第2話 リリオの沈黙

夕方の商店街は、雨が上がったあとだけ少し広く見える。
軒先から落ちる雫が、まだ一定の間隔で石畳を叩いていた。水たまりに映った瓦屋根は、通り過ぎる人の足元で何度も崩れ、そのたびに元の形へ戻っていく。月舟堂の前に立ったまま、私はしばらくその様子を見ていた。
店の中には、開いたままの修理台帳と、沢井冬馬の名が書かれた角形封筒がある。机を離れても、視界の端にそれらが残っているような気がした。
リリオへ行くことにしたのは、翠なら封筒を見ても、余計な意味を足さないと思ったからだ。
意味を足さずに物を見る人間は、町の中では珍しい。誰かが何かを言えば、すぐに事情や感情を推測し、推測したものを事実のように扱う。私はそういう会話が嫌いだった。けれど、翠は人の話を聞いたあと、聞いたままの形でしまっておくことができる。
濡れた石畳を踏んで歩く。靴底に水が吸いつき、歩幅がいつもより狭くなった。閉じた店のシャッターには、雨の筋が細く残っている。古い惣菜屋の軒下では、誰かが濡れた段ボールを束ねていた。紙が水を含むと、折り目のところから先に黒くなる。その変化を見ていると、記録も同じように傷むのではないかと思った。
最初は端が濡れ、次に文字の周囲がぼやけ、最後には何が書かれていたかさえ分からなくなる。
リリオの扉を開けると、乾いたベルの音がした。
珈琲の匂いに、濡れた傘と古い木材の匂いが重なっている。奥ではサイフォンが細く鳴り、ガラス管の中で湯が押し上げられていた。翠はカウンターの内側に立ち、布巾でカップの受け皿を拭いていた。客は三人。入口近くに新聞を広げた老人がひとり、壁際に買い物袋を置いた女がひとり、窓際に若い男がいた。
「いらっしゃいませ」
翠は私の名前を呼ばなかった。呼ぶ前に一拍置く、いつもの癖だった。
「珈琲を」
「今日は少し濃くしますか」
「いつものでいい」
「では、いつもの濃さで」
彼女はそう言って、豆を挽き始めた。刃の回る音が、店の中の会話を薄く覆う。私はカウンターの端に座り、封筒を鞄から出した。
翠はすぐには手を伸ばさなかった。
「見てもいいか」
「そのために来た」
「蓮さんは、見せたいときほど、そういう言い方をしますね」
「どういう言い方だ」
「見てほしいのに、確認しているだけのように聞こえる言い方です」
豆を挽く音が止まった。
私は返事をしなかった。翠はそれ以上追わず、湯の入ったサイフォンを火から外した。透明な器の中で、濃い茶色の液体が静かに落ちていく。表面には薄い艶があり、光を受けるたび黒にも赤にも見えた。
封筒をカウンターに置く。翠は差出人欄を見た。沢井冬馬の名を目で追い、次に封の折れ筋、最後に消印へ視線を移す。驚いた顔はしなかった。ただ、受け皿の縁を布巾で一度なぞった。
「沢井さんの字ですね」
「そう見えるか」
「見える、というより、覚えています。沢井さんは名前を書くとき、最後の払いを少し長く引きました。書き終えたあと、文字を見直すために、すぐには手を離さない人でした」
「死んで十年になる」
「はい」
「それでも覚えているのか」
「覚えているものは、時間では薄まりません。別のものが上に重なって、見えにくくなるだけです」
翠は封筒を裏返した。
「消印ははっきりしません。濡れたせいで潰れています。でも、投函されたときから濡れていたわけではなさそうです」
「なぜ分かる」
「封の糊が浮いていません。雨の中で投函されたなら、角のほうから紙が波打ちます。これは投函されたあとに湿ったものです。郵便受けの中か、誰かの鞄の中かは分かりませんが」
私は封筒を見た。たしかに左下の角だけ、ほかより湿り気を含んでいた。郵便受けの底には雨が入り込む隙間がある。だが、投函する人間がそこを知っているとは限らない。
「竹下なら知っている」
「竹下さんは、月舟堂の郵便受けをよく見ています」
「見ているのか」
「配達の人は、郵便受けを見ます。中身を入れるためだけではありません。口が塞がっているか、雨が溜まっていないか、前の郵便が残っていないか。あの人はそういうところをよく見ています」
「それなら、彼女が入れた可能性もある」
