第9話 地下書庫の匂い

その夜、灯籠堂の帳場は、昼間の騒乱が嘘のように静まり返っていた。雨戸はすべて下ろされ、古書特有の乾いた匂いと、微かに残る湿った土の香りが混ざり合っている。霧島灯子は一人、預かり棚の最奥で、灰崎朔也の名が書かれた古い蔵書票の束を見つけた。束は、本来あるべき位置から二段ほどずれている。乱暴な移動ではない。この棚の並び順を骨の髄まで知る者が、静かに、誰にも気づかれないように差し替えた跡だった。
「棚の並び順は、記憶と同じよ。少しでも動かせば、持ち主はすぐに見抜く。でも、動かす必要があったのね。隠すためじゃなく、継承を偽装するために」
灯子は独りごちて、預かり棚の隙間に指を滑り込ませた。真琴が地下書庫の鍵を回すと、古びた引き戸が低い悲鳴を上げた。軋みは古い木の声だったが、扉の向こうから漂う空気は、店内のそれとは全く異なっていた。湿気を完全に遮断された、鋭いほどに乾いた空気。紙の乾燥した匂いの奥に、二十年間、長く閉じた箱のような気配がある。
三好が懐中電灯で書庫の奥を照らす。光の先に、灰崎の事故死の夜から時間が止まったままの、古い記録簿が並んでいた。
「ここだ。灰崎の事故死の夜に使われたはずの貸出票の控えが、いくつも改ざんされている。字面は整っている。行間も揃っている。だが、どの紙も、同じ人間が『保存』という善意の顔をして、少しずつ書き換えた跡があるわ」
灯子は改ざんの癖を追い、ある頁で手を止めた。灰崎が借りていたはずの地方史料の貸出記録だ。そこには、二十年前には存在しなかったはずの、再開発関連の権利譲渡を示すメモが、ごく薄い鉛筆の筆跡で紛れ込ませてあった。
朱色の封蝋の欠片が、記録簿の隙間から床に落ちていた。灯子はそれを拾い上げる。その刹那、背後で紙をめくるような音がした。硬質な紙が擦れる、乾いた音。振り返っても誰もいない。ただ、暗闇が呼吸をしているかのような静寂が、背中を撫でただけだった。だが、灯子の心臓は跳ね上がった。机の上に、先ほどまではなかったはずの紙片が一枚だけ、置かれている。
「返却先、地下書庫」
脅しではない。誘導でもない。これは、この店で起きたすべての隠蔽を知る者からの、静かな確認だった。灯子はその字面を凝視する。荷物を送った者が、この店の、誰にも見せないはずの地下書庫の内側を知り尽くしていることを悟る。それは、灰崎の死を、都合のよい物語として消費し続けてきた男の、最後の自負だった。
「刑事さん、聞いて。この記録簿、有馬さんは最初から、私たちにこれを見せるつもりだったの。私が店を畳むという最後の夜に、二十年前の罪を『相続』させるために。死者の名を借りて、自分の犯した罪を、私という最後の店主の手に押し付けようとしているのよ」
灯子の声は震えていなかった。むしろ、すべての違和感が論理という細い糸で繋がっていく快感に、彼女の心は凪いでいた。三好は黙って手帳を閉じ、その表情には静かな決意が宿った。
「霧島さん、この紙片は決定的な証拠になる。有馬宗一は、灰崎朔也という人間を殺しただけでなく、その後の二十年間、古書灯籠堂という場所そのものを人質に取っていたんだ。この記録簿を持ち出し、彼を追い詰めるぞ。閉館前夜、この店を、真実の終着点にする」
三好の言葉に、真琴が小さく頷く。灯子は地下書庫の暗闇の中で、灰崎朔也が最後に残した栞を強く握りしめた。紙の折れ癖が、二十年前の夜と、今夜を繋いでいる。灯籠堂という名の古書店が守ってきた記憶は、ここで一度、すべてが剥がれ落ちる。それは終わりではなく、二十年間、店に留まり続けてきた死者への、せめてもの返却であると、灯子は確信していた。雨影通りの静謐な夜の中で、灯籠堂の古い紙魚たちが、最後の物語を書き終えようとしている。
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