第5話 印刷所の匂い

早潮印刷へ向かう道は、商店街の表通りを抜け、古い診療所の裏手を回る細い路地に続いている。
雨は上がっていた。だが、瓦屋根から落ちる雫がまだところどころで石畳を濡らし、歩くたびに靴底から水の音が返ってくる。志保は私の半歩前を歩いていた。黒い手帳を片手に持ち、時折、通りの角や店先の時計へ視線を向ける。
「印刷所まで、あと何分ですか」
「歩けば七分ほどです」
「十年前の火災記録では、空き家から早潮印刷まで六分。月舟堂からは七分。地図上の距離ではなく、実際に歩いた時間を確認しておきたいんです」
「それが封筒と関係するのか」
「まだ分かりません。だから歩きます」
志保はそう言って、歩幅を変えなかった。彼女の靴音は一定している。水たまりを避けるときだけ、わずかに速度が落ちる。感情ではなく、地面の状態に合わせているような歩き方だった。
私は路地の壁に残る雨筋を見た。古い診療所の外壁はところどころ剥がれ、白い塗料の下から灰色の下地が覗いている。かつてここには、冬馬が通っていた。翠の話では、冬馬は月舟堂だけでなく、診療所の待合でも何かを書いていたという。
何を書いていたのかは分からない。
ただ、彼は書く場所を選んでいた。人の目が届かない場所ではなく、人の目が届きそうで届かない場所を。
「沢井さんは、ここを通っていましたか」
志保が訊いた。
「何度か見たことはあります。診療所へ行く用事があったのかもしれません」
「用事のある人間は、同じ道を何度も選びません。近道なら別ですが、ここは表通りより遠い」
「冬馬は、遠回りを嫌う人間ではなかった」
「そういうことを、もっと早く聞いておけばよかったですね」
「何を」
「本人の生活です。どこを歩き、どこで立ち止まり、何を避けていたか。書類には名前と日付しか残りません」
志保がそんな言い方をするのを、私は初めて聞いた。彼女はいつも、記録の不足を記録の不足として扱う。そこに悔しさを混ぜることはないと思っていた。
「記録にないものを、あなたはどう扱う」
「記録にないからといって、なかったことにはしません。仮置きします。証言、痕跡、動線。確定しないものは確定しないまま並べる。急いで意味を与えると、あとで事実のほうが歪みます」
「人間は、そんなにきれいに待てない」
「書類は待てます」
「人間の話をしている」
志保は答えなかった。古い診療所の角を曲がり、錆びた看板の下を通り過ぎる。軒下に溜まった水が、風に押されて細く流れた。
早潮印刷の戸を開けると、機械油と紙の匂いが混じった空気が押し寄せてきた。
印刷機は奥で低く唸っていた。大きな鉄の塊が一定の間隔で動き、ローラーの間を紙が通るたび、乾いた擦過音が重なる。刷り上がった紙束は、どれも角をきっちり揃えられていた。紙の側面が白い線になって並び、そこだけ時間が止まっているように見える。
早瀬守は作業台の前に立っていた。
私を見ると、眼鏡の位置を直した。志保へ視線を移し、もう一度、眼鏡の縁に触れる。
「蓮が刑事を連れてくるとは、珍しいな」
「刑事ではありません。生活安全課です」
志保が言った。
「それは、もっと怖い言い方だね」
守は笑ったが、笑い声は印刷機の音にすぐ消えた。
「封筒の紙を見てもらいたい」
私は鞄から角形封筒を取り出し、作業台へ置いた。守はすぐに手を伸ばさなかった。差出人欄を見て、紙の端を見て、それから指先で封の折れ筋を撫でる。
「沢井冬馬」
守の声は低かった。
「知っている字か」
「字のことを訊いているのか、名前のことを訊いているのかで答えが変わる」
「どちらもだ」
「名前なら、知っている。字は……似ている」
「似ているだけか」
「似ているものを、本人の字だと決める理由はない」
守は封筒を光にかざした。紙の繊維が透け、薄い灰色の影を作る。親指が紙目を確かめるように往復した。
