第10話 狂気の引き金
# 第3幕 終末の寓話 ## エピソード1 狂気の引き金
シオ国の地下深く、地上の光も音も届かぬコンクリートの要塞。ニタニタフ大統領の個人シェルターは、狂気の巣そのものであった。ひんやりとした人工の空気は淀み、壁という壁は、彼が「真実」と信じて疑わない陰謀論を示すチャートで埋め尽くされていた。コメ国の地図には無数の赤いピンが突き刺さり、タコ王の顔写真は引き伸ばされ、その支離滅裂な発言の一つ一つが、歪んだ論理で結びつけられた図表と化している。床には精神安定剤の空き瓶と、何日も前のものか判別もつかない食事のトレイが散乱し、彼の精神が肉体と共に崩壊しつつあることを雄弁に物語っていた。
睡眠不足と薬物の乱用で血走った瞳を爛々と輝かせ、ニタニタフは壁に向かって途切れることのない独り言を呟いていた。その声は、囁きであったり、呻きであったり、時には押し殺した怒りの咆哮であったりした。
「奴らは…そうだ、奴らは我らを陥れようとしている…。あのタコ王め、愚鈍なふりをしながら、その実、蛇のように狡猾なのだ。我がシオ国を『未開の地』と侮辱したことを忘れたとは言わせんぞ。全世界の前で我々に恥をかかせ、その尊厳を踏みにじる計画だ。エロンとかいう道化を空で爆死させたのも、全ては計算ずくの芝居に違いない。世界の同情を買い、その裏で邪悪な牙を研いでいるのだ…コメ国は、私を、この偉大なるシオ国を、歴史の舞台から消し去ろうとしているのだ!」
彼の被害妄想は、もはや誰にも止められない濁流と化していた。かつては彼を諫める勇気があった側近たちも、今ではその狂気に感染するか、あるいは恐怖に支配されるかして、ただ主人の妄言を肯定するだけの自動人形と成り果てていた。彼らは、ニタニタフの瞳の奥に宿る、底なしの疑心暗鬼と自己中心的な正義感の恐ろしさを骨の髄まで理解していた。この男は、自らが信じる「正義」のためならば、女子供の区別なく、自国民すら犠牲にすることを厭わない。その事実が、シェルター内の空気を鉛のように重くしていた。
その時、静寂を切り裂いて、甲高い電子音が鳴り響いた。最新型のセキュアライン、世界で最も安全とされるはずの通信機器の着信音だ。側近の一人が、まるで電気ショックでも受けたかのように飛び上がり、震える手でディスプレイを確認する。その顔から、さっと血の気が引いた。
「だ、大統領閣下…!ホワイト宮殿からです…タコ王より、緊急回線に…!」
ニタニタフの独り言が、ぴたりと止んだ。ゆっくりと、錆びついた機械のように振り返った彼の顔には、奇妙な静けさが漂っていた。血走った瞳が、獲物を捉えた捕食者のように、爛々と輝きを増す。来た。ついに、最後の挑発が来たのだ。彼は、震える側近から受話器をひったくるように受け取ると、スピーカーモードに切り替えるよう、顎でしゃくった。シェルター内に、これから始まるであろう愚者と狂人の対話が、響き渡ることになる。
『やあ、ニタニタフ君!元気かね?こっちは最高さ!そうだろう、私が王なのだからな!』
スピーカーから響き渡るタコ王の甲高い声は、この密閉された狂気の空間にはあまりにも不似合いなほど能天気だった。ニタニタフは何も応えず、ただ受話器を握りしめる。
『聞こえているのかね?まあいい。実はだ、もうすぐ私の素晴らしい王位就任一周年記念レセプションなんだよ。もちろん、世界一のパーティーだ!世界中から重要な人間だけが集まる。そこでだ、君も特別に招待してやろうと思ってね。どうだ、光栄だろう?もちろん、手ぶらで来るんじゃないぞ?君の国のあの有名な、ピリッと辛いスパイスでも山ほど持ってくるといい。私の宮殿のシェフが、世界一の料理に仕上げてくれるだろう!ああ、それとだ!これが本題なんだがね!』
タコ王の声は、ますます熱を帯びていく。それは、自分の偉大さを誰かに語りたくてたまらない子供の興奮そのものだった。
『君のところに、私が売ってやった最新鋭のミサイルがあるだろう?あれ、ちゃんと整備はできているのかね?パーティーの余興に、一つどうだろう?どこか適当な、そうだな、誰もいない海の真ん中の島にでも一発、ドカーンと打ち上げて見せたら、皆、大喜びすると思うんだがねぇ!ハッハッハ!どうだ、この私の天才的な頭脳から生まれた、最高のアイデアだろう?我がコメ国の技術力の宣伝にもなるし、君も私のパーティーに花を添える栄誉にあずかれる。まさにウィンウィンというやつだ!さあ、どうするね、ニタニタフ君!』
しん、とシェルターが静まり返った。タコ王の無邪気な、そして致命的に愚かな提案が、ニタニタフの脳内で、最後のパズルのピースとして、カチリと音を立ててはまった。
余興だと?無人島だと?これは挑発だ。いや、最後通牒なのだ。世界中の指導者の前で、シオ国の軍事力を「見世物」として差し出せと言っている。断れば臆病者と嘲り、実行すれば我が国の切り札を白日の下に晒すことになる。どちらに転んでも、コメ国の思う壺。そうだ、全ては繋がっていた。エロンの茶番劇も、国際社会での孤立も、全てはこの日のために、この私を追い詰めるための壮大な罠だったのだ!
ニタニタフの顔から、人間的な感情が全て抜け落ちていった。代わりに、氷のような冷徹さと、神の天罰を代行するかのような、歪んだ使命感がその瞳に宿った。彼はゆっくりと受話器を置くと、身じろぎもせず立ち尽くす側近たちに、静かに、しかし地獄の底から響くような声で告げた。
「全戦略核ミサイル、発射準備」
側近の一人が、ひっと息を呑んだ。
「だ、閣下、しかし、それは…」
「目標、コメ国首都。ホワイト宮殿および主要都市」
ニタニタフは、反論を許さなかった。彼の視線は、もはやこの場にいる誰をも見てはいなかった。彼の目には、愚かな王が支配する不浄の国を、聖なる炎で浄化する未来だけが映っていた。
「最終発射シーケンスに移行せよ。これは命令である」
シェルター内に、破滅へのカウントダウンを告げる無機質なアラームが鳴り響き始めた。それは、一人の人間の被害妄想が、世界そのものを道連れにする、終末のファンファーレだった。
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