第4話 机の上の湿り

雨が上がったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
夕方になっても石畳は濡れたままで、軒先から落ちる雫が、通りの端で小さな音を繰り返していた。月舟堂の戸を開けると、冷えた空気が床板の隙間から入り込み、湿り気を帯びた木の匂いが鼻に残った。
私は郵便受けから封筒を抜き取り、店の奥へ持っていった。
角形の封筒だった。雨の中へ投げ込まれたわけではないらしいが、紙の一部だけが重く湿っている。左下の角に水分が集まり、そこだけ繊維が膨らんでいた。封の糊は乾ききっておらず、指で触れるとざらりとした紙の粉が付着する。
私は机の上で封筒を四隅から揃えた。
差出人欄には、沢井冬馬の名があった。
十年前に死んだ男の名前だった。
文字は、私の知っている沢井の字に似ていた。整っているというより、崩れないように書かれた字だった。横線の長さはほぼ同じで、文字と文字の間隔も一定している。ただ、最後の払いだけが、ほかの部分よりわずかに長い。書き終える直前になって、手元から何かが逃げていくような払い方だった。
封筒を持ったまま、私はしばらく動かなかった。
悪戯だろう、と考えた。
廃業した店の郵便受けに、死者の名前を書いた封筒を入れる。やる人間がいるとすれば、町の事情をよく知る者だ。竹下悠里なら、月舟堂の前を通る時間も、裏口の戸が風で鳴ることも知っている。彼女が本気で人を驚かせようと思えば、この程度の細工はできる。
だが、紙の匂いがその考えを押し戻した。
封筒から、古いインクの匂いがした。
乾いた黒ではない。まだわずかに艶が残り、紙の繊維の奥で固まりきらずにいるような匂いだった。私は机の引き出しを開け、底にしまった小瓶を取り出した。十年前、月舟堂で使っていた工房製のインクである。蓋を開けると、冷たい金属のような匂いが立った。
封筒の匂いと重なる。
私は小瓶の蓋を閉め、封筒を見た。
「古すぎる」
誰に言うでもなく、口から言葉が落ちた。
悪戯にしては、匂いが古すぎた。
封を切るとき、いつもの手順を崩さないようにした。封筒の角を指で撫で、糊の乾き具合を確かめる。刃物を使わず、薄いへらを差し入れて糊の層だけを剥がした。紙を傷つければ、あとで残るべきものまで失われる。
中から便箋が一枚出てきた。
文章は短かった。
万年筆のペン先が紙へ触れる角度。旧式コンバーターの戻りの鈍さ。修理後、布を当てる前に一度だけペン先を上向きにする癖。どれも、客に説明する修理内容ではない。私が作業台の前で、誰にも見せるつもりなく続けていた手順だった。
「左側から研ぐため、右の切り割りにわずかな偏りがある」
便箋には、そう書かれていた。
「コンバーターの戻りはゴムの劣化ではなく、装着時の角度によるもの。布で拭く前に、ペン先を上にして一呼吸置く必要がある」
文章の最後には、沢井冬馬の名前が記されていた。
しかし、署名を見た瞬間、私は違和感に気づいた。
沢井の字は、最後の一文字が縮む。書き終える前に筆圧がほんの少し弱まり、文字の下半分が内側へ寄る。だが、この署名は縮んでいなかった。似せている。沢井の字を知っている者が、沢井らしく書こうとしている。
私は便箋を机へ置いた。
それでも、文章の内容は正確だった。
筆跡は写せても、修理の癖までは写せない。少なくとも、私がそう思えるほどには。
戸口で、風が鳴った。郵便受けの蓋が金属に触れ、かすかな音を立てる。
私は便箋を裏返した。何も書かれていない。ただ中央より少し下に、黒い擦れがある。インクが乾ききる前に、別の紙を重ねた跡だった。黒い粒子が紙の繊維に沿って細く伸びている。
誰かは、便箋を書いたあとすぐに封筒へ入れなかった。
その間に、別の紙を重ねた。
理由は分からない。だが、この擦れが偶然でないことだけは分かる。万年筆の傷を見抜くときと同じだった。目立つ故障ではなく、正常に見える部分のわずかな違いが、全体の不具合を教える。