「この紙は、昔うちで使っていたものに近い」
「近い、ではなく、同じかどうかを訊いている」
「紙は同じでも、保管場所が違えば変わる。湿気を吸えば繊維が膨らむ。束の下にあったか、上にあったかでも手触りが違う。古い紙を見て、製造元だけで話を終えるのは雑だよ」
「早瀬さん」
志保が静かに口を挟んだ。
「この封筒と同じ紙を、十年前の三月に納品した記録はありますか」
守はすぐに答えなかった。作業台の端に置かれた伝票を一枚ずらし、その下の紙を見た。そこには何も書かれていないようだったが、守はしばらく目を落としていた。
「三月の納品記録は、残っています」
「どこに」
「帳簿と、控えが別々に」
「別々になっている理由は」
「納品先ごとに整理したからです」
「月舟堂宛ての記録は」
「あります」
守は引き出しを開けた。中には古い伝票が束ねられ、輪ゴムで三つに分けられていた。彼は束の角を揃え、上から順に数え始める。指先が一枚ずつ紙を送るたび、インクの乾いた匂いが立った。
「三月十二日。月舟堂、角形封筒一束。三月十五日、紙鳩、部品納品。三月十七日……」
そこで守の指が止まった。
「三月十七日は?」
志保が訊いた。
「記録上は、納品なし」
「記録上は、という言い方をしましたね」
守は眼鏡を直した。今度は笑わなかった。
「印刷所には、出荷したものと、出荷しなかったものがあります。記録に残るのは、出荷したものです」
「では、記録に残っていないものがある」
「そういう意味ではありません」
「今の言葉は、そう聞こえました」
志保は黒い手帳を開いた。メモを取る前に、一度だけ息を止める。その小さな間を、私は見ていた。
守は伝票の束を閉じた。
「蓮。お前は、何を探している」
「封筒の出どころだ」
「それだけか」
「それ以外に何がある」
「お前は昔から、物の不具合だけを見ていた。ペン先が曲がっていれば、曲がった理由を探す。インクが出なければ、詰まった場所を探す。けれど、人間が何かを隠すときは、壊れた部品みたいに一か所へ集まらない。紙を別の束へ混ぜる。日付を一日ずらす。誰かに頼んで、見なかったことにしてもらう。そうやって、どこにも決定的な傷を残さない」
「知っているのか」
「何を」
「冬馬のことだ」
守は答えず、作業台に置かれた封筒を見た。印刷機が奥で一度、大きく鳴った。
「知っていることはある。だが、知っていることを全部言えばいいとは限らない」
「言わない理由が、守るためだと言いたいのか」
「守るという言葉は便利だ。自分の臆病さにも使える」
「なら、あなたは臆病だった」
「そうだろうね」
その返事があまりに早かったので、私は一瞬、言葉を失った。
守は紙束の角を揃えた。だが、何度揃えても、一枚だけがわずかに外へ出る。彼はそれを押し戻し、また伝票を数えた。
「冬馬は、封筒を作らせたことがある」
「いつ」
「十年前の三月より前だ」
「何通」
「一束」
「誰宛てだ」
守はそこで目を逸らした。
「具体例をひとつだけ外す癖は、昔から変わらないな」
私が言うと、守は苦く笑った。
「お前も、見ていたんだな」
「見ていた。意味は分からなかった」
「意味なんて、あとからしか分からないものだ」
「今なら分かるのか」
「分からない。だが、あのとき分からないままにしたことが、今も紙の上に残っている。それだけは分かる」
志保が封筒を手に取った。
「早瀬さん。こちらの封筒に使われている紙は、十年前に作られたものですか。それとも、現在の紙に古いインクを使ったものですか」
守は封筒の匂いを嗅いだ。私と同じように、紙へ顔を近づける。ただし彼は、匂いを嗅いだあと、目を閉じなかった。
「紙は古い。インクも古い。けれど、封筒自体が十年前に作られたとは限らない」
「どういうことですか」
