5話 仮初めの戴冠

【高橋 健司:プレゼンテーション会場】

スポットライトの白い光が、高橋健司の身体を聖別するかのように照らし出していた。遅延という不測の事態で乱れた呼吸も、イタリア製のスーツの僅かな皺も、彼の完璧なパフォーマンスの前では些細な瑕疵にすらならなかった。むしろ、逆境を乗り越えてこの場に立つ英雄というスパイスとして機能している。

「――以上が、我々が『クロノス・プロジェクト』によって描く未来です。これは単なる事業計画ではない。市場を、ひいては人々の生活様式そのものを再定義する、革命の設計図なのです」

彼の声は、静まり返った役員会議室に自信と熱を帯びて響き渡る。レーザーポインターが示すグラフの数字、洗練されたスライドのデザイン、そして何より、全てを掌握しているという絶対的なオーラ。役員たちは、彼の言葉に、その目に宿る力に魅了されていた。質疑応答では、どんな鋭い質問も、彼の圧倒的な分析力とロジックの前では、子供の問いかけのように無力化されていった。

結果は、満場一致での承認。拍手の渦の中で、高橋は静かに目を閉じ、万能感という名の甘美な毒が全身に染み渡るのを感じていた。朝の苛立ち、駅での醜態、それら全てはこの勝利のための必要経費だったのだ。そうだ、結果が全てだ。途中のプロセスで誰かを踏みつけようが、ルールを少し曲げようが、最終的に勝者が歴史を創る。それがこの世界の真理なのだ。

【鈴木 一郎:駅員休憩室】

同時刻。朝霧中央線の駅員休憩室は、蛍光灯の光が白々しく壁のシミを照らし、淀んだ空気が満ちていた。鈴木一郎は、パイプ椅子に深く腰掛けたまま、プラスチックの机の上の一点を見つめていた。同僚が気遣わしげに置いた紙コップのコーヒーからは、既に湯気が消えている。

耳の奥で、あの男の甲高い罵声が、無限ループのように再生される。「お前ら無能のせいだ!」。衆人環視の中で剥ぎ取られた尊厳。スマホを向ける無数の黒いレンズ。それらが脳裏に焼き付いて離れない。何十年も、この仕事に誇りを持ってきた。亡き父から譲り受けた腕時計に誓い、乗客の安全という使命だけを胸に、理不尽なクレームにも頭を下げ続けてきた。だが、今日、何かが決定的に壊れてしまった。

震える手で、コーヒーカップを持ち上げようとする。だが、指先は意思に反して痙攣し、カップを揺らすだけだ。ガチャン、とプラスチックが擦れる乾いた音が、やけに大きく響く。彼は諦めて手を下ろした。趣味の模型列車も、集めてきた鉄道写真も、今はもう色褪せて見える。誇りだったはずの制服が、今は自分を縛る囚人服のように重かった。

【田中 誠:オフィス】

高橋のプロジェクトが承認されたという報せは、すぐに社内を駆け巡った。祝福と賞賛の声がフロアに飛び交う中、田中誠は自席で虚空を見つめていた。彼のデスクの上には、外部からは見えないように置かれた手帳が開かれている。その中には、少し黄ばんだ一枚の名刺が挟まっていた。社会人になった最初の年に、高橋と交換したものだ。

「いつか二人でこの会社を動かそうな」。そう言って笑った親友の顔が浮かぶ。あの頃の彼は、野心と同時に、仲間を思いやる繊細さも持ち合わせていたはずだ。いつからだ。彼が結果だけを追い求め、他人の痛みに鈍感になってしまったのは。

「やめろ、健司!」

ホームで叫んだ自分の声が、無力に響く。獣のように自分を振り払った彼の目。それは、かつて出世の邪魔になる部下を冷酷な決断で切り捨てた時と同じ、氷のような光を宿していた。俺は止められなかった。いや、止めようとしなかったのかもしれない。彼の才能に嫉妬し、その暴走をどこかで見て見ぬふりをしていたのではないか。自己嫌悪が、じわりと胸に広がる。友情という名の絆は、もう修復不可能なほどに引き裂かれてしまったのかもしれない。

【佐藤 美咲:アパート】

古びたアパートの一室。佐藤美咲は、PCのモニターが放つ青白い光を浴びながら、淡々とキーボードを叩いていた。壁には、兄の遺品である本やCDが整然と並び、その一角に、彼女が創作したであろう短歌の短冊が数枚貼られている。

彼女は、スマホから動画データをPCへと転送する。画面には、高橋健司が駅員に罵声を浴びせる一部始終が、手ブレもなく鮮明に記録されていた。その映像を、彼女は能面のような無表情で見つめる。兄の日記に記されていた「心が折れた」という短い言葉。葬式で親族から浴びせられた「弱い者は淘汰される」という無神経な慰め。それらの記憶が、彼女の中で静かな炎となって燃えている。

手首につけられた「赤い糸のお守り」を、彼女は指でそっと、なぞった。これは兄がくれた、最後の贈り物。この赤い糸は、縁結びではない。因果を結ぶ糸だ。彼女は新しいファイルを作成し、名前を付けた。『ディレイ・エフェクト』。そして、文書ファイルに最初の計画を記す。「第一段階:『王』の戴冠を待つ。最も輝く瞬間に、最も深い闇を見せる」。

【高橋 健司:タワーマンション】

勝利の祝杯を終え、高橋はタワーマンションの自室に戻った。眼下に広がる東京の夜景は、まるで彼の成功を祝福するために輝いているかのようだ。彼はイタリア製のスーツを脱ぎ捨て、解放感に浸る。その時、スーツのポケットから、カサリと乾いた音を立てて何かが床に落ちた。

それは、人混みの中で拾い上げた、汚れた小さな布の塊だった。「赤い糸のお守り」。忌々しい遅延の記憶を呼び起こすそれに、彼は一瞬だけ眉をひそめた。だが、今の彼にとって、そんなものはどうでもいい。彼はそれを足で隅に蹴りやると、シャワーを浴びるためにバスルームへと向かった。

忘れ去られたお守りは、部屋の隅の闇の中で、まるでこれから始まる長い転落劇の不吉な幕開けを告げるかのように、静かに佇んでいた。

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仮初めの戴冠 - 電車遅延の影響 - 誰でも作家life