第4話 共犯者の囁き
奪い取ったタクシーの硬いシートに深く沈み込み、高橋健司は乱れた呼吸を整えていた。アドレナリンが血管を駆け巡り、耳の奥で心臓の鼓動が不規則なリズムを刻んでいる。ホームで浴びせた罵声、振り払った親友の腕、人波をかき分ける感触。それらが不快な残滓となって肌にまとわりつくが、それ以上に、自分の意のままに障害を排除したという高揚感が全身を支配していた。窓の外を、無個性なビル群が猛烈な速度で後ろへと流れていく。まるで、彼の前進を阻む全ての過去を置き去りにしていくように。
彼はスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで短縮ダイヤルをタップした。呼び出し音が数回鳴った後、甘く、計算された響きを持つ声が鼓膜を揺らす。
「もしもし、健司?どうしたの、こんな時間に。プレゼンは?」
不倫相手、伊藤恵子の声だ。高橋は口の端に支配者の笑みを浮かべ、先程の出来事を武勇伝のように語り始めた。電車の遅延、無能な駅員、そして自分がどうやって状況を打開したか。彼は自分の行動を、危機的状況におけるリーダーの的確な判断として粉飾し、その手腕を誇示した。
電話の向こうで、恵子は甲高い声で笑った。その笑い声は、高橋の胸に燻っていた微かな罪悪感の残り火を、一瞬で吹き消す力を持っていた。
「あなたらしいわ、健司。最高じゃない。それでこそ、私が選んだ男よ」
「……そうか?」
「当たり前じゃない。いいこと、健司?この世界はね、ルールを作る側とそれに従う側、奪う側と奪われる側にしか分かれていないの。あなたはいつだって奪う側で、ルールを作る側にいなくちゃダメ。私はね、貧しさの中で育ったからよくわかるのよ。綺麗事や優しさなんて、持てる者の欺瞞でしかない。そんなものは、何の役にも立たないガラクタなの。本当に欲しいものを手に入れるためには、時に誰かを踏みつけなければならない。それが真実よ」
恵子の言葉は、滑らかで、抗いがたい魔力を持っていた。彼女もまた、大学時代に裕福な友人に受けた屈辱的な同情や、社会に出て味わった挫折から、「負け犬にはなりたくない」「傷を受ける前に捨てる」という信条を築き上げた人間だった。高橋の持つ社会的地位と経済力は、彼女にとっての安全地帯であり、彼の非倫理的なまでの野心は、その地位を確固たるものにするための頼もしいエンジンに見えた。
「凡人はね、強い人間のための踏み台なの。彼らはそうやって誰かの役に立てるんだから、むしろ感謝すべきなのよ。あなたのその冷酷なまでの決断力、他人を顧みない強さ、それこそがあなたの価値であり、最高の魅力だわ。だから、何も迷うことなんてない。あなたはあなたの道を、王として進めばいいの」
その言葉は、悪魔の福音だった。高橋の内で、最後の理性の欠片が音を立てて砕け散る。そうだ、俺は間違っていない。俺は選ばれた人間で、凡人どもとは違う。田中誠のような感傷的な男には、この高みからの景色は決して見えはしない。俺は勝者であり、勝者は常に正しいのだ。
高橋は完全に自信を取り戻していた。タクシーは首都高速の合流に乗り、眼下に広がるコンクリートの河を滑るように進んでいく。灰色だった景色が、まるで彼の勝利を祝福するかのように輝いて見えた。プレゼン会場の近代的なビルが視界に入った時、彼は自分がまさに凱旋する将軍であるかのような万能感に酔いしれていた。スーツのポケットの奥底で、先ほど無造作にねじ込んだ「赤い糸のお守り」が、その存在を忘れ去られたまま、不吉な熱を帯びていくのを、彼は知る由もなかった。
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