「印刷所には刷り損じや余りが残る。出荷されなかった封筒を、あとで使うこともある。紙とインクが古くても、宛名を書いたのは最近かもしれない」
「宛名を書いた人物に心当たりは」
「ある」
守はそう言ってから、伝票の束を引き出しへ戻した。
「だが、言うつもりはない」
「理由は?」
「言えば、誰かが壊れるからだ」

私は封筒を取り上げた。
「もう壊れている」
守の手が止まった。
「冬馬は死んでいる。帳簿は抜かれている。失踪届と火災記録は噛み合わない。あなたはそれを知りながら、紙を揃えて、印刷機を動かし続けた」
「印刷機は、紙が入れば動く」
「人間は?」
「人間は、紙ほど正確じゃない」
「だから、言わなかったのか」
守はしばらく黙っていた。印刷機の音が、私たちの間に一定の間隔で落ちてくる。紙が送られ、ローラーが回り、また紙が送られる。
「蓮。お前は店を閉めた日、冬馬の万年筆を見落とした」
私は守を見た。
「なぜ知っている」
「お前が、あのペンを探していたからだ」
「探していた?」
「閉店の翌日、お前から電話があった。『修理済みの一本がない』と。だが、その電話は途中で切れた。お前は何も訊かなかった。俺も何も言わなかった」
「何を言うつもりだった」
「冬馬が、あのペンを取りに来たことはない。だが、取りに来なかったと記録する理由もなかった」
「あなたは、受け渡しの記録を作らなかった」
「作れなかった」
守はその言葉を、私が以前使ったのと同じ調子で返した。
「作れなかったんじゃない。作らなかったんだ」
「そうだ」
「誰に頼まれた」
守は答えなかった。
志保が机上の伝票を一枚取り上げた。紙の角を揃え、裏返し、印刷のない面まで確認する。
「早瀬さん。三月十七日の納品記録はありません。ただ、三月十八日の伝票に、封筒一束を納品した記録があります。納品先は月舟堂。数量は一束。受領印がありません」
守の顔から、笑みが消えた。
「それは……」
「受領印がないのに、納品済みとして処理されている。誰が書いたか、確認できますか」
「私の字ではない」
「では、誰の字ですか」
守は伝票を見た。紙面に記された数字を、まるで古い傷を確かめるように指でなぞる。
「沢井さんの字に似せてある」
「封筒の差出人欄と同じですか」
守はしばらく言葉を探した。
「同じではない。だが、同じ人間が書いた可能性はある」
「具体例をひとつ、外しましたね」
私が言うと、守は目を伏せた。
「三月十八日の夕方、誰かがここへ来た。封筒を受け取り、受領印を押さずに持っていった。俺は見た。だが、それが誰だったかを言えば、あの家の中のことまで話さなければならなくなる」
「冬馬の家族か」
「家族だけではない」
「誰だ」
守は答えなかった。
印刷機が止まった。急に音がなくなり、作業場に紙の匂いだけが残った。乾いたインクの黒い匂い。湿りを含んだ古い紙の匂い。その二つが混ざり、喉の奥に薄い膜を作った。
そのとき、裏口から翠が入ってきた。
「ここでしたか」
「どうして来た」
「リリオを閉める前に、少しだけ寄りました」
翠は手にしていた紙袋を作業台へ置いた。中から小さなメモ帳を取り出し、何枚かの紙片を並べる。
「冬馬さんのことを話していた人がいました。あの人は、書く場所によって紙を変えていたそうです。月舟堂では薄い修理票、リリオでは少し厚い便箋、診療所では帳面の切れ端。けれど、最後の一文字だけは、どこでも縮んだ」
「癖字の話なら、もう知っている」
「知っていることと、使えることは違います」
翠は封筒を見た。
「この差出人欄は、冬馬さんの字に似せている。でも、似せた人は、冬馬さんが書く場所を知らない」
「なぜ分かる」
