第1話 雨上がりの角形封筒

雨は昼過ぎに上がっていたが、石畳にはまだ濡れた色が残っていた。夕暮れの光が水たまりの縁だけを白く光らせ、月舟堂のシャッターの隙間から、湿った紙とわずかな鉄錆の匂いが漂い出している。私はその匂いを、店を閉めてからもう何百回と嗅いできたはずだった。慣れているつもりでいた。
郵便受けが小さく鳴ったのは、私が奥の作業台でルーペを磨いていたときだった。金属同士が触れる音ではない。紙が金属の縁を滑って落ちる、あの独特のこすれ方だった。修理の依頼品を受け取るたび、包みの重さや動きの癖でおおよその中身がわかるようになっていた自分に、いまさら気づかされる。
戸口へ出て郵便受けの蓋を開けると、指先にまず冷たさが触れた。雨に晒されたわけではないのに、紙自体がひどく湿っているように感じられた。角形の封筒だった。宛名は月舟堂様、とだけ書かれている。裏を返す。差出人欄の文字を見た瞬間、私は自分の指先が止まるのを感じた。
沢井冬馬様。
十年前に死んだ男の名前が、几帳面な字で記されていた。
払いの角度、止めの強さ、字画の間隔。それは間違いなく、私が何十年分もの帳簿と依頼票の中で見慣れてきた癖字だった。誰かが真似たのだとしても、これほど正確に、彼の呼吸の仕方まで写し取ることができるとは思えなかった。
最初に浮かんだのは、単純な苛立ちだった。町の誰かが悪ふざけで出したのだろう。この商店街には、閉店した店の郵便受けに冗談の郵便を放り込むような人間がいてもおかしくない。配達員の竹下悠里なら、この店の前を自転車で通る時刻も、裏口の戸が軋む角度も知っている。彼女がその気になれば、こんな悪戯くらいわけもないはずだった。
そう結論づけて、私は封筒を机の上に放り出そうとした。だが、指先に残る紙の質感が、その結論を許さなかった。
封を切る前に、匂いを確かめる。これは癖というより、もう体に染みついた手順だった。古い依頼品を受け取ったとき、まず匂いを嗅ぐ。インクの種類、保管されていた場所の湿度、持ち主の生活の匂い。それらが万年筆の不具合の原因を教えてくれることがある。
封筒からは、乾ききる前のインクの匂いがした。
それは、いま流通しているどの万年筆用インクとも違う、もっと重く、鉄分の強い匂いだった。修理台の奥の引き出しに、私はまだ何本かの古いインク瓶を仕舞い込んでいる。十年前、この店でしか扱っていなかった特定の工房のインクだ。その瓶の蓋を開けたときの匂いと、いま手の中にある封筒の匂いが、恐ろしいほど正確に重なっていた。
悪戯にしては、匂いが古すぎる。
その事実だけが、机の上に取り残された小さな棘のように、私の中に刺さったまま抜けなかった。
封を切る手が、いつもより慎重になっているのが自分でもわかった。角形封筒の内側から出てきたのは、一枚の便箋だった。文字は少ない。だが、そこに書かれている内容を読み進めるにつれて、私は自分の背中が冷えていくのを感じた。
――ペン先の開きが、右にわずかに寄っている。修理の際、左側から研ぐ癖のせいだと思われる。旧式コンバーターの戻りが鈍いのは、内部のゴムパッキンの劣化ではなく、組み込みの際の角度による。使用後、布で拭く前に、いったんペン先を上向きにして一呼吸置く癖があるように見受けられる。

それらはすべて、私自身の修理の癖だった。客に見せることのない、道具と自分だけが知っている手順だった。誰かがそれを見ていたのだとしても、これほど正確に言葉に置き換えられるはずがない。まるで、私が万年筆を直しているところを、すぐ隣で長い時間見つめ続けていた者にしか書けない文章だった。
私は便箋を机に置き、無意識のうちに封筒の角を指先で揃え直した。これも癖だ。物が斜めに置かれていると落ち着かない。帳簿の端、依頼票の角、修理台の道具の並び。すべてを几帳面に揃えることで、自分の頭の中も整理できるような気がしていた。だが今夜ばかりは、いくら角を揃えても、指先の震えは収まらなかった。
私は店の奥にある棚へ向かった。埃をかぶった段ボール箱の陰に、あの帳簿が眠っている。廃業してから一度も開いていない、修理台帳だ。表紙を持ち上げただけで、古い紙とかすかな黴の匂いが立ちのぼった。ページをめくる指先が、乾いた音を立てる。
依頼日、依頼者名、使用インクの色、部品交換の履歴。若い頃、師匠にあたる先代の職人から、記録は道具と同じくらい大切にしろと叩き込まれた。壊れたものを直すことは技術の問題だが、それを記録し損ねれば、直した事実そのものが消えてしまう。人の記憶は薄れるが、紙に残した文字は薄れない。そう信じて、私はこの店を続けてきたはずだった。
沢井冬馬の名を探すのに、時間はかからなかった。彼は月に何度も通ってくる常連客で、依頼の回数も多かったから、帳簿の中にいくつもの記録が残っている。だが、最後の記録に指が触れた瞬間、私は違和感に気づいた。
紙の厚みが違う。
他のページと比べて、そこだけがわずかに薄い。触れた指先が、微妙な段差を感じ取る。まるで、一枚だけ別の紙が差し込まれ、元のページが抜き取られたかのような手触りだった。日付を目で追う。修理の記録はほぼ毎月続いているのに、ある一点だけ、不自然な空白が挟まっている。
その空白の直後の日付が、十年前の閉店の日と近いことに気づいたとき、私は帳簿を持つ手を止めた。
紙の余白を見つめる。何も書かれていないその部分に、かつて誰かの手が書き込んでいたはずの文字の圧痕が、わずかに残っているような気がした。それは目に見えるものではなく、指先の記憶の中だけにある感触だった。
私はその余白に手のひらを押し当てた。冷たい紙の感触が、じっとりと掌に染み込んでくる。何かを確かめようとしているのに、確かめるべきものの輪郭がまだ見えてこない。ただ、自分の見落としが、この帳簿の薄い頁の中で、まだ息をしているような気配だけが、はっきりと感じられた。
窓の外では、夕暮れが藍色に沈み始めていた。商店街の明かりが一つ、また一つと灯っていく。私はしばらくの間、その明かりを眺めながら、封筒と帳簿を交互に見比べていた。
死んだはずの男の名で届いた依頼。自分にしか書けないはずの修理の癖。帳簿に残る不自然な空白。それらがどうつながっているのか、まだ何もわかっていない。だが、十年前にこの店を閉めた日、自分が確かに何かを見落としたという感覚だけが、今夜初めて、はっきりとした重みを持って胸の奥に落ちてきた。
見落としたものは、消えてなどいなかった。ただ、私が見ないふりをしていただけだ。
封筒を机の角に揃え直しながら、私は次の十七日を、生まれて初めて恐れながら待つことになるのだと悟った。
← 横にスクロールして読み進められます