「ありますね」
翠は否定しなかった。珈琲をカップへ注ぐ。液体が白い磁器に触れる音はほとんどなく、ただ湯気だけが立ち上がった。
「ただ、竹下さんがこれを入れたとしても、書いた人間が彼女とは限りません」
「筆跡を写した誰かがいる」
「そうでしょうか」
「封筒の中身を見れば分かる。私の修理の癖が書かれている。ペン先の研ぎ方、コンバーターを組み込む角度、布を当てる順番。外から見て分かることじゃない」
「沢井さんは、蓮さんの仕事を長く見ていました」
「客が修理台の横に立つことはない」
「立たなくても、見えることはあります。待っている間に、鏡へ映った手元を見る人もいる。受け取ったペンを使って、書き味を確かめる人もいる。沢井さんは、そういう細かなことを覚える人でした」
「死ぬ前に書いたものかもしれないと言いたいのか」
「そうは言っていません。私は、封筒の字が本人かどうかをまだ決めていないだけです」
「だが、あなたは沢井の字だと言った」
「癖が似ている、と言ったんです。似ていることと、本人が書いたことは同じではありません」
翠はカップを私の前へ置いた。受け皿を拭いてから置くので、磁器が木のカウンターに触れる音さえ整っている。
「沢井さんは、ここでよくペン先を拭いていました」
「聞いたことがある」
「聞いたことがある、ではなく、見ていたはずです。いつも同じ布を使っていました。濃い藍色の布で、角がほつれていた。書き終えると、まずペン先を上へ向ける。それから一呼吸置いて、布を二つ折りにして、先端だけを一度拭く。蓮さんも知っていますね」
「修理の受け渡しで何度も見た」
「沢井さんは、あれを人前で必ずやりました。家でも同じだったのかもしれません。けれど、店でやるときは少しだけ丁寧だった。誰かに見られることを意識していたのだと思います」
「何を見せたかった」
「そこまでは分かりません」
翠はそう言いながら、カウンターの下から小さな紙ナプキンを一枚出した。折り目を開くと、鉛筆で短い文字がいくつか書かれている。
沢井冬馬。月舟堂。十七日。
その下に、いくつかの時刻と、人の名前の頭文字が並んでいた。
「これは何だ」
「今日、店で聞いたことです」
「客の話を記録しているのか」
「全部ではありません。覚えておく必要があるものだけです」
「覚えておく必要があるかどうかを、誰が決める」
「私です」
翠は紙ナプキンを指先で押さえた。
「町の人は、聞かれたことには答えます。でも、聞かれなかったことは話しません。沢井さんの死んだ頃もそうでした。誰も『もう済んだ』とは言わなかった。ただ、別の話を始めた。天気の話や、店の跡地の話や、町内会費の話です。話題は途切れないのに、沢井さんの名前だけが途中で落ちる。そういう沈黙は、偶然ではありません」
「誰が何を隠している」
「隠している人が一人とは限りません」
「それでは何も分からない」
「蓮さんは、分からないものをすぐ一つにまとめようとしますね。故障なら原因は一つであるべきです。けれど人が黙るときは、同じことを別々の理由で黙ることがあります。怖いから黙る人もいる。守るために黙る人もいる。自分が見なかったことにしたくて黙る人もいる。それらが重なると、外からは一つの沈黙に見えます」
「記録には残らない」
「残らないから、覚えている人間が必要なんです」
その言葉は、珈琲の湯気が消えるよりも長く、カウンターの上に残った。
翠は紙ナプキンを私のほうへ押した。
「町内会館で、沢井さんの死んだ頃に書類を抱えている人を見たという話がありました。誰かは分かりません。見た人も、顔を見たわけではないと言っています。ただ、雨の日の夕方、古い帳面を何冊か重ねて持っていた。濡れないように風呂敷で包んでいたそうです」
「それだけか」
「古い診療所でも、夜に帳面をめくる音を聞いた人がいます。診療所はもう閉まっていますが、当時は裏口を町内の人に貸していました。誰かが何かを調べていたのかもしれない。あるいは、ただ保管していただけかもしれません」
「そんな曖昧な話を、なぜ私に持ってくる」
「蓮さんが、曖昧なものを嫌うからです」
「嫌いなものを渡しているのか」
