形が違う、というのは」
「誰かに聞いた話と、自分で見た話は違うでしょう。見た話でも、そのときは意味が分からないことがある。後になって、あれはそういうことだったのかもしれないと思う。でも、そう思っただけのことを人に話すと、いつの間にか事実みたいになるのよ」
「では、三枝さんについて、何か見たことがあるんですか」
「見たことがあるかどうかは、もう覚えていないわ」
彼女は私を見た。取り繕った笑顔ではなかった。困っているのか、警戒しているのか、そのどちらとも決められない顔だった。
「高瀬さんは、夜遅くに郵便受けを見ていたわ」
「高瀬さんが?」
「ええ。毎晩ではないけれど。郵便が来る時間ではないのに、外へ出て、蓋を開けていた。何も入っていないと、しばらくそのまま立っていたこともある」
「手紙を待っていたように見えましたか」

「人は、待っているものがあるときほど、待っているようには見えないものよ」
それきり、婦人は洗濯物を畳み始めた。
私はこれ以上尋ねなかった。相手が言葉を閉じる前に、こちらから引くことも必要だった。聞き込みでは、答えを得ることより、どこで答えが止まったかを知るほうが大事な場合がある。
家へ戻ると、玄関脇の郵便受けが目に入った。
私は前の住人が内側に貼った小さな管理メモを、まだ剥がさずにいた。電池切れのときは管理会社へ、という短い注意書きと、鍵の番号らしい数字が鉛筆で書かれている。文字は几帳面で、数字の間隔まで揃っていた。
その人は、物を捨てるより、しまう人だったのだろう。
台所の引き出しから、古い転送届の控えを見つけた。私宛てではない。前の住人が置いていったものらしく、書類の束の中に、日付順に挟まれていた。すぐに戻したが、紙の端に「白鷺」という地名の一部が見えた気がした。
私は封筒を机の上に置いた。
封緘の浮きは、昨日よりも大きく見えた。開けられる。爪を入れれば、簡単に切れる。その気になれば、内容を読んでから元通りに戻せるかもしれない。
けれど、開けた瞬間に、私は単なる誤配の受取人ではなくなる。
封筒の中にある言葉が、誰に向けられたものなのか。その宛先を勝手に引き受けることになる。
私は机の引き出しから、学生時代から使っている薄い手帳を取り出した。表紙の内側には、以前の住まいから持ってきた古い封筒の切れ端を挟んでいる。宛名のない紙だった。昔、誰かに渡されないまま残ったものだ。私はそれを捨てられずにいた。
ページを開き、今日見聞きしたことを書いた。
高瀬晴臣。三枝透。白鷺荘。夜の郵便受け。
それから、封筒の裏にある仕分け印を簡単に写した。角ばった外枠と、中央の数字。書き写してみると、その印は思った以上に古びていた。誰かの手から手へ渡り、途中で何度も止まり、最後にはここへ来た。そう考えると、封筒そのものが、行き先を失ったまま歩き続けているように思えた。
夕方、私は文具店へ向かった。
新興住宅地を抜ける道は、雨の匂いがまだ残っていた。舗道の端にできた水たまりを避けるたび、靴底から湿った音が返ってくる。白いフェンスの並ぶ区画を離れると、道路は少しずつ狭くなり、古い商店の看板や剥がれた広告が目についた。
文具店の店主は、私が差し出した住宅地図を無言で受け取った。
「この町の古い地図はありますか」
「古い、といっても、どのくらいの?」
「十年ほど前のものを」
店主は棚の奥から、薄い地図帳を出した。表紙の角が擦れて白くなっている。私は封筒を胸ポケットから出し、机の端に置いた。
店主の視線が、封筒の表面を滑った。
「前の住人宛てですか」
「そうです」
「開けてはいない」
「はい」
「律儀だね」
「宛名が違うので」
「宛名が違うから、開けない人もいる。宛名が違うから、開ける人もいる」
店主は地図帳を開いた。旧区画の端に、白鷺荘の名前が残っていた。現在の住宅地図では消されている場所だ。取り壊し予定の建物でありながら、地図の中ではまだそこにある。
「白鷺荘は、もうありませんよね」
「建物は、まだある。地図から消えるほうが早いんだよ」
「三枝透という人を知っていますか」
店主は答えず、地図の頁を押さえた。
「知っている、というほどではない。ただ、名前を知っている人は多い。多いのに、話す人は少ない」
