第5話 空の決意
夜の帳が下りたビルの屋上は、地上とは隔絶された静寂に包まれていた。遠くでサイレンが微かに鳴り響き、無数のビルの灯りが星々のように明滅している。だが、蓮見空の耳には、心臓の鼓動と、隣に立つ少女の衣擦れの音だけがやけに大きく聞こえていた。
タケルの腕に残された氷の火傷のような痣。コミュニティに広がる恐怖と疑心暗鬼。それらすべてが、今、目の前の古びた小さな社へと収斂していくのを空は感じていた。
「蓮見空様…」
御子柴雫が、凛とした声で口を開いた。彼女の横顔は、背後の都市の光を受けて神々しいほどに白く浮かび上がっている。
「この天穹社が、ただの古びた祠にしか見えぬのも無理はありませぬ。ですが、ここは…この巨大な都市の魂を繋ぎ止める、最後の楔なのでござる」
彼女はゆっくりと社に視線を移し、その言葉を紡いだ。
「絶え間なく続く開発の波にのまれ、忘れ去られていった幾多の土地の記憶、小さな社、名もなき人々の想い…。その嘆きや怨念が凝り固まったものが『アーバン・レイス』の源。この天穹社は、その負の奔流が地上に溢れ出さぬよう、かろうじて蓋をする役割を担う…最後の『要石』なのでござる」
要石。その古風な響きとは裏腹に、空の脳裏には伊吹が見せた一枚のチラシが焼き付いていた。アーク・ディベロップメント。冷徹な顔つきの葛城剛。物理的な立ち退きという現実的な脅威と、アーバン・レイスという超常的な侵食。今まで別々の問題だと思っていた二つの脅威が、この小さな社を基点に、一本の冷たい線で繋がった瞬間だった。
「つまり、あの再開発は…」空が絞り出すように言うと、雫は静かに頷いた。
「左様。彼らは知る由もなく、この都市の霊的な心臓部に、巨大な杭を打ち込もうとしております。要石が破壊されれば、もはやアーバン・レイスは我らだけの問題では済まされませぬ。堰き止められていた嘆きのすべてが濁流となり、この光の海…この東京すべてを飲み込むでしょう。我ら『はみ出し者』を排除しようとするその行為が、皮肉にも、彼ら自身の足元を崩壊させることになるのでござる」
雫の瞳には、代々この社を守ってきた巫女としての強い使命感と、同時に、18歳の少女が一人で背負うにはあまりにも重すぎる恐怖と悲壮感が同居していた。空は、その瞳から目を逸らせなかった。
無力感に苛まれ、どうせ世の中ろくなもんじゃないと嘯き、無気力という鎧で心を閉ざしてきた自分。大学時代、クライミングに打ち込んでいた頃の記憶が蘇る。自分の焦りが原因で親友を滑落させてしまった事故。規則を破った彼を「正しさ」で追い詰め、伸ばされた助けの手を振り払った、あの日の苦い後悔。信頼も、友情も、自分の居場所も、すべてを失った。
もう二度と、誰かの手を見過ごしたくない。誰かを失いたくない。
その強い衝動が、凍てついていた空の心を突き動かした。
「……様付けはやめろ。空でいい」
照れ臭さを隠すように、空はぶっきらぼうに吐き捨てた。緊張をごまかすように、無意識に右手の指をカツン、と一度だけ鳴らす。いつもの癖だった。
雫がわずかに目を見開く。その驚いたような表情に、空の胸の奥が甘く痛んだ。これが初恋というものか、とぼんやり思う。
彼はポケットに手を突っ込み、ごつごつとした感触を確かめた。失意のどん底で拾った、古いカラビナ。傷だらけで、一部は錆が浮いている。過去の挫折と、逃避の象徴。だが、今は違う。この屋上の世界で生きることを選んだ、自分の意志の証だ。仲間と繋がるための、アンカーだ。
空はそのカラビナを強く、強く握りしめた。
「俺が、やる」
それは、自分自身に誓いを立てるような、低く、しかし確信に満ちた声だった。
「仲間を、この居場所を…そして、あんたを、守る」
蓮見空は、ビルの屋上という日常と非日常の境界線に、確かに立った。眼下には、何も知らずに眠る巨大な都市が、美しい光の海となってどこまでも広がっている。
もう、空っぽの目で空を見上げるだけの男ではない。
彼の無気力な日常は、この夜、終わりを告げた。
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