9話 静かなる復讐の調べ

佐藤美咲は、数字の羅列を打ち込む無機質なタイピング音に紛れ、気配を消していた。派遣社員として座るデスクは、フロアの隅。誰からも注目されず、誰の記憶にも残らない、風景の一部となるには最適な場所だった。彼女の観察眼は、しかし、このオフィスという名の閉鎖水槽を泳ぐ魚たちの生態を、冷徹に捉え続けていた。正社員たちが交わす噂話、派閥の力学、そして時折、話題に上る『高橋マネージャー』という名の捕食者についての断片的な情報。そのすべてが、彼女の脳内で静かに記録され、分類されていく。エレベーターの鏡に映る自分の顔に表情がないことを確認するのは、もはや彼女の習慣だった。感情は、計画のノイズになる。

終業のチャイムが鳴り、人々が安堵の仮面を浮かべてオフィスを去っていく。美咲もまた、その流れに逆らわずにビルを出た。しかし彼女の足は帰路ではなく、古書の街、神保町へと向いていた。アスファルトに反射するネオンが、彼女の影を長く歪ませる。目的の古本屋の軋むドアを開けると、紙とインクの、時間が堆積したような匂いが彼女を迎えた。兄が好きだった場所。兄が遺した数少ない趣味の一つ。彼女は実用書や自己啓発本の棚には目もくれず、詩集が並ぶ一角で足を止めた。そして、一冊の本を手に取る。兄が最期まで枕元に置いていた詩集と同じものだった。ページをめくると、インクの匂いに混じって、忘れようとしても忘れられない記憶が蘇る。

自室のアパートに戻ると、美咲はスイッチを入れるように、派遣社員・佐藤美咲の仮面を脱ぎ捨てた。四畳半の部屋の壁は、一枚の巨大な蜘蛛の巣と化していた。中央には高橋健司の顔写真。そこから無数の線が伸び、彼の経歴、学歴、社内での評判、同期である田中誠との関係、不倫相手である伊藤恵子の素性、そして彼のSNSの投稿時間や内容の分析、行動パターンまでが、びっしりと書き込まれている。執念が可視化された、呪詛の曼荼羅。

彼女は机に向かい、古びた日記帳を開いた。兄の遺品だ。几帳面な文字が並ぶページを指でなぞり、ある箇所で止める。

『高橋マネージャーに「君は会社にとってただのコストだ」と言われた。心が折れた』

たった一行。しかし、そこには兄の絶望のすべてが凝縮されていた。美咲の脳裏に、兄の葬式で親族が吐き捨てた言葉が木霊する。「結局、この社会では弱い者は淘汰されるだけなんだよ」。それは高橋健司が信奉する結果主義と、恐ろしいほどに共鳴していた。

違う。兄は弱かったのではない。ただ、優しすぎただけだ。人の痛みに敏感すぎただけだ。ならば、その痛みを、言葉を凶器にする人間に、教えてやらなければならない。

「人の痛みは、経験した者にしか本当には理解できない……。高橋健司、あなたは自分の言葉がどれほどの重力を持つか知らない。あなたの吐き出した一言が、ひとつの世界を、ひとつの命を、押し潰すほどの重さを持つことを。だから、教えてあげる。あなたの築き上げた完璧な世界が、あなた自身の言葉の重みで崩れ落ちる瞬間を、あなた自身に見せてあげる」

独白は祈りのようであり、呪詛のようでもあった。美咲は左手首につけられた、兄の形見である「赤い糸のお守り」を、指先が白くなるほど強く、強く握りしめた。そしてパソコンのモニターに向かう。そこには、彼女が時間をかけて育ててきた、十数個の匿名SNSアカウントが静かに並んでいた。それぞれに異なる人格と背景が与えられた、復讐のための兵士たち。

彼女の目的は、高橋健司が人生の絶頂に立つ、その瞬間に、彼が兄に与えた痛みを、何倍にもして突き返すこと。運命の糸は、彼女の手によって、今まさに、断頭台の罠へと編み上げられようとしていた。タイピングの音だけが、静かな部屋に不気味に響き渡っていた。

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