私は便箋を封筒へ戻さず、そのまま机の上に置いた。
そのとき、表の戸が開いた。
「蓮さん、いますか」
真柴翠だった。濡れた傘をたたみ、入口の傘立てへ入れる。傘の先から落ちた水滴が、床の上で小さな丸を作った。翠はそれを見て、持っていた布で一度だけ床を拭いた。
「店、開いてるんですか」
「開けてはいない」
「では、閉まってもいない」
「どちらでもいい」
「蓮さんは、いつもそう言いますね。戸を閉めることと、店を閉じることを別に考えている」
翠は奥へ入ると、机の上の便箋を見た。すぐには触れなかった。私の向かいに立ち、紙の端、インクの擦れ、封筒の湿った角を順に見ていく。
「沢井さんの名前ですね」
「そう見えるか」
「名前だけなら、似せることはできます」
「本文は似せられない」
「書いた人は、蓮さんの仕事を知っている」
「それだけではない。私の手順まで知っている」
翠は返事をせず、机の端に置かれた布巾を手に取った。乾きかけたインクが染みた、古い布巾だった。彼女はそれを折り直し、汚れの少ない面を上へ向けた。
「沢井さんは、ペン先を拭くとき、いつも布を二つ折りにしていました」
「知っている」
「書き終えたあと、すぐには拭かなかった。ペン先を上向きにして、少し待っていた」
「知っている」
「でも、蓮さんは知っていることを、知っていると言うだけですね」
「それ以外に何を言えばいい」
「知っていたのに、見ていなかったこともあるんじゃないですか」
店の奥で、雨粒が瓦を叩いた。
私は翠を見た。彼女は目を逸らさなかった。ただ、責めるために言ったのではないことだけが、その顔から伝わってきた。
「沢井は、死ぬ前に何か言っていたか」
「言っていた、というほどではありません」
「なら、何もない」
「蓮さんは、言葉になったものだけを残そうとする」

翠の声は低く、店の湿った空気に静かに沈んだ。
「人は、言う前に手を止めます。帰る前に一度だけ振り返ります。封筒を渡すとき、宛名ではなく裏面を見ます。そういうものを、蓮さんは故障とは呼ばないでしょう。でも、私はそういうところに残るものを覚えています。沢井さんはいつも、修理の話が終わってからすぐには帰らなかった。何か言いたそうにして、けれど蓮さんが工具を片づけ始めると、邪魔をしないように黙った」
「私は、忙しかった」
「知っています」
「店を続けるには、仕事をしなければならなかった」
「それも知っています」
「だったら、何が悪い」
問いが思ったより大きな音になった。
翠は少しだけ視線を落とした。だが、カップを置くときと同じ丁寧さで、言葉を選んだ。
「悪いとは言っていません。忙しい人に話しかけないことが、沢井さんの礼儀だったのだと思います。ただ、礼儀は、受け取る側が気づかなければ、沈黙になります。沈黙は記録されません。記録されないものは、あとから誰かに消されたものと区別がつかなくなる」
私は便箋を見下ろした。
「この封筒は、沢井が書いたものではない」
「そうでしょうね」
「筆跡の最後が違う」
「でも、沢井さんの癖を知っている人が書いている」
「誰だ」
「それを調べるために、蓮さんは今、便箋を机に置いているんでしょう」
翠はそこで一拍置いた。
「リリオで、沢井さんの名前を出した人がいました」
「誰だ」
「名前までは聞いていません。聞いた人間が話したくないときに、こちらから名前を取るのは乱暴です」
「役に立たない」
「役に立つかどうかは、すぐには決めないほうがいいです。町の人は、何かを知っていても、それを事実の形では渡してくれない。カップを置く位置や、話題を変える順番でしか返さないことがあります」
「私はそんなものを証拠とは呼べない」
「蓮さんは、ペン先の音を証拠にするでしょう」
私は黙った。
ペン先が紙をなぞる音は、持ち主によって違う。力の入れ方、止まり方、インクが流れ出すまでの間。私はそれを長年聞き分けてきた。音を記録したことはない。だが、記録しなかったからといって、存在しなかったわけではない。
翠は便箋を封筒の隣へ置いた。
「封筒は、毎月十七日に届くんですか」
「まだ一通だ」
「でも、蓮さんは次も届くと思っている」
「そんなことは言っていない」
「言わなくても、机の上の置き方で分かります」
私は封筒を角に揃えた。便箋は揃えなかった。
「十七日は、沢井さんが最後に月舟堂へ来た日です」
翠の声が少し低くなった。
「それを、なぜ知っている」
「リリオの帳面に残っています。沢井さんが来た日付と、帰った時刻だけ。注文の内容までは書いていません。でも、その日は珈琲を飲まずに帰った。カップを頼んで、湯気が消える前に立った。いつもならペン先を拭いてから帰るのに、その日は布を畳まず、机の端へ置いたままだった」
「そんなことを、十年も覚えていたのか」
「忘れたふりをしていただけです」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かがずれた。
私は人の沈黙を、何もないものとして扱ってきた。修理依頼票に書かれていなければ、ないのと同じだと思っていた。だが、台帳には紙の厚みが残る。書かれていない部分にも、誰かが頁をめくった跡や、何かを抜いた段差が残る。
人間も同じなのかもしれない。
翠が帰ったあと、私は店の奥へ行った。
修理台帳を開く。沢井冬馬の最後の記録は、やはり薄かった。依頼日、インクの色、コンバーター交換。受け渡し欄だけが空いている。紙面には、書きかけの線が途中で途切れたような圧痕があった。
私はルーペを取り出し、頁を斜めから照らした。
文字は読めない。
それでも、書かれていたものが一つだけではないことは分かった。消されたのではなく、上から別の紙を重ねて押し潰されている。頁の端には、古い接着剤の跡もあった。
私は引き出しを順に開けた。依頼票、納品控え、部品の空箱。どれも十年前の閉店の日から動かしていないつもりだった。だが一番下の引き出しだけ、奥行きがわずかに浅い。
指を入れると、金属が触れた。
取り出したのは、一本の万年筆だった。
軸は黒く、手の脂で艶が出ている。ペン先の工房印を見た瞬間、私は息を止めた。沢井冬馬が最後に持ち込んだものと同じ型だった。修理済みの札が付いたまま、コンバーターの戻りだけが妙に鈍い。
私は軸を軽く振った。
内部で、金属が一度だけ鳴った。
小さな音だった。だが、その音は十年前の閉店の日から、ずっとここにあったように思えた。
私はペン先を光にかざした。右側の切り割りが、わずかに開いている。封筒の便箋に書かれていた指摘と一致していた。
修理できていない。
私はその事実を、十年かけて初めて認めた。
棚の奥へ置いたのではない。置き去りにしたのだ。誰かが取りに来るはずの品を、取りに来なかったものとして処理した。帳簿の空白も、受け渡しの日付も、確認しなかった。
万年筆の軸を握る手に、木軸の冷たさが残った。
表の通りで、自転車のブレーキ音がした。
私は戸口へ出た。雨上がりの商店街を、竹下悠里が走り抜けていくところだった。彼女は角を曲がる前に一度だけ振り返った。こちらを見たのか、郵便受けを見たのかは分からない。
石畳に残った水が、夕暮れの光を細く返していた。
店へ戻ると、机の上の封筒が少し斜めになっていた。私は手を伸ばしたが、今度は角を揃えなかった。
死者が戻ってきたわけではない。
戻ってきたのは、私が終わらせたつもりでいた時間だった。
その時間は、古いインクの匂いと、湿った紙の手触りと、軸の中で一度だけ鳴る金属音を連れて、机の上に置かれていた。
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