8話 空白の帳合

翌朝の古書灯籠堂は、前夜よりも冷え切っていた。雨は上がっていたが、湿気だけが木の床に残り、雨戸の隙間から差し込む青白い光が、棚板の埃を浮き上がらせている。霧島灯子は閉館準備の札を一度外し、店の奥にある預かり棚の前に立った。この棚は、持ち主不明の本や挟み込み資料を年代順に管理する場所だ。彼女にとって、ここはただの保管場所ではなく、誰かの記憶が持ち主を失って漂流する港のようなものだった。

棚の奥行きに沿って並ぶ本たちの背を見ただけで、何が最近動いたのか、どの冊子が長くそこに眠っていたのかが分かる。それは売価を覚えるよりも、もっと身体の深い部分で理解している事柄だ。灯子は指先で背表紙をなぞる。指の腹が、紙の湿り気や綴じの微妙な緩みを拾う。

久世真琴が喫茶店から持ち込んだ手帳と、昨夜の宅配便の受領記録をテーブルに広げた。手帳の角はぴたりと揃えられ、日付、時刻、場所が几帳面に記されている。

「灯子ちゃん、昨夜の荷物が届いた時刻と、ここ数日の棚の動きを時系列で整理してみたわ」

真琴の指が、手帳の線をなぞる。彼女は感情を挟まず、ただ事実を並べる。その硬質な論理が、今の灯子にはなによりの救いだった。二人は預かり棚を年代順に並べ直し始めると、すぐに違和感が出た。灰崎の死後に入ってきたはずの資料が、二十年も前の、全く別の時代の箱に紛れ込んでいたのだ。

灯子は思わず息を呑んだ。頁の折れ癖が新しいのに、糊の変色は古い。封筒の縁が擦れているのに、内側の紙は店内の湿気を吸っていない。それは、誰かが「古い記録のふり」をして、最近の資料を忍び込ませた痕跡だ。

「ここよ、真琴。この資料、目録では灰崎さんが事故に遭う三日前に預けられたことになっているけれど、この糊の硬さは十年前のものね。有馬さんは、目録を改ざんする際、わざと古い箱に新しい資料を紛れ込ませることで、捜査の目をくらませようとしたのね」

灯子の言葉に、真琴は手帳の線を訂正し、深く頷いた。

「整理がついたわ。誰かが意図的に『空白』を作ったの。預かり棚の並び替えを繰り返すことで、本当は何が入っていたのかを隠し、地下書庫にある記録との整合性を狂わせようとした。箱の中の紙片は、単なる返送先じゃなくて、この棚のどの箱を入れ替えれば、過去の証拠を消せるかを示した『作業手順書』だったのよ」

灯子は棚の空白の箇所に指を差し入れた。そこだけ、埃の層が他よりも薄い。誰かが最近、頻繁に出し入れしていた証拠だ。彼女はその空白の先にある、床板の微妙な浮きに気づいた。そこに地下書庫へ続く引き戸がある。

三好晴信が初動記録を更新しながら、貸出票の控えに目を落とした。二十年前の夜、この店で誰が何を借りたのか。その貸出票には、いくつもの欠番がある。

「番号は通るが、筋が通らない。貸出票の控えが、これほど不自然に抜けていれば、当時の警察も『単純な事故』として片づけざるを得なかっただろうな。霧島さん、君が言っていた通りだ。この店は、記憶を操作するための偽装工作の舞台だったんだ」

その言葉を聞きながら、灯子は地下書庫へ続く引き戸の鍵穴に指を入れた。最近、何度か差し込まれた痕がある。金属の摩耗は正直だ。灯子自身が管理していた予備鍵の使い方を知る者の、執着に満ちた手つきがそこにあった。有馬宗一。彼だけだ。この店の棚の並びと、地下書庫への動線を同時に理解している人間は。

同じ日、篠宮美緒が再び現れた。彼女は丁寧な声で再開発の段取りを話しながら、棚の奥に置かれた旧地番資料へ視線を滑らせる。彼女の封筒を押さえる指先だけが、妙に慣れている。灯子はふと、美緒が美緒としてではなく、二十年前にこの店で何が失われたのかを知ろうとする、ひとりの人間としての執着を帯びていることに気づいた。彼女は、有馬宗一という男の利害関係者なのか、それとも、失われた記録を探す別の継承者なのか。

「美緒さん、あなたは再開発の担当者としてここにいるの? それとも、灰崎朔也さんが何を見つけたのかを知るために、ここにいるの?」

灯子の問いに、美緒は一瞬だけ言葉を詰まらせた。その沈黙は、今までのどんな圧よりも重く、真実を含んでいた。

「……霧島さん、この店が閉まるのは、町のためです。でも、記録は誰かの都合で消えるためにあるんじゃない。もし、二十年前の夜の真相が、地下の書庫に眠っているなら、私はそれを……」

美緒は最後まで言わなかった。しかし、彼女の手元の書類が、灰崎朔也が残した未発表原稿の断片と符合していることに、灯子は気づいていた。この場の誰もが、死者の名義で届いた荷物をきっかけに、二十年前の「空白」へ向かって引き寄せられている。灯子は棚の埃を払った。灰崎朔也は、自分が死ぬことで、この店に最後の空白を残した。そして今、その空白が、古書灯籠堂のすべてを暴こうとしている。

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空白の帳合 - 死者の返送先 - 誰でも作家life