第8話 暴君の自由と愚者の終焉
# 第2幕 愚者の狂宴 ## エピソード5「暴君の自由と愚者の終焉」
ホワイト宮殿の執務室は、主を失った寄生虫の抜け殻のように静まり返っていた。いや、正確には、寄生されていた宿主が、その寄生虫を力ずくで引き剥がした後の、解放感と全能感に満ちた静寂であった。タコ王は、巨大な革張りの椅子に深く身を沈め、満足げに天井を眺めていた。目の前のテーブルには、彼が愛飲する炭酸飲料の空き瓶が林立している。
「見たか、パンス。私の偉大なる決断を。エロンという名の害虫を駆除したことで、我がコメ国は真の輝きを取り戻したのだ。空気がうまい!光が眩しい!すべてが私のものだ!」
タコ王は両腕を大きく広げ、まるで世界を抱きしめるかのように叫んだ。その隣で、腹心のパンスは、感情の読めない微笑を浮かべながら、恭しく頷いている。彼の役割は、王の言葉を肯定し、その愚行を現実の政策へと翻訳することだ。諫めるという選択肢は、彼の思考回路には存在しない。
「まさしく、王の英断です。これでコメ国を阻むものは何もなくなりました」
「そうだとも!ブレーキのない車こそが最速なのだ!これより、世界は我がコメ国のルールに従うことになる。気に入らない国には、コメ国製の最新型スマートフォンはおろか、最高に美味いポテトチップスすら売ってやらん!いや、違うな。買わない自由など与えん!我が国の製品をすべて買い、我が国の文化を崇拝させるのだ!それがグローバル経済というものだろう、パンス!」
タコ王のIQの低さから繰り出される経済理論は、もはや経済学の範疇を超え、純粋な暴力と欲望の表明となっていた。彼はすぐさまソーシャルメディア「トゥイトゥアー」を起動し、震える指で幼稚な脅迫文を打ち込み始めた。『小国ドコカのヘタレ大統領へ。我が国の自動車を100万台買え。さもなくば、お前の国の港を我が国の最新鋭空母で封鎖する。返事は24時間以内だ。#コメ国がナンバーワン』。投稿ボタンが押されると同時に、世界中の証券取引所で原因不明のパニック売りが始まった。
国際社会の均衡は、一人の愚かな王の指先から、砂上の楼閣のように崩れ落ちていった。各地で小規模な紛争が頻発し始めると、タコ王は目を輝かせた。彼にとって、戦争は最大のビジネスチャンスに他ならなかった。
「パンス、聞け。オソロ国とキユウ国がまだ揉めているそうだな。よし、両方に武器を売れ。だが、キユウ国には少しだけ性能の悪いやつを売るのだ。そうすれば、プチン大帝も喜ぶだろう。シオ国のニタニタフにもだ。奴は被害妄想が激しいからな、『隣国があなたを狙っている』と囁いてやれば、我々のミサイルを言い値で買うだろう。倫理?そんなものはインテリの戯言だ。力こそが正義!金こそが真理なのだ!」
タコ王の自己中心的な思考は、世界の破滅を加速させる燃料となり、国際情勢という名の巨大なエンジンに絶え間なく注ぎ込まれていった。子供たちが観るアニメ番組の途中、臨時ニュースが流れ、どこかの国で子供たちが瓦礫の下から泣き叫びながら運び出される映像が映し出された。コメ国のリビングで、一人の少年がポテトチップスを食べる手を止め、画面を食い入るように見つめていた。「パパ、あのミサイル、うちの国が作ったやつだよね」。父親は何も答えられず、ただリモコンでチャンネルを変えるだけだった。絶望は、静かに、しかし確実に人々の日常を侵食していた。
その頃、コメ国を追放され、故郷であるナンア国へと強制送還されたエロンは、性懲りもなく自身の夢、いや、麻薬によって肥大化した妄想を追い求めていた。赤茶けた大地の広がる砂漠の真ん中に建てられた、錆びついたプレハブ小屋。そこが彼の新たな王国であり、宇宙開発の拠点だった。
「ククク……見ていろ、タコめ……。お前が地上の泥濘で幼稚な王様ごっこに興じている間に、この私は、天へと昇るのだ。絶対的な高みへとな!」