「最後の払いが長いのに、文字全体が紙の中央へ寄りすぎています。冬馬さんは便箋を斜めに置く人でした。だから、行の終わりが少しずつ右へ逃げる。この字は、見た目だけを写している。書いているときの身体の向きまでは写せていません」
守が小さく息を吐いた。
「翠さんは、よく見ているね」
「見ていたのに、言わなかった人もいます」
守は何も返さなかった。
私は封筒を持ち上げ、紙目を指先で確かめた。早潮印刷の紙。十年前のインク。受領印のない伝票。そして、冬馬の癖を知っている誰かが書いた文字。
「この封筒は、ここで作られた」
「紙とインクはね」
「宛名を書いたのは、ここに来た人間ではない」
「そうでしょう」
「なら、誰かが封筒を持ち帰ったあとで、冬馬の名を書いた」
守は目を伏せたまま、静かに言った。
「誰かが、冬馬さんの名を借りている」
「なぜ」
「名前が必要だからだ」
「何のために」
守は答えなかった。
代わりに、作業台の端から一枚の刷り損じを取り上げた。印刷面には、途中で切れた罫線と、薄く残る古いインクの跡がある。守はそれを裏返し、私の前へ置いた。
裏面に、鉛筆で日付が書かれていた。
三月十七日。
その下に、受領印の位置を示す小さな四角がある。だが、印は押されていない。
私はその紙を見つめた。空白は、何もない場所ではなかった。押されなかった印、書かれなかった日付、渡されたのに残らなかった品。その一つひとつが、同じ方向へ伸びている。
早潮印刷を出ると、夕方の商店街はすでに薄暗くなっていた。
雨上がりの石畳に、店々の明かりが細く映っている。志保は私の隣を歩き、翠は少し後ろからついてきた。誰もすぐには口を開かなかった。
古い診療所の前を通り過ぎたとき、二階の割れた窓から風が抜けた。紙をめくるような音がした。
私は足を止めた。
「どうしました」
志保が振り返る。
「冬馬が、ここで書いていたという話があった」
「見に行きますか」
「今はいい」
「怖いんですか」
「違う」
「では、なぜ止まったんです」
私は答えようとして、言葉が出てこなかった。代わりに、手の中の封筒を見た。紙の繊維が指先に触れ、古いインクの匂いがわずかに立つ。
「まだ、順番が違う」
志保は私を見た。
「何の順番ですか」
「紙が届いた順番と、記録が消えた順番が違う。そこを合わせないと、誰が何をしたのか分からない」
「それを、今までの篠原さんなら、道具の不具合として処理していましたね」
「人間の不具合は、部品を交換できない」
「だから記録を並べるんです」
志保は手帳を閉じた。
「並べれば、誰かが自分で口を開く位置まで追い込めます」
「追い込むのか」
「追い込まない。逃げ道をなくすだけです」
その言葉が、早瀬の作業台に残った一枚の伝票と重なった。
月舟堂へ納品された封筒一束。受領印のない記録。十年前の三月十七日。冬馬の名を写した差出人欄。
私は歩き出した。
背後で、翠が紙袋の中身を整える音がした。志保の靴音が一定の間隔で続く。濡れた石畳は夕暮れの光を返し、私たちの影を細く伸ばしていた。
月舟堂へ戻ると、郵便受けの中に新しい封筒が入っていた。
差出人欄には、沢井冬馬の名。
私は封筒を取り出し、角を揃えた。
だが、すぐには封を切らなかった。
紙の匂いの奥に、早潮印刷の作業場で嗅いだものと同じ、古いインクの乾いた気配がある。けれど今度は、その下に別の匂いが重なっていた。白い布。遺品箱。長く閉じられた引き出しの木の匂い。
誰かが、冬馬の名を借りている。
その誰かは、冬馬の文字だけでなく、冬馬が残した場所まで知っている。
私は封筒を机の中央に置いた。角は揃えたが、手は離さなかった。
印刷機の音が、まだ耳の奥で続いていた。
紙が送られ、ローラーが回り、書かれなかったものだけが、次の頁へ押し出されていくようだった。
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