2話 黒い霧の警告

伊吹仁が持ってきた一枚のチラシが、ルーフトッパーズ(カラス)たちの間にさざ波を立ててから数日が過ぎた。さざ波は、今や無視できない濁流となって彼らの足元を洗い始めていた。アーク・ディベロップメントの圧力は、もはや噂や警告の段階ではなかった。それは冷たく、無機質で、合法的な暴力として、彼らの生活圏を確実に侵食していた。

まず、彼らのテリトリーと地上とを結ぶいくつかのルートが「安全上の理由」という名目で封鎖された。そして、これまで暗黙の了解で使っていた屋上のあちこちに、冷たいゴシック体で「立入禁止 アーク・ディベロップメント」と記された看板が、まるで墓標のように林立した。極めつけは、空を巡回する高性能ドローンだった。昼夜を問わず、蜂の羽音に似た不快な飛行音を響かせながら、それはルーフトッパーズのプライバシーという最後の聖域を蹂躙した。赤い監視ランプの点滅は、地上から向けられる悪意そのものだった。

蓮見空は、手製のベッドに寝転がりながら、無感情に空を横切るドローンを見上げていた。権威を振りかざすやり方への嫌悪感が、胃のあたりでじっとりと渦巻いている。 「どうせ世の中ろくなもんじゃない」。 いつものように嘯いてみるが、その言葉はもはや自嘲の鎧として機能しなかった。動揺がコミュニティに伝染していくのが肌で感じられたからだ。情報屋の伊吹が「ほら見ろ、お偉いさんの『正義』ってのは、俺たちみたいな虫けらを消毒することから始まるんだぜ」と皮肉を飛ばしても、笑える者はいなかった。互いに干渉しすぎないという不文律で成り立っていたカラスたちの間に、疑心暗鬼の空気が漂い始めていた。

その夜、事件は起こった。 ルーフトッパーズの若手の一人、タケルが夜間の「スカイウェイ」で隣のビルへ移動している最中だった。彼はまだ十代で、空のパルクールの技術に憧れている、数少ない弟分のような存在だった。 「空さんみたいに、いつか自由に跳びたいんスよ!」 そう言って笑う彼の姿は、この屋上の閉塞した空気の中では数少ない希望の光だった。

そのタケルが、ビルとビルの間に渡された鉄骨の上を軽快に渡っていた、まさにその時。突如、彼の足元から、夜の闇よりもさらに濃い何かが湧き上がった。それはまるで、アスファルトから滲み出す黒いインクの染みのようだった。 「うわっ!?」 タケルはバランスを崩し、足を踏み外す。彼の短い悲鳴が、ビル風に掻き消される。だが、彼の体は落下しなかった。下の階の庇に、奇跡的に彼のパーカーが引っかかったのだ。宙吊りになったタケルは、パニックに陥りながらも必死に庇の縁に手を伸ばした。

異変に気づいた空と伊吹が駆けつけるのに、時間はかからなかった。空は躊躇なく隣のビルの壁面に張り付くと、エアコンの室外機や配管を巧みに利用して一気に降下し、タケルの腕を掴んで庇の上へと引きずり上げた。 「大丈夫か、タケル!」 だが、タケルの様子は明らかにおかしかった。彼はガタガタと震え、虚空の一点を指さして怯えきっていた。 「黒い…黒い霧みたいなもんに…いきなり腕を掴まれたんだ…!」 「落ち着け、ただの事故だ。疲れてたんだろ」 伊吹がなだめようとするが、タケルは首を激しく横に振った。 「違う! 事故なんかじゃない! あれは…あれは、地面に俺を引きずり込もうとしたんだ! すごい力で…氷みたいに冷たいのに、火傷みたいに痛くて…!」

空は、タケルの震える右腕に視線を落とし、息を呑んだ。パーカーの袖が捲れたその腕には、まるで極低温の氷を強く押し付けられたかのような、奇妙な痣が黒く浮かび上がっていた。それは凍傷のようでいて、しかし皮膚の内側から焼かれたような禍々しい輪郭を持っていた。それは、物理法則では説明のつかない、明らかな超常の痕跡だった。

都市伝説。伊吹が警告した、ありふれた与太話。それが今、現実の脅威として、仲間の肉体に消えない傷を刻みつけている。 空は、ポケットの中で錆びついたカラビナを強く、指が白くなるほど強く握りしめた。アーク・ディベロップメントの物理的な圧力と、この得体の知れない超常的な脅威。二つの異なるはずの悪意が、今、自分たちの居場所を破壊するために、不気味に共鳴し始めている。 それはもはや、ただの立ち退き問題ではなかった。この街の影に潜む何かが、再開発という槌の音に呼び覚まされ、牙を剥き始めたのだ。空の無気力な日常は、この黒い痣によって、決定的に終わりを告げられた。

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黒い霧の警告 - ルーフトップジャンパ - 誰でも作家life