麻薬で瞳孔が開ききったエロンは、壁に貼られた設計図らしきもの――実際にはインクの染みが飛び散っただけの巨大な紙切れ――を指さし、狂ったように笑い声を上げた。彼の周りでは、日雇いの技術者たちが、彼の支離滅裂な指示に呆れ果てながらも、金のために作業を続けている。彼らが組み立てているのは、自身の名を冠したロケット「エロン一号」。それは、近代科学の粋を集めた精密機械というよりは、子供の工作をそのまま巨大化させたような、不格好で不気味な代物だった。
「この『エロン一号』は、私を火星へと導く聖なる方舟なのだ!そこでは私が唯一神となり、新たな人類を創造する。もちろん、私と、私の選んだ美女たちだけでな。多妻制は当然の権利だ。いや、全宇宙の義務とする!ハハ……フハハハハハ!」
彼の高笑いが、がらんどうの工場に虚しく響き渡った。彼は本気で、このブリキの玩具が自分を約束の地へ運んでくれると信じていた。反知性主義の蔓延が生み出した怪物は、コメ国だけでなく、ここナンア国の砂漠の果てでも、自らの破滅に向かって猛然と突き進んでいたのである。
そして、運命の日が訪れた。
ホワイト宮殿では、タコ王の王位一周年を祝うレセプションの準備が、華やかに、そして空虚に進められていた。金の装飾が施されたテーブルには、世界中から収奪した最高級の食材が並べられ、愚かな王の権威を無言で飾り立てている。
その日、ナンア国の砂漠から、一本の光の筋が天に向かって突き刺さった。「エロン一号」の打ち上げである。エロンは、ガタガタと激しく揺れる操縦席で、恍惚の表情を浮かべていた。しかし、その至福の時間は長くは続かなかった。打ち上げからわずか数分後、ロケットは凄まじい音を立ててきしみ始め、制御を失い、美しい放物線を描きながらコメ国の方角へと落下を始めた。
ホワイト宮殿のバルコニーで、シャンパングラスを片手に夜景を眺めていたタコ王は、夜空を切り裂く一筋の閃光に気づいた。それは流れ星にしてはあまりに大きく、そして不吉な輝きを放っていた。閃光は、ホワイト宮殿のちょうど真上で、巨大な花火のように爆ぜた。轟音と衝撃波が宮殿を揺らし、豪華なシャンデリアが砕け散る。
「敵襲か!」とパンスが叫ぶ。だが、タコ王は微動だにしなかった。彼は、空からキラキラと降り注ぐ金属の破片を、まるで感傷に浸るかのように見上げていた。
やがて、側近が駆け寄り、息を切らしながら報告した。 「陛下!たった今、ナンア国から情報が!エロン氏の乗ったロケットが、打ち上げに失敗し、当宮殿上空で爆発した模様です!」
その報告を聞いても、タコ王の表情は変わらなかった。彼は一瞬もセンチメンタルになることなく、ただ、ふん、と鼻を鳴らした。
「見たか、パンス。あれは神の裁きだ。いや、この私、タコ王の裁きだ!私という太陽に近づきすぎた、愚かなイカロスの末路よ!実に哀れな男だったな!」
彼は芝居がかった仕草で天を仰ぐと、今度は悪魔的な笑みを浮かべてパンスに向き直った。
「しかし、これは好都合だ。これで世界から一つの脅威が消え去った。これは偉大なる平和への、大きな、大きな一歩に他ならん!そうだ、パンス!直ちにノーベル財団に連絡しろ!今年の平和賞は、この私が受賞することで決定したと、そう伝えるのだ!異論は一切認めん!」
語り手は、ただ冷徹に、この茶番劇を記録するのみである。空からは、愚者の夢の残骸が、まるで汚れた雪のように降り注いでいた。誰も気づいてはいなかったが、そのきらめきの下で、タコ王が世界中に売りさばいた無数の兵器が、新たな紛争の火種として静かに燻り始め、やがて世界を焼き尽くす巨大な炎へと変わっていくことを。破滅へのカウントダウンは、今この瞬間も、着実に進んでいた。
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