第1話 屋上の日常と二つの報せ
アスファルトの熱がまだ完全に抜けきらない、夜明け前の東京。蓮見空は、ビルの屋上に誰かが捨てていった古いソファと防水シートでこしらえた手製のベッドの上で、無意識に身じろぎした。遠くで響くサイレンの音。その微かな物音に反応し、彼の身体は眠りの浅い層に浮上する。目を開けるより先に、意識が周囲の地形をスキャンする。右手には給水塔、左手には隣のビルへ渡るための鉄骨の梁、背後はフェンス。ここでの生活が染みつかせた、野生動物じみた生存本能だった。
ゆっくりと身を起こし、空は眼下に広がる巨大な生き物のような都市を見下ろした。眠りについたばかりの街は、まだ静かな呼吸を繰り返している。彼はコンビニで買ったクリームの抜けたパンを無造作に口に放り込み、ぬるくなった缶コーヒーで流し込む。スマートフォンの画面をタップすれば、無意味なキャラクターがレベルアップを告げた。虚しい達成感。
「どうせ世の中ろくなもんじゃない」
誰に言うでもなく、事実をただ口にしたかのように呟く。大学を辞め、地上のルールから逃げ出してこの屋上の世界に流れ着いてから、その思いは日に日に確信へと変わっていた。
「よぉ、今日も立派な天空のニート様だな! 朝から高尚な哲学的思索に耽っているとは、感心感心」
背後から掛けられた声に、空は肩をすくめるだけで振り返らなかった。足音ひとつ立てずに現れるこの男、伊吹仁はルーフトッパーズの古株で、自称情報屋。その陽気な皮肉屋ぶりは、この屋上コミュニティの清涼剤でもあり、時に厄介事の呼び水でもあった。
「あんたこそ、朝早くからご苦労なこった。何のゴシップだ? 誰かが屋上菜園のミニトマトを盗んだとか、そんな話か?」 「ハッ、そいつは平和で結構なニュースだが、残念ながら今日のネタはもっと香ばしくて、厄介な代物だぜ、空」
伊吹は空の隣にどかりと腰を下ろし、くしゃくしゃのチラシを突きつけた。そこには「都市未来創生プロジェクト」という大仰な見出しと共に、この一帯の再開発を告知する内容が記されている。責任者として掲載された男の写真。冷徹なまでに整った顔立ちの、葛城剛という名。その目は、まるで人間を数字か何かとしか見ていないような、無機質な光を湛えていた。
「アーク・ディベロップメント。最近、強引な地上げで名を馳せてる連中だ。俺たちのこの空も、連中の計画図じゃただの『未利用空間』らしいぜ」 「……」
空は何も答えず、チラシを伊吹に突き返した。だが、伊吹はそれで引き下がる男ではない。彼はにやりと口の端を歪め、声を潜めた。
「で、だ。こいつは前菜にすぎん。メインディッシュはこっちだ。空、お前、最近この辺で妙な噂が増えてるの、気づいてるか? 俺たちの縄張り、つまり地上から見放された場所で、だよ」 「都市伝説だろ。ガキじゃあるまいし」
空は鼻で笑い、ポケットに手を入れると、冷たい金属の感触を探った。失意のどん底にいた頃に拾った、古いカラビナ。意味もなくそれを指でなぞるのが、彼の癖だった。
「そう、都市伝説だ。だがな、その伝説に尾ひれどころか、手足が生え始めてるんだよ」 伊吹は立ち上がり、眼下の街を指さした。 「解体寸前の廃ビル。深夜二時きっかりに、赤ん坊の泣き声がする。面白半分で忍び込んだガキどもが、泡吹いて出てきた。全員、耳元で『かえせ』って囁かれたそうだ。それから、あそこの建設現場。巨大なクレーンの影に数秒でも入ると、気が狂う。影が、まるで生き物みたいに追いかけてくるって話だ。笑い話だと思うか? 空。俺は思えねぇ。これは、ただの噂じゃない。何かの『予兆』だ。俺たちの居場所を脅かすのは、スーツを着た連中だけじゃねぇかもしれんぞ。もっと得体の知れない何かが、この街の澱の中から這い出してこようとしてる。俺の勘がそう告げてるんだよ」
伊吹の言葉は、いつもの軽薄さを脱ぎ捨て、奇妙な説得力を帯びていた。それは単なる情報ではなく、この天空の世界で生き抜いてきた男の実感のこもった警告だった。
空は黙って聞いていた。彼の脳裏には、大学時代の苦い記憶が蘇っていた。信じていた人間に裏切られ、自分の「正しさ」が脆くも崩れ去ったあの日のこと。人間の方が、よほど理不尽で、よほど恐ろしい。
「……くだらねぇ。怪談話で俺をビビらせる気か、伊吹さん」 空は立ち上がり、伊吹に背を向けた。「俺が怖いのは幽霊や怪物じゃねぇ。ああいう、自分が絶対的に正しいと信じて疑わない人間の方だ」
彼はそう言い捨て、身軽にフェンスを乗り越えると、隣のビルの屋上へと続く鉄骨の梁に足を掛けた。
「おい、どこ行くんだよ」 「昼寝。あんたの話は退屈で眠くなった」
軽口を叩きながらも、空の心には、伊吹が蒔いた二つの種が確かに根を下ろしていた。法という力で自分たちの存在を否定する、冷たい目の男。そして、都市の片隅で蠢く、正体不明の影。
物理的な脅威と、超常的な脅威。
どうせろくなもんじゃないこの世界が、さらに面倒なことになろうとしている。その得体のしれない不安が、まるで街に立ち込める朝霧のように、彼の心をじわりと侵食し始めていた。
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