9話 疑心暗鬼の種

# 第2幕 愚者の狂宴 ## エピソード6 疑心暗鬼の種

歴史がもし、個人の精神状態の記録であるならば、この時代のページはインクの代わりに精神安定剤の粉末で記述されるべきだったろう。エロンという名の目障りな虫が、花火のように派手に散った後、タコ王の精神は一点の曇りもない晴れやかな状態にあった。彼の自己中心的な宇宙において、自分に逆らう者はすべからく排除されるべき異物であり、その消滅は世界の浄化に他ならなかった。しかし、その影で、タコ王の愚行が蒔いた種は、全く別の土壌で、静かに、しかし禍々しく芽吹いていた。

シオ国の首都。その地下深くに築かれた大統領官邸のシェルターは、もはや執務室というよりは、一つの巨大な脳髄が露出した標本のようであった。壁という壁は、世界地図、タコ王の顔写真、コメ国の新聞記事の切り抜き、そしてそれらを結ぶ無数の赤い線で埋め尽くされている。ニタニタフ大統領は、この蜘蛛の巣のようなチャートの中心で、何日も眠らずに思考を続けていた。彼の血走った目は、コカインと睡眠不足で拡張しきったエロンの瞳とはまた違う、内側から燃え上がる妄執の炎に揺らめいていた。

「奴は、私を試しているのだ……」

ニタニタフは誰に言うでもなく呟いた。彼の指先が、タコ王が過去にシオ国を「未開の砂漠の民」と揶揄したとされる、出所不明のネット記事を神経質になぞる。もちろん、タコ王がそのような複雑な侮蔑の言葉を組み立てられるはずもないのだが、ニタニタフの被害妄想に汚染された精神にとっては、それは動かぬ証拠だった。コメ国がシオ国に売りつけた最新鋭の兵器群。それは友好の証などではない。自らの手で引き金を引かせ、それを大義名分としてシオ国を地上から消し去るための、悪魔的な罠なのだ。彼の思考は、論理の飛躍と自己中心的な解釈だけで構築された、脆くも強固な城壁の中で、無限に反響し続けていた。

その時、シェルターの静寂を切り裂いて、最新型のセキュアラインが甲高い電子音を鳴らした。ディスプレイに表示された発信元は「ホワイト宮殿」。ニタニタフは、まるで待ち構えていたかのように、震える手で受話器を取った。

「やあ! ニタニタフ君、ご機嫌いかがかな!」

スピーカーから響くタコ王の能天気な声は、この密閉された狂気の空間にはあまりにも不似合いだった。

「先日、我が国の空でちょっとした打ち上げ花火があってね。いやはや、実に壮観だった! まるでゴミが燃えているようだったよ! 君の国の上空は平和かね? 我がコメ国が売ってやったあのオモチャ、ちゃんと動くんだろうな? 世界一のコメ国製だ、欠陥品のはずがない! ちゃんと手入れはしているかね? ピカピカに磨いているかね?」

ニタニタフは受話器を握りしめ、息を殺した。ゴミが燃えているようだった、だと? エロンのことだ。あのオリガルをゴミのように始末したと、私に誇示しているのだ。そして次に始末されるのは、お前だと、そう言っているのだ。

タコ王は、電話の向こうで側近のパンスに何かを自慢しながら、さらに言葉を続けた。 「なあ、ニタニタフ君。最高の武器というのは、使ってこそ価値がある。飾っておくだけでは、ただの鉄の塊だ。どうだね、一度くらい、試しに撃ってみては? そうだな、例えば……君がいつも目の敵にしているパレ人の集落とか? いや、まあ、どこでもいいんだがね。とにかく、ちゃんと作動するかどうか、私に報告してくれたまえよ。大金を払ったのは君なんだからな! 我がコメ国は、アフターサービスも万全なのだ!」

その言葉が、ニタニタフの脳内で最後の引き金となった。彼の疑心暗鬼は、もはや妄想の域を超え、絶対的な確信へと変貌していた。これは脅迫だ。そして、命令だ。パレ人を攻撃しろと唆し、それを口実に国際社会でシオ国を孤立させ、最後にはコメ国が「正義の鉄槌」を下す、という筋書きなのだ。あのIQの低い道化の仮面の下には、これほどまでに冷徹で、残虐な策略が隠されていたというのか。

「……承知した」 ニタニタフは、かろうじてそれだけを絞り出し、一方的に通信を切った。受話器を置く音が、墓場のような静けさの中に不気味に響く。彼はゆっくりと立ち上がると、傍らで青ざめていた軍の最高司令官に向き直った。その目は、もはや正気の光を失い、破滅への恍惚とした輝きを宿していた。

「聞いたかね、将軍。あのタコの命令を。だが、我々は奴の操り人形ではない。奴が我々に引き金を引かせようというのなら、その銃口をどこに向けるべきか、決めるのは我々だ」 ニタニタフは震える指で、壁の世界地図を指し示した。その指先は、まっすぐにコメ国大陸を貫いていた。

「奴は、我々がパレ人を撃つと思っている。愚か者め。奴の期待を、最大級のやり方で裏切ってやるのだ。全ミサイル部隊に通達しろ。第一目標、コメ国首都、ホワイト宮殿。及び、コメ国内の全主要都市。続けて、オソロ、キユウ、その他、我らがシオ国に不敬を働いた全ての国をターゲットに設定せよ。コメ国から買ったあの素晴らしいオモチャの性能を、売ってくれた本人に、いや、全世界に見せつけてやるのだ。我々は、奴らの手のひらで踊るのではない。我々が、この世界の終末のダンスをリードするのだ!」

将軍は絶句し、その場で凍りついた。「大統領、それは…それは自滅行為です!世界を終わらせることに…」 「自滅だと? 違うな、これは新生だ!」ニタニタフは狂気の笑みを浮かべた。「腐りきったこの世界を、一度更地に戻すのだ! 我らがシオ民族こそが、新たな世界の支配者となる! タコ王が望んだのだ、ならばその望みを叶えてやろうではないか! やれ! 今すぐ命令を実行しろ!」

抵抗は無意味だった。反論は、即座に反逆と見なされるだろう。司令官は、死人のような顔で敬礼すると、震える声で管制室へと指令を伝達した。

シオ国の地下深く、そして世界中の海に潜む潜水艦の中で、無数の核ミサイルが静かに起動シーケンスを開始した。コンソールのランプが緑色に灯り、デジタル時計が冷酷に時を刻み始める。人類が自らの手で作り上げた、最も愚かで、最も強力な力が、一人の人間の被害妄想によって解き放たれようとしていた。

こうして、一つの歪んだ精神の中で育まれた疑心暗鬼という名の小さな種は、人類という種そのものを絶滅させる巨大な毒の樹へと、静かに、しかし確実に芽を出し始めたのである。誰も、その静かな芽吹きに気づく者はいなかった。破滅へのカウントダウンは、もう始まっていた。

← 横にスクロールして読み進められます