第10話 最後の頁の書き込み

地下書庫の湿った空気が、夜明け前の冷気と混ざり合う。霧島灯子は机の上で静かに明滅する裸電球の下、有馬宗一が残したと思われる新たな紙片を凝視していた。その字面は、灰崎朔也の筆跡を完璧に模倣している。しかし、灯子にはわかった。灰崎の筆致には、紙の繊維を慈しむような微かな「溜め」がある。この紙片には、それがない。あるのは、書き写すことへの冷徹な執着だけだ。
「有馬さんは、灰崎さんの事故死を『物語』として完成させるために、ここへ通い詰めていたのね。死者さえも、自分の整理したい記憶の枠組みに押し込めるために」
灯子の声は、地下の閉鎖空間に低く響いた。三好は懐中電灯の光を机上の記録簿へ向け、慎重に頁をめくる。記録簿の随所に施された改ざんは、極めて巧妙だった。古い貸出票の控えと、最近差し込まれた再開発関連の文書。それらが一つの時系列として並んでいる。有馬は、この二十年間、灯籠堂という閉鎖的な空間を、自らの都合に合わせて書き換え続けてきたのだ。
「霧島さん、この貸出票の控えを見てくれ。筆跡が微妙に違う。同じペンを使っているが、書き癖が途中で変わっている。有馬は、自分の記憶が薄れるたびに、ここへ戻ってきては過去を書き直していたんだ」
三好の指摘に、灯子は頷く。有馬は古書店の店主以上に、この店の管理を掌握していた。彼は、店の記憶を「物」として守っていたのではない。自分の罪が露呈しないよう、常に記憶を「更新」し続けていたのだ。
その時、書庫の入り口に気配がした。静かな、しかし確実な足音。真琴が緊張で息を止める。扉の影から姿を現したのは、有馬宗一その人だった。彼はいつも通りの柔和な笑みを浮かべ、手には一冊の古い本を携えていた。
「少し、違いますね」
有馬は穏やかに言った。彼は灯子たちの驚きを予想していたかのように、ゆっくりと記録簿へ近づいてくる。
「灯子さん、あなたはすべてを正しく並べ直そうとしている。でも、古い古書店にはね、並び替えてはいけない『空白』があるのですよ。灰崎くんが死んだあの夜、私は何も見ていない。ただ、店が古く、記録が曖昧だったから、私は彼が守りたかった『記録の形』を整えてあげただけだ。死者の名義を使うのは、彼が一番望んでいたことですよ。自分の残せなかった記録が、店の中で生き続けることなんですから」
「それを、あなたの利益のために改ざんしたのはどうして?」
灯子の問いに、有馬は表情を崩さない。
「利益? 違いますよ。私はただ、この店の記憶が、再開発という名の無秩序な破壊によってゴミのように捨てられるのを、防いだだけです。私がこの店を管理し、記録を動かしてきたのは、この町のためでもあります」
「嘘だわ」真琴が短く言い放つ。彼女は喫茶店の帳面を掲げた。「二十年前、あなたがここへ持ち込んだのは、記録じゃなくて私欲よ。灰崎さんは、あなたの改ざんに気づいていた。だから彼は、地下書庫の鍵を変え、自分だけの栞を挟んだのね」
灯子は、灰崎が最後に返しそびれた栞を掲げた。それは有馬の整然とした整理術の外側にあった、灰崎の唯一の反逆だった。
「有馬さん、この栞は、あなたが整理しきれなかった灰崎さんの『意志』よ。あなたがどれだけ貸出票を書き換えても、彼が本に書き込んだ細かな落丁の指摘までは消せなかった。私は店主として、この本の『来歴』をすべて覚えている。あなたが消そうとしたのは、町の記憶じゃない。自分の罪の痕跡だけでしょう」
灯子の言葉が、有馬の仮面を剥がした。彼の指先がわずかに震え、携えていた本を取り落とす。書庫の床に落ちた本から、数枚の薄い紙片が滑り出した。それは、灰崎が死の直前に地下書庫で書き上げた、真の記録簿の断片だった。
「これは……」
有馬は床の紙片に手を伸ばそうとするが、三好が素早く制する。
「有馬宗一。二十年前の灰崎朔也の死について、殺人および証拠隠滅の容疑で同行を願う。あなたの『整理』は、ここで終わりだ」
有馬は抵抗しなかった。ただ、呆然と預かり棚の並びを見つめていた。彼の表情には、支配を失った者の虚脱感だけが浮かんでいる。
篠宮美緒が静かに書庫へ足を踏み入れたのは、その直後だった。彼女は床に散らばる紙片を見つめ、静かに息を吐いた。彼女の手にある契約書には、灯籠堂の資料についての言及があった。だが、彼女はそれをゆっくりと二つに折り、胸ポケットへしまった。
「……記録は、残りますね」
彼女の呟きは、誰に向けたものか分からなかった。ただ、その瞳から商談の圧が消え、一人の人間として、この店の記録を見つめる哀切だけが残っていた。
雨戸が開け放たれた店内で、灯子は帳場に立った。最後の作業が終わる。彼女は、預かり棚のいちばん端に、灰崎が残した栞をそっと戻した。それはもう、誰かのための記録ではない。店を去る者と、店に残る者のあいだで共有される、小さな区切りだった。
「さようなら、灰崎さん」
灯子が灯火を消すと、古書灯籠堂の輪郭は闇に溶け、二十年分の埃と記憶が、静かな朝の光の中で、ようやくその場所を見つけた。店の閉館と、ひとつの物語の終焉。しかし、彼女の掌には、確かに「次へ渡すべきもの」が残っていた。古書店は閉じる。だが、記録は、誰かが触れるのを待っている。灯子は最後の一歩を刻み、表通りへ出た。商店街のシャッターが開く音が、遠くで小さく聞こえた。
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