第4話 呼び覚まされる過去
「そして、あなたには…それを鎮める力が眠っています」
凛とした鈴の音のような声が、夜風に溶ける。御子柴雫は、古風な巫女装束に不釣り合いなほどまっすぐに、蓮見空の瞳を見据えていた。その言葉は、まるで錆びついた扉をこじ開ける鍵のように、空の意識の奥深くへと突き刺さった。
脳裏に、灼けつくような陽射しと、チョークの粉の匂いが蘇る。大学のクライミングウォール。ざらついたホールドの感触。そして、自分より少し先を登っていく親友の、汗に濡れた背中。
『おい、空! そのルートは大会じゃ禁止されてるぞ!』 『うるせえな。こっちの方が速いんだよ。ルールなんて、勝てばどうとでもなるだろ』
傲慢で、自信に満ちていた声。それは紛れもなく、自分自身のものだった。規則を破り、近道をしようとする親友を、空は「正しさ」という名のナイフで切りつけた。正論はいつだって心地よく、人を傷つける快感さえ伴う。彼はその快感に酔っていたのだ。
『お前、それでもアスリートかよ! そんなんで勝って、嬉しいのか!』
空の糾弾は、他の部員たちの前で執拗に続いた。孤立した親友は、それでも彼を信じていた。大会前夜、人気のない部室で、震える声で空に助けを求めたのだ。
『……助けてくれ、空。俺、どうしたらいいかわからないんだ』
伸ばされた手。縋るような瞳。だが、空はその手を振り払った。自分の正義が揺らぐのが怖かったから。自分が間違っていると認めたくなかったから。
『自業自得だろ』
冷たく突き放した言葉が、友情という脆いガラス細工を粉々に砕いた。その結果、親友はプレッシャーに押し潰され、大会で滑落事故を起こした。選手生命は絶たれ、彼は大学を去った。信頼も、未来も、友情も、すべてを失ったのは、彼だけではなかった。空もまた、魂の半分を失ったように、無気力な抜け殻になった。
「……力、だと?」
空の唇から、乾いた声が漏れた。目の前の現実が、過去の幻影と重なって滲む。雫のひたむきな瞳は、あの夜の親友の絶望に満ちた瞳と、不思議なほど似ていた。
「俺にあるのは、力なんかじゃない。ただの後悔と、どうにもならない過去だけだ」
「蓮見空。貴方が抱えるその痛みと後悔は、決して消えることはありませぬ」 雫は静かに、しかし断言した。その声には、人の心の深淵を覗き込んできた者だけが持つ、不思議な説得力があった。 「ですが、その痛みこそが、貴方だけの力。忘れられ、見捨てられた者たちの嘆きに寄り添うことができる、唯一の道標なのでござる。貴方は、誰よりも『見捨てられる』ことの痛みを知っている。だからこそ、その声が聞こえるのです」
もう二度と、誰かの手を見過ごしたくない。 もう二度と、目の前で誰かを失いたくない。
その強い衝動が、心の奥底で凍りついていた感情の塊を、激しい勢いで溶かしていく。それは正義のためでも、誰かのためでもない。ただ、過去の自分を、あの日の過ちを、この手で贖いたいという、身勝手で、しかしどうしようもなく純粋な願いだった。
空は、震える声で問いかけた。普段の彼からは想像もつかない、切実な響きを帯びて。
「……俺に、何ができる? あんたの言う『アーバン・レイス』とやらを、どうすれば止められる? 俺は、ただのドロップアウトした大学生だ。パルクールで逃げ回ることしか能がない。そんな俺に、一体何ができるっていうんだ!」
「できまする」 雫は一歩、空に近づいた。夜風が彼女の長い黒髪を揺らす。 「貴方が屋上を跳ぶとき、その身体能力と精神が極限まで研ぎ澄まされるとき、貴方の魂は都市の霊脈と繋がり、彼らの声を聞き、その心に触れることができる。破壊ではありませぬ。ただ、その嘆きを聞き、存在を認め、鎮めるのです。わたくしが、この天穹社の力で、貴方の道を拓きましょう。貴方が振り払ってしまった手の温もりを、今度こそ、その手で掴み取るのです」
雫の言葉は、まるで祝詞のように空の心に染み渡った。彼は無意識に、ポケットの中で冷たい金属の感触を確かめる。失意の底で拾った、古いカラビナ。挫折の象徴であり、この屋上で生きることを決めた証。
「……力を貸してくれますか、御子柴……さん」
ぎこちなく紡がれた言葉に、雫は初めて、ふわりと微笑んだ。それは夜に咲く月下美人のように、儚くも美しい微笑みだった。 「雫、と。お呼びください」
その笑顔を見た瞬間、空の胸に、今まで感じたことのない種類の甘い痛みが走った。それが初恋の始まりだと気づくには、彼はあまりに不器用で、世間知らずだった。ただ、この少女を守りたい、その笑顔を曇らせたくない、と。そう強く思った。
蓮見空の無気力な日常は、この夜、終わりを告げた。ビルの屋上という日常と非日常の境界線の上で、彼は見えざる敵と、そして自分自身の過去と、対峙する覚悟を決めたのだ。
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