第3話 境界線の巫女
ルーフトッパーズの間に漂う空気は、梅雨時の洗濯物のように重く、湿っていた。タケルが「黒い霧」に襲われた一件以来、彼らの緩やかな連帯は、目に見えない恐怖によって静かに蝕まれ始めていた。普段は冗談と皮肉が飛び交う焚き火の周りも、今は猜疑心に満ちた沈黙が支配している。誰かが咳をするだけで、びくりと肩が跳ねる者がいた。伊吹がいつものように「ま、幽霊の正体見たり枯れ尾花ってな。ビビりすぎだろ」と軽口を叩いても、笑う者は誰もいない。その視線は、どこか空を責めているようでもあった。お前が目立つからだ、と。
蓮見空は、そのねっとりとした空気から逃れるように、一人、定位置にしている給水塔の陰に座り込んでいた。ポケットの中で、指先が古びたカラビナの冷たい感触を確かめる。苛立ちと、どうしようもない無力感が胸の中で渦巻いていた。仲間が傷ついた。居場所が脅かされている。なのに自分には、悪態をつくことしかできない。「どうせ世の中ろくなもんじゃない」。いつものように嘯いてみても、その言葉は誰に届くでもなく、東京の夜景の光の海に吸い込まれて消えた。
眼下に広がる街は、無数の神経細胞が発光している巨大な生物のようだ。地上で暮らす人々は、この空の上で怯えている者たちがいることなど知りもしない。彼らの信じる法や常識は、この境界線の上では何の慰めにもなりはしない。その時だった。
チリン、と澄んだ鈴の音が、夜風に乗って空の耳に届いた。
それは、都会のあらゆる騒音とは異質な、凛として、どこか神聖さすら感じさせる音だった。続いて、か細くも芯の通った声が、古風な節回しで何かを唱えているのが聞こえる。祝詞だ。こんな場所で、誰が?
音は、このエリアで最も古びた雑居ビルの屋上から聞こえてくるようだった。空は衝動的に立ち上がると、助走もそこそこに手すりを蹴った。ビルとビルの間の暗い谷間を跳ぶ。彼の身体が宙を舞う瞬間、渦巻いていた苛立ちが、純粋な集中力へと昇華されていく。エアコンの室外機を踏み台にし、配管パイプを掴んで体を引き上げ、また跳ぶ。都市の立体構造を読み解き、最短ルートで音の源へ。それは彼にとって、唯一、生きている実感を得られる行為だった。
たどり着いた屋上の片隅に、それはあった。赤い鳥居と、風雨に晒された小さな木造の社。都市のコンクリートジャングルに忘れ去られた、小さな聖域。「天穹社」。ルーフトッパーズの間では、ただの気休めのランドマークとしてしか認識されていない場所だった。
社の前で祈りを捧げていたのは、一人の少女だった。古風な巫女装束に身を包み、その姿はまるで時代劇から抜け出してきたかのようだ。彼女が祈りを終えると、鈴の音と祝詞は止んだ。そして、こともなげに懐からスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで画面をタップし始めた。そのあまりのギャップに、空は声をかけるタイミングを失う。
「…待ちくたびれたでござるよ」
少女は、空の方を振り返りもせずに言った。
「あんた、誰だ。今の音は…」
空が警戒を露わに問うと、少女――御子柴雫はゆっくりと振り返った。夜の闇の中でもなお、強い意志を宿した瞳が、真っ直ぐに空を射抜く。
「我が名は雫。この天穹社を守る者。そして、貴方様が耳にしたのは、この地に淀む穢れを祓うための祝詞でござる。タケル殿を襲った『あれ』…我らはそれを『アーバン・レイス』と呼びまする」
「アーバン…レイス? 馬鹿馬鹿しい。都市伝説か何かのつもりか。タケルは事故にあったんだ。何かに怯えて、足を踏み外した、ただそれだけだ」
「では、その腕に残された凍傷のような痣は何なのでござるか? 物理法則では説明できぬはず。アーバン・レイスは、幽霊などという曖昧なものではござらん。この街が発展という光を求め、捨て去り、忘れ去ってきた者たちの嘆き。打ち捨てられた土地の記憶、人々の負の感情が凝り固まって生まれた、都市の歪みそのもの。普段は不可視なれど、何かのきっかけでこの世界に染み出し、生きる者の陽気を啜る怪異…それが正体」
雫の言葉は、荒唐無稽なはずなのに、奇妙な説得力を持っていた。空は何も言い返せない。彼女の瞳は、空の嘘や虚勢をすべて見透かしているようだった。
「なぜ、俺にそんな話をする」
「決まっておりましょう」
雫は一歩、空に近づいた。その小さな身体から発せられる存在感に、空は気圧される。
「蓮見空殿。貴方様には…それを鎮める力が眠っているからでござる。貴方様がスカイウェイを駆けるとき、その魂は無意識にこの都市の霊脈と共鳴する。だからこそ、レイスは貴方様に惹かれ、そして貴方様は誰よりも強くレイスの存在を感じ取ることができる。貴方様のその力は、仲間を、この居場所を守るための、唯一の刃となり得るのでござるよ」
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