「失踪したからですか」
「失踪した人間の話は、残された人間の話になる。残された人間は、自分の都合のいいところだけを覚えている。だから話すほど、本人から遠ざかる」
店主は、封筒を見た。
「それを持って、白鷺荘へ行くつもりかい」
「まだ決めていません」
「決めてから行くと、行かない理由ばかり増えるよ」
私は地図帳を買った。店主は封筒について、それ以上尋ねなかった。会計を済ませて店を出ると、空は薄い赤に変わっていた。雨雲の切れ間から差した光が、濡れた道路に長く伸びている。
私は旧区画のほうを振り返った。
地図に残った白鷺荘の名前が、頭の中に浮かんでいた。
そのとき、古書店の軒先から声をかけられた。
「高瀬さん」
小柄な老婦人が、店先を掃いていた。片岡しずえという名札が、古びた木の看板の脇に出ている。彼女は私の顔ではなく、胸ポケットのあたりを見ていた。
「その封筒、紙を濡らさないようにしたほうがいいよ」
「見えていましたか」
「見えるものは、見えるでしょう」
しずえは箒を止めた。店内には古紙と木の匂いがこもっている。雨上がりの町の湿気が、古い本の背表紙に染み込んでいるようだった。
「三枝透という名前を追っているんですか」
「追っているというほどではありません。前の住人宛ての郵便物が届いただけです」
「それだけのことにしておくなら、郵便局へ持っていけばいい」
「そうするべきだと思っています」
「そう思っている人の顔ではないね」
私は返事をしなかった。
しずえは店の奥へ入り、しばらくして一冊の古い帳面を持ってきた。表紙の革は乾いてひび割れている。彼女はそれを開かずに、両手で支えた。
「名簿は残っているよ」
「何の名簿ですか」
「町内の名簿。十年前のものも、欠けてはいるけれど、まだある」
「三枝さんの名前が?」
「名前は、たいてい残る。人がいなくなってもね。ただし、名前が残っているからといって、その人が正しく残っているとは限らない」
「どういう意味ですか」
しずえは帳面の背表紙を親指で撫でた。
「人は忘れる。忘れるのは仕方がない。でも、記録を捨てるときに順番を間違えると、忘れたのではなく、別のことを覚えた形になる。誰かがいなくなったあと、そこにいたはずの人間関係まで消えてしまうことがあるんだよ」
「前の住人と三枝さんに関係があった、と?」
「私はそう言っていないよ」
「では、何を言っているんですか」
「必要なものは、必要な場所にあるということ。みどり郵便局の古い転送票。町内自治会名簿。それから、白鷺荘の管理人だった人のところ」
しずえは、桑原妙子という名前を口にした。
その前に、ほんの少し間があった。
「妙子さんは何か知っているんでしょうか」
「知っている人は、知っていることを全部話すとは限らない。話さない人が、何も知らないとも限らない」
「それでは、確かめようがありません」
「確かめるために、記録がある」
彼女は帳面を私に渡さなかった。ただ、胸元の封筒へ目を落とした。
「封を切るかどうかは、あなたが決めなさい。けれど、宛名を間違えたまま、正しい場所へ届けたつもりになるのはよくない」
その言葉が、封筒の表面に残った高瀬晴臣の名前と重なった。
私は古書店を出た。
帰り道、夕暮れの光はもう薄くなっていた。新興住宅地の白いフェンスが、濡れた空気の中でぼんやり浮かんでいる。足元の縁石に視線を落としながら歩くと、靴の先に小さな水たまりが映った。そこに、胸ポケットの封筒の白さが一瞬だけ浮かんだ。
家へ戻り、封筒を机に置いた。
私はしばらく立ったまま、それを見ていた。
届いたはずのない手紙が、届いている。
差出人は失踪し、宛名の人物はこの町から姿を消し、私はそのどちらにも関係がない。関係がないはずなのに、封筒は私の郵便受けに入り、私の指に紙のざらつきを残している。
窓の外で、郵便配達の車がゆっくりと通り過ぎた。誰かの家で、蓋が閉じる音がした。
ぱたん。
私は封筒を裏返した。薄い仕分け印が、蛍光灯の下で黒く浮いていた。
その小さな印が、十年前から今までのどこかに、まだ切れずに残っている経路を示しているように見えた。
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