第8話 打ち捨てられた歯車
同時刻。高橋健司が手にする成功という眩い光は、その裏側に濃い影を落としていた。
鈴木一郎は、カーテンを閉め切った自宅の薄暗い部屋で、ただ壁の一点を見つめていた。時間が止まり、音が消えた世界。しかし、彼の耳の奥深くでは、あの朝の怒声が、割れたガラスの破片のように、際限なく反響し続けていた。
『お前ら無能のせいで俺の人生が狂ったらどう責任とるんだ!』
あの男の、すべてを焼き尽くすような侮蔑の眼差し。周囲の乗客たちが向けてきた、好奇と嘲笑の入り混じった無数のスマートフォン。それらが脳裏にこびりつき、呼吸を浅くする。
部屋の隅には、彼が長年愛情を注いできた模型列車を収めたガラスケースがある。誇らしげに並んでいたはずの車両たちには、薄らと埃が積もっていた。もう何日も、触れていない。鉄道員だった亡き父から譲り受け、自身の誠実な勤務の証として毎日腕にはめていた腕時計も、今は机の上に無造作に置かれている。それを見るたびに、仕事への誇りを、人生そのものを踏み躙られたあの瞬間の無力感が、胃の腑からせり上がってくるようだった。
「あなた…」
ドアの隙間から、妻が心配そうに声をかける。その声すら、彼にはガラス越しのように遠く聞こえた。心療内科の医師が告げた「PTSD」という言葉が、診断書の上で冷たい活字として鎮座している。彼はただ、無力感に苛まれ、壊れてしまった歯車のように、ただそこに存在することしかできなかった。
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その頃、大手コンサルティングファームのガラス張りのオフィスで、高橋健司は支配者として君臨していた。眼下に広がる都市のパノラマは、彼が手に入れた世界のミニチュアだ。
「このデータ、まだか。君の仕事は非効率なだけじゃない、俺の時間を奪っているんだ。理解できるか?」
冷徹な声で部下を叱責し、苛立ちを隠しもせずに指でデスクをリズミカルに叩く。彼の指揮する「クロノス・プロジェクト」の成功は、彼の社内での権威を絶対的なものに変えていた。誰も彼に逆らわない。彼の言葉は神託であり、彼の判断は常に正しいとされていた。
そこへ、人事部の担当者が神妙な面持ちで近づいてきた。
「高橋マネージャー、少々よろしいでしょうか」
「何だ。見ての通り、忙しい」
「朝霧中央線の件で、鉄道会社の労働組合を通じて、こちらに正式な投書が…」
担当者が差し出した書類を高橋は億劫そうに受け取った。そこには、駅員・鈴木一郎が精神的な不調で休職に至った経緯と、高橋の言動がその一因である可能性が、抑制された事務的な言葉で綴られていた。
高橋は書類に一瞥をくれただけだった。鈴木一郎という名前には、何の感情も動かない。記憶の引き出しの、最も奥深く、ゴミ溜めのような場所に放り込まれた無数の顔の一つに過ぎなかった。
彼は、ふん、と鼻で笑うと、言葉を放った。
「自己責任だろう。それがどうした? 精神が弱い人間が、自分の限界を弁えずに現場に立つから、そもそもああいう遅延が起きるんだ。ストレス耐性も職務能力のうちだ。脆弱な個人に配慮することが、組織全体の生産性をどれだけ毀損するか、君にも分かるだろう。俺のキャリアに、そんな取るに足らない人間の不始末で傷をつけろとでも言うのか」
その言葉は、反論を一切許さない絶対者の宣告だった。担当者は青ざめ、ただ「しかし…」と口ごもるのが精一杯だった。高橋はまるで汚物でも扱うかのように書類をつまむと、デスク脇のシュレッダーにゆっくりと差し込んだ。
ウィーン、という機械的な音が、高橋の冷酷な決断を肯定するように響く。細かく裁断された紙片が、まるで意味をなさなかった誰かの人生のように、静かにゴミ箱へと降り積もっていく。
彼にとって、鈴木一郎は視界にすら入らない、打ち捨てられた歯車でしかなかった。世界は自分を中心に回っており、その回転に追いつけない者は、ただ振り落とされ、砕け散るのみ。それが、高橋健司の世界の法則だった。
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