「嫌いだから、見落とさないでしょう」
私は紙ナプキンを見下ろした。鉛筆の線は細く、時刻の横に小さな丸がついている。翠は人の話を聞きながら、声の調子ではなく、話題が変わった瞬間を記録しているのだろう。
店の奥で、カップが皿に触れた。誰かが沢井の名を口にしたらしい。
聞き取れなかった。だが、その直後に店内の空気がわずかに沈んだ。新聞をめくる音が止まり、窓際の男が椅子を引いた。翠はそちらを見なかった。見ないまま、カウンターの上の紙ナプキンを一枚折り直した。
「今のは誰だ」
「分かりません」
「聞こえなかったのか」
「聞こえました。ただ、名前を呼ばれたことと、誰かがその名前を聞かれたくなかったことは、別の話です」
「あなたは、そういうことまで覚えているのか」
「覚えてしまうんです。店をやっていると、注文より先に顔色を見ることがあります。カップを置く位置がいつもより手前なら、早く帰りたい。砂糖を入れずに混ぜるなら、考え事をしている。言葉はあとから変えられますが、手の動きは先に出ます」
「万年筆と同じだな」
「そうかもしれません。道具は、使う人より先に疲れ方を見せます」
翠はそこで初めて、封筒の中の便箋を手に取った。紙の端を撫で、裏面を確認する。
「裏にも何かあると思いますか」
「沢井は重要なことを封筒の内側に書く癖があった」
「それを、蓮さんは知っていた」
「修理の控えに残っている」
「では、なぜ今まで探さなかったんですか」
問いは静かだった。責める声ではない。だからこそ、逃げる場所がなかった。
私は珈琲を飲んだ。苦味が舌の奥に残り、喉の乾きを隠さなかった。
「死んだ人間の封筒を、修理依頼だと思っていたからだ」
「今は?」
「分からない」
「分からないままでも、見ておくべきものはあります」
翠は封筒を私へ返した。指先が触れた瞬間、紙の冷たさが戻ってきた。
「沢井さんは、本題に入る前に必ず一拍置きました。蓮さんが修理の説明を終えても、すぐには帰らなかった。言いたいことがあるのに、相手の手を止めるのを嫌がる人でした。だから、紙に書いた。書けば、相手が忙しくてもあとで読めるから」
「私は読まなかった」
「まだ、読んでいないだけです」
「同じことだ」
「違います。読まないと決めたことと、読む機会を失ったことは、同じではありません」
翠の声は柔らかかったが、その言葉だけは退かなかった。
店を出ると、雨の匂いがまた強くなっていた。雲は低く、瓦屋根の向こうに灰色の層を作っている。私はリリオから月舟堂へ戻る道を、いつもよりゆっくり歩いた。
濡れた石畳は、靴を置くたびに別の光を返した。通りの端では、誰かが店先の傘立てを整えている。閉じた店のシャッターの下から、明かりが一本だけ漏れていた。町はまだ暮らしの途中にあり、誰かが夕飯を作り、誰かが帳面を閉じ、誰かが言わなかったことをしまい込んでいる。
月舟堂の前に着くと、郵便受けの蓋が少し開いていた。
風のせいかもしれない。誰かが触れたのかもしれない。
私は手を伸ばしかけて、止めた。
店へ入り、机の上の封筒を取り出す。角を揃え、封の折れ筋を確かめ、便箋を裏返した。紙の裏には何も書かれていなかった。ただ、中央より少し下に、細い指の跡のような黒い擦れがある。
インクが乾ききる前に、何かが触れた跡だった。
私はその擦れをルーペで覗き込んだ。黒い粒子が紙の繊維に沿って伸びている。誰かが便箋を重ねたのだろう。あるいは、封筒へ入れる前に、別の紙を上へ置いたのかもしれない。
理由はまだ分からない。
だが、店の奥で開いた修理台帳の薄い頁と、手の中の便箋の擦れが、同じ方向を向いているように見えた。
人は、言葉を消すために紙を破るとは限らない。
別の紙を上へ重ね、読めない形に整え、そこに何もなかったような顔をして、箱や引き出しへ戻すこともある。
私は封筒を帳簿の横へ置いた。今度は角を揃えなかった。
少し斜めのまま、そこに置いておいた。
何もないはずだった空白が、初めて、こちらを見返しているように思えた。
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