3話 失踪届と火災記録

鳥居志保が月舟堂の戸を叩いたのは、翌朝、まだ商店街の店々がシャッターを半分しか上げていない時刻だった。

私は前夜、封筒と帳簿を並べたまま、明け方近くまで机に向かっていた。眠ったのかどうかも定かでない。目の縁が重く、光の加減で店の中の埃までが妙にくっきりと見える。そんな朝に、彼女は約束していたとおりの時刻に、一分の狂いもなく現れた。

「篠原さん」

戸口に立った志保は、灰色のパンツスーツに黒い鞄を提げていた。化粧気の薄い顔に、感情の起伏はほとんど見えない。彼女は靴を脱ぐ前に、まず店の中を一瞥した。棚、修理台、埃をかぶった椅子。値踏みをするのではなく、記録を取るような視線だった。

「散らかっています」

私が言うと、彼女は小さく首を振った。

「散らかっているのではなく、時間が止まっているだけです。それは違う」

そう言われて、私は返す言葉を持たなかった。志保はそのまま奥へ進み、修理台の前の椅子に腰を下ろす。鞄から取り出したのは、黒い手帳と、クリアファイルに挟まれた古い書類の写しだった。

「昨日お預かりした修理台帳の写し、目を通しました」

「何か分かりましたか」

「分かった、というより、分からないことがはっきりしました」

志保はファイルを開き、机の上に一枚の紙を置いた。私も自分の帳簿を持ってきて、その隣に並べる。彼女の指先が、紙の端から端へと滑るように動いた。

「沢井冬馬さんの依頼記録は、十年前の三月まで、ほぼ毎月続いています。ところが三月の記録を最後に、それ以降は一切ない。当然です、その頃に亡くなっているのだから。問題は、その『最後の記録』の書き方です」

「薄いページの話ですか」

「それもありますが、もっと単純なことです」

志保は自分の手帳を開き、赤いボールペンで小さく丸をつけた一点を指し示した。

「三月十七日、修理依頼、万年筆一本、コンバーター交換の記載。ここまでは他の月と同じ形式です。ですが、受け渡し日の欄が空白のままなんです。あなたの帳簿には、依頼を受けた日と、修理を終えて渡した日、両方を書く欄がありますね」

「ある」

「他のどの月も、両方埋まっています。沢井さんは几帳面な依頼者だったようですから、受け取りに来なかったということも考えにくい。だとすれば、渡した日を、誰かが書かなかった。あるいは」

「書けなかった」

私が引き取ると、志保はわずかに顎を引いた。肯定とも否定ともつかない、事実だけを認める仕草だった。

「もう一つ、お見せしたいものがあります」

彼女は鞄から別のファイルを取り出した。表紙には、色褪せた庁印の複写がある。

「これは十年前の失踪届の写しです。沢井冬馬さんの奥さん、いや——当時の届出人は、親族という立場で出しています。届出日は三月二十三日」

「死亡じゃなく、失踪」

「そうです。死亡届ではなく失踪届が先に出されている。これ自体は珍しいことではありません。事情によっては、遺体の確認より先に、行方が分からないという届けが先行することもある。ただ」

志保はもう一枚、別の紙を並べた。

「こちらは、当時の消防の記録です。同じ月の下旬、町内の空き家で小さな火災があった。ぼやに近い規模で、負傷者は出ていない。焼失面積もごくわずか。この記録に、沢井さんの名前は出てきません。ただ、現場の住所が――あなたの店から歩いて七分ほどのところです」

私は無言でその住所を見つめた。頭の中で、商店街の地図がゆっくりと開いていく。古い診療所の裏手、当時は取り壊し予定だった空き家の一角。

「関係があると?」

「まだ分かりません。ただ、時系列を並べると、妙な間があります。失踪届が出た三月二十三日より前、三月十七日に何かがあり、その直後、あなたの帳簿の受け渡し欄が空白になった。そして下旬に、店から近い場所で小さな火事があり、記録には沢井さんの名がない。これらは別々の紙に書かれていて、別々の役所や現場が管理している。だから普通は、誰も並べて見ない」

志保はそこで初めて、私の目をまっすぐ見た。

「篠原さん。私はこの奇妙な郵便を、最初は嫌がらせだと思っていました。廃業した店に、死んだ人間の名前で依頼が来る。悪趣味な冗談としては、よくある話です。ですが、こうして紙を並べてみると、これは冗談で片づけられる形をしていない。誰かが、意図的に、複数の記録の継ぎ目をずらしている」

「継ぎ目をずらす、というのは」

「大きな噓をひとつつくのは、目立ちます。だから、それぞれの紙の上では小さな不整合しか作らない。帳簿では受け渡し日だけを空白にする。失踪届では届出日を少し遅らせる。火災記録では名前を出さない。ひとつひとつは、見落とされる程度の小ささです。でも、全部を並べたとき、そこにひとつの空白が残る」

私は帳簿の薄いページに指を置いた。紙の厚みの違いを、もう何度も確かめている。

「その空白に、何があったんです」

「それが分かれば、こうしてあなたのところに来ていません」

志保は淡々と言った。皮肉ではなく、ただの事実として。

「今日、あなたに紙鳩と早潮印刷を回ってもらいたいのは、そういう理由です。封筒の紙とインクの出どころを確かめれば、少なくとも『誰の手を経由したか』は分かる。人の記憶は都合よく変わりますが、紙と印刷の記録は、扱った人間が違えば違う痕跡を残します」

「あなたは同行しないんですか」

「私が行けば、相手は身構えます。あなたなら、昔からの馴染みとして話が聞ける。私は、その後から裏を取る役です」

そう言って志保は立ち上がり、机上の封筒にちらりと視線をやった。私はいつもの癖で、その封筒の角をもう一度、そっと机の縁へ寄せる。志保はその仕草を見て、何も言わずに小さく頷いただけだった。

---

紙鳩の引き戸を開けると、乾いた木の匂いに混じって、古い金属と油の匂いが鼻先を掠めた。

「おや、篠原さんじゃないか」

奥から出てきた乾則夫は、いつもの愛想のいい笑みを浮かべていた。彼は棚の奥から、木箱をひとつ、こちらが尋ねる前に引き出してくる。

「旧式のコンバーターだろう。あんたが訊きに来るとしたら、それしかない」

木箱の中には、古びた真鍮色の部品が並んでいた。私はその中から一本を手に取り、指先で戻りの硬さを確かめる。封筒の中の文が指摘していた、あの鈍い戻りの感触と近い。

「これと同じ型のものを、十年前に月舟堂へ卸したことは」

「あるね。あんたのところと、印刷所と、うちとで、よく品物が行き来していた時期だ。紙も、部品も、この町の中でぐるぐる回っていた」

乾はそう言いながら、在庫帳の表紙を指の腹で撫でた。売り物ではなく、証文を扱うような手つきだった。

「沢井さんという客の名前に、心当たりは」

「沢井さん……」

乾の口調が、わずかに間延びした。返事の速度が、それまでより一拍遅い。

「よく知らないなあ。うちは客の名前より、品物の行き先を覚えるたちでね。誰が何を買ったかより、どの箱がどこへ動いたか、そっちの方が大事なんだ」

「品物の行き先なら、覚えているということですか」

「まあ、覚えているとも、覚えていないとも言えるね」

乾は笑いながら、棚の角を指先で拭った。何かを確かめる仕草ではなく、何かをやり過ごすための仕草に見えた。私はそれ以上追及せず、木箱をそっと元の位置へ戻す。彼はその動きを見て、ほっとしたように在庫帳を閉じた。

---

早潮印刷の作業場は、機械油とインクの匂いが濃く、紙束の角がどこもきっちり揃えられていた。早瀬守は作業台の前で、私を見ると眼鏡の位置を直し、返事より先に紙を一枚手に取った。

「封筒の件だろう」

「紙質を見てもらいたい」

角形封筒を差し出すと、早瀬は光にかざし、指先で表面をなぞった。長い沈黙があった。それは考えている沈黙ではなく、何かを言うかどうかを選んでいる沈黙だった。

「厚みは、昔うちで扱っていたロットに近い。ただ、断定はできない。同じ厚みの紙は、他の工場でも作っている」

「見たことがない、と言うつもりか」

「見たことがないとは言っていない。断定できないと言っている」

早瀬はそう言うと、紙束の端をまた指で揃えた。目線が一瞬だけ、私の後ろの窓へ逸れる。

「蓮、俺は昔からお前に嘘をついたことはない」

「言い切らないことは、噓とは違うのか」

その問いに、早瀬は答えなかった。答える代わりに、水を一口飲んだ。喉が動く音だけが、機械の低い唸りの下で妙にはっきり聞こえた。

---

月舟堂に戻ると、店の前に沢井美和が立っていた。抱えているのは、見覚えのある薄茶色の遺品箱だ。彼女は私の姿を見ると、一度だけ息を整え、それから丁寧に頭を下げた。

「勝手に伺って、すみません」

「かまいません」

私が戸を開けると、彼女は箱を胸の高さに抱えたまま、店の中へ入ってきた。修理台の上にそっと置かれた箱は、角が布で拭われたように傷んでおらず、蓋の合わせ目だけが、長い年月の分だけ少し反り返っていた。

「これは、主人の――」

「沢井さんの遺品ですか」

美和は答える代わりに、蓋に手をかけた。私が身を乗り出すと、彼女の指の動きがほんの一瞬、速くなる。開けるための動きではなく、閉じるための準備のような速さだった。

「中を見せていただけますか」

「見ても……分かるものは、あまりないと思います」

そう言いながら、美和は蓋を持ち上げた。だがその角度は、私の視線がちょうど届かない高さで止まる。中の紙束が、隙間からわずかに覗いた。古い便箋の束と、封を切っていない封筒がいくつか。

「これは、沢井さんが書いたものですか」

「……分かりません」

美和はそう答えると、蓋を静かに、しかしいつもより少しだけ早く閉じた。かちり、と乾いた音が店の中に落ちる。その音が消えるより先に、彼女は箱を抱え直していた。

「今日は、これで失礼します」

引き止める言葉を、私は持たなかった。戸口へ向かう彼女の背中を見送りながら、私は自分の手のひらに残った紙の感触を思い返していた。木箱の匂い、印刷所のインクの匂い、そして今、目の前を通り過ぎていった遺品箱の湿った紙の匂い。三つとも、根は同じところから来ている気がした。

夕方近くになって、店に一人戻った私は、机の上の封筒をもう一度手に取った。乾は言い切らず、早瀬も言い切らず、美和は蓋を閉じることで答えを避けた。誰も嘘はついていない。だが、誰も本当のことを言ってもいない。

その事実だけが、店の奥にある薄い帳簿のページと同じ形をして、静かに私の前に残った。

言葉にされない何かが、この封筒よりずっと先に、この町のどこかへ届いていたのではないか。そう思ったとき、窓の外では商店街の明かりが、ひとつ、またひとつと灯り始めていた。

← 横にスクロールして読み進められます

失踪届と火災記録 - 十七日の封筒 - 誰